ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

selfbuilding

▼第一章 生命空間を求めて (外洋ヨットの自作と航海の記録 1982-8)

[1] ヨットの自作 1982~3

1 決断 

(1)テ-マ

スパロークラス

10代後半部は小さなヨットを自作し、よくその意味も解からずに、雨の日も風の日も帆走していた。

もちろん社会のこともよく解からず、いろいろな激動はあったのだが、ぼやっと遠くのほうから眺めていた。学校は高校に入ってすぐに中退した。それはあまりにも私の内的な要求そしてその働きとかけ離れていた。それに比べて船と海は、自由と面白さ、希望に満ち溢れていた。

そして32才になったとき、少年のころの海に対する小さな夢から始まったものは成長し、一つのまとまった計画となって現れた。

小さな外洋ヨットを建造し、水平線のかなた、どこまでも航海する。それは避けられないもののようであった。ノ-トの上に繰り広げた探検ネットの上で決断した。「どうしても行かねばならない。」そう受け入れざるを得なかった。

さらに、その内容の全体像を求めてKJ法でまとめた。そこには、自然と文化という大きなシンボルが現れた。この二つの言葉こそは一つの生命空間として、最後には射止められるものだった。
私を引きつけてやまない自然、その自然と基本的なところで対立しているような文化、その自然を直接訪ね、様々な文化を直接訪ねる。
私の追い求めるものは、たやすく捉えられそうで捉え切れない、ほとんど諦めざるをないような、当てのない旅の果てにあるように思えた。
だが、ほんとうのところを見たい、その真実の姿をこの手でつかみたい、それは極めて切実な願いであった。

■探検ネット (参)発想法 川喜多二郎著 中公新書。
■KJ法 発想法のひとつ。混沌とした様々の情報の示すところに従って、未知の世界を捉える方法。信頼性の高い仮説の発想も得られる。(参)KJ法 川喜田二郎著 中央公論社

(2)方法

勝算が無いわけではなかった。

追い求めるものを仕留める道具と方法は開発が始められていた。KJ法(そして探検ネット)は、そこに何かあると感じながらどうしても捉え切れない、極めて多様でそして複雑なこの世界の渾沌を捉えるには強力な道具であり、様々な場面に応用されるべく着々と完備されつつあった。私も基礎的な研修を受け、確かな手応えを感じていたのである。

また、一方のフィ-ルド(現在住んでいる社会から、大自然や様々の文化が存在する場に出るという意味で)になる海へ出るためのヨットは、冒険的な段階はすでに終え、高い航海性能を備えるに到っていた。

そして小さなヨットの航路は、世界中に開かれた段階に達していた。10代後半部からの、いくつかのヨットやカヤックの自作と航海の数年間によって、基礎的なシ-マンシップは備えており、注意深く航海するなら世界の各地を訪ねることができるだろう。

■シーマンシップ 船乗りに必要な技能、精神的な意味合いは無いとされている。

このように、主要な道具であるKJ法とヨットは、極めて基礎的なものではあるが訓練は済んでいた。
そしてこれらは私の内的な要求と偶然の出会いによってもたらされ、この計画にまとまってきた。それはまるで、私を越えた状況によって計画されたもののようであった。

2 具対策

(1)的を絞る

小さなヨットを建造し、はるか水平線のかなた、見知らぬ海、見知らぬ街まで姿かたちのはっきりしないものを追う。

この計画を現実のものとするには、相当な絞り込みをしなければならなかった。誰かに援助を求めることは難しかった。私のテーマそのものがそれを難しくしたと思う。結論(情勢判断)は、背伸びは禁物、自分の持てる力の範囲内、それも余裕のあるところで進めるというものだった。

この時期の私は、外から見ると何も考えず何もしないような感じであり、ただ黙々と働き生活をした結果、建造資金300万円が知らないうちに貯まっていた。
それに、この計画を絞り込むということに心残りはなかった。ぼんやりと次のステップを感じており、今は的を絞ってそれを射止めることこそやるべきことと考えられた。

夢のままに計画を大きくして、計画に討ち取られてはならない。もう一回はないものと考えた。

(2)具対策

目標を定め、これによって細部までデザインする。

これは当然なことではある。だがこの仕事はしっかりとなされないことも多い。われわれは目標を見失いやすいばかりか、それを見定めることもなかなか難しい。今やるべき優先課題をはっきりしえず、なにもかも取り込むことをしてしまう。

私の場合は、もう一回はないという切実さが、一つの仕事だけ、しかも小さくやさしいところに的を絞らせたと思われる。この非常に多様な条件の中において仕事が設定されるということは、誰にとっても個性的な仕事のやり方があることを予想させる。
そしてこれは、私のテ-マに直接かかわる重要なことであると思われた。

自分の現在の力に添ったものなら実現できる。
そう考えたうえで、その目標と具対策をKJ法でまとめた。それは、まず大洋航海を主にする。これは自然にどっぷりと浸りたいものであったから当然である。航路は偏西風帯を東へと走る。少年の頃に憧れた貿易風帯は、この時の私にはふさわしくないものに感じた。航路はおおむね常に追い風になり、これは昔の帆船航路を利用することでもある。当然ながら寄港地も絞り込むことになるが、その少ない中で多様な文化、民族となるように配慮する。そして少なくとも一カ所は長逗留する。もちろん寄港地はその時々に決めていく。

期間は数年間を予想した。その間に、今は姿かたちのはっきりしないもの、これを射止めることができなければどうするか。そのときは世界一周という航海を成し遂げるだけに甘んじることになるかもしれない。だがこれは実際上、難しい問題になるだろう。そう簡単に最優先課題を捨てられるわけはなく、かといって迷っていれば危険な状態に陥る。しかし、それ以上の年月は考えることができなかった。
とにかく見込みのないままさ迷うことだけは避けねばならないだろう。

航海に出るための船は自作とする。

これは自作に親しんできたものにとって極めて自然なことだった。自作は海や帆走と同じように強く心を引きつけるものがある。
だがいつものことであるが、このときも自作を避けようとする心が働いた。この働きは一時強く心を覆ってしまうが、今回もずいぶん暴れたあと引き下がっていった。この問題は、この航海中ずっと考えていく、私の左キキに深く関係しているように思う。
だがいったん取りかかれば、自作は大変面白い仕事である。それに、自作には特別の意味が感じられた。あの大海原で生きる、あの鳥や魚の体を作る仕事なのである。あのマグロやアホ-ドリの素晴らしい体、あの研ぎすまされた体そのものを作る、その仕事なのである。

さて、船の建造においても的を絞ったところがある。
それは、設計あるいは様々な艤装品の製作といったことには深入りをしないようにした。つまり理想や極端に走ることを避けた。たとえやりたいということであっても、決して今するようなことではない。
よってどのような船にするかも、その的は容易に絞ることができた。あのマグロの体を作るのであるから、形の正確さ、強度、耐久性は一級とする。その他のこと、例えば工芸的な美しさといったことは求めず、全て製作の速さを優先させる。

大きさは長さ7~7.5mとする。

もっと小さくても実績があるのだから、それに比べればかなりの余裕がある。性能、積載量、生活空間それら全てに余裕がでる。手持ちの資金の面からも確実に作れる大きさであり、仕事の量も1~1年半の期間で済む。
もしここで、大きさを長さ8~9mというもう一段階上の、それは大変魅力的な大きさなのであるが、この大きさにしたらどうだったろうか。この1mほどの違いは1.5~2倍の資金や労力の違いになって現れるかも知れないものである。たぶんもっと大きなものになるだろう。やはりここはできる限り小さくしておくべきだろう。

■小さなヨットの実績 小さな外洋ヨットの草分けソプラニ-ノ号(1952)も、単独太平洋横断で有名な堀江謙一さんのマ-メイド(1962)も全長6m前後、自作艇で単独世界一周した青木洋さんのあほうどり(1971)が全長6.4mであり、その他たくさんの例がある。

また、自然や文化を直接訪ねるということのために、さらに何らかの知識を身に付けるといったことはやめることにした。そのようなことをする時間があったら、一刻も早く飛び出したかった。本来の私、生命そのものである私が求めているのであり、これを信ずるより他にない。だからこそ直接訪ねるのである。今は何らかの知識を得る時ではなく、たとえそれらが必要だとしても、後にしたほうがずっといいように思った。

3 建造(1982/05/01~1983/11/03)

(1)7.3mガフカッタ-

7.3mガフカッター

船はいくつかの候補の中から、7.3mカッタ-(設計1981年)を選んだ。
船もまた私の計画と同じように、目標とするものの達成ために、様々の要素が一つの的に向かって形になっていなくてはならない。全体のデザインから細部までが、目標に添っていなければ十分な成果をあげることが危うくなる。
この船は、もともと単独でも長距離航海ができることを目標に設計されたものであり、それは私の航海にふさわしいものと考えられた。
この船の設計者は横山晃さんであり、野性を取り戻すことが海で生き残るための最善策という、氏の考えが形になったものと思われた。それはまた、スポ-ツとしての帆走とはまるで趣を異にするものであり、一度飛び出したら、自然の中の鳥や魚のように自力で生き残るものでなければならない。船の性能や性格を決める様々の要素が、生き残るために形になっていなくてはならない。操船は楽なものでなくてはならず、ほっておいても船みずからが走っていくものが望ましい。そしてそれらは、いざというとき、すでに余地のない所で、疲れた心身によってでも前に進むものでなくてはならない。マグロが自分の体を持て余すようでは良くないし、支援はその場からのものでなくては自然の目指すところではない。
そしてこの自然の体制こそはこの旅で知りたいことでもあった。

■横山 晃さん 有名な堀江謙一さんのマ-メイド(キングフィッシャークラス)の他、多数の世界一周艇を設計している。著書に「ヨット工作法」、「ヨットの設計」がある。舵社。

7.3mカッタ-とあるように、この船はカッタ-リグを採用してある。
これはマスト前方に、2枚の帆を上げられるようにしたものであり、帆の面積を小さく分割して扱える。つまり、風力を増したとき、帆の交換ではなく、2枚のうちの1枚を降ろすだけでよいことになる。しかし実際にはジェノアジブという微風あるいは軽風用の大きなジブセールを採用しているので、カッターリグといっても以前からのものとは少し違っている。フライングジブといったものをもう一枚用意すればいいのだが、これをしまうのにローラーリーフ式でなければ、船首部での作業が少し大変になる。私にはきつい仕事になるだろう。設計者も、単独航海の場合は帆の枚数を増やすことに反対だった。
インナーフォアステーに上げるステースルは、広い範囲の風に対応し常に使用することになる。荒天ともなれば、ステースルを荒天用のごく小さな帆ストームジブに交換する。また私は、ジェノアジブセ-ルをロ-ラ-リ-フ方式にしたが、これは帆の前縁に入れた6ミリのワイヤ-に巻き取る方式で、巻き取った後おもてのデッキにらせん状にして簡単に降ろすことができるものだった。これによって、強風のなかで開いてしまうといった大きなトラブルは避けられるものと思われた。

1mという浅喫水も大きな特長だろう。
高度な上り角度はもともと求めていなっかたし、それよりも、浅喫水による行動範囲の拡大は大変素晴らしいものだった。ごく小さな港の利用、海岸への接近が大幅に改善される。これはまた、荒天を乗り切るためにも有効に働くらしいが、これは実際に試すことになるのだろう。(表層流に乗ったときに、その下の動かない水に足を取られない?)

■上り角度 風上に向かって走れる角度のこと、一般的には45度といわれている。

また、高度な保針性能はなくてはならないものである。
これは自動操舵の内蔵といってもよく、船尾に取り付ける風力による自動操舵装置の負担を軽くし、これが壊れたときにもあわてずにすむ。これは船体後半部の船型の中に設計されており、スケグともあいまって高度なものを出すはずである。

■スケグ 舵の前部にある、船体に固定されたヒレ状のもの。

さて、私がヨットから離れていた10年ほどの間に、船型の開発はだいぶ進んでいたようであり、氏はサバニ船型としてまとめていた。それは同氏の著書「ヨットの設計」に詳しい。
また私は、同氏の設計であるスパロ-クラス(全長3.47m)という2枚帆のヨット、及び二人乗りのカヤックを十年ほど前に自作していた。

(2)パ-ト法

1982年5月に建造を開始した。
この日から、もちろんこの日以前の準備や材料の発注といったことからでもあるが、進水式までパ-ト法によって工程図を描いてあった。
この建造工程図を描くことによって、ほとんど手に取るようにその内容を理解した。実際に手を出す前に、机上演習をしていたということにもなる。この管理技術は、無駄を省き、余力を生み出し、それがさらに創意工夫の打つ手を増やし、短期日で高品質の船を手にするには欠かせないものだった。つまり、カンナやノコギリばかりでなく、管理の方にも優秀な道具を入れた。
それはまた、職人というだけなく、管理者あるいは指揮官の能力を目指すものといえるかも知れない。これまで開発された様々な道具、技術、この文化としての能力の問題、これも私の追い求めるテ-マに深く関わるものである。

■パート法 ネットワ-ク図を描く管理手法。(参)計画の科学 加藤昭吉著 講談社ブル-バックス。

KJ法の中にも取り入れられているパ-ト法は、1957年アメリカ合州国で開発されたものである。
この方法によって、材料が用意されていなかったために工事が中断するといった、初歩的な失策はほとんど避けることができた。
そしてまた、各仕事が独立した形で何本ものコ-スで描かれているために、体調、突発的なできごと、あるいはまた技術的な行き詰まりで考え込まざるを得ない事態、そして労働力の増減、これら様々な変化に対して自在な対応をすることができる。つまり、そのときの状況に対応して仕事を選び、切り替えることが容易にできるのである。

さらにこの図を、一日の仕事の、その流れの基礎的なデザインにも積極的に活かすことができた。つまり、昼の8時間は量をこなすことに徹底し、技術的な問題で作業が行き詰まることがあっても、そこでは決して立ち止まって考えるようなことはせず、すぐに他の仕事に切り換えることとした。この時、次に優先さる仕事は解かっているし、材料もほとんどのものが一次加工まで済ませて用意しておいたので、すぐに移行することができた。この一次加工は近くの小野寺ボートに頼み込み、3日間という短時間でやってもらった。

またこのことはもっと重い事態、例えば体調や精神状態がひどいときにも有効だった。このようなとき、気楽な仕事を選べることは大変貴重なものとなった。そして夜の時間は、面白い仕事、形が現れてくるので一時も早くやってみたいこと、このようなものにあてた。この夕食後のくつろいだ仕事によって疲れは癒され、しかも仕事は進むということになった。

この夜の仕事の中には、酒を飲みながらただじっと見つめるということにもかなりの時間をさいた。3時間も4時間もただじっと見つめる、頭の中には何を考えているわけでもなく、ほとんど無に近い状態で気持ちだけが充実していた。
それに、昼に行き詰まっていた仕事は、何日かするとポッといい考えがひとりでに浮かんできた。

また、この自作の出発時前後から不思議なと思うことが見え始めた。
例えば、偶然とは思えぬ人との出会いであり、生命活動は私を越えた大きな器で動いているようにも感じられた。
しかしそれは不思議なことでもなんでもなく、計画が一つの形となってこの世に生を受けたとき、その成長のために、正の創造的な関係がそこに起こっただけとも考えられる。つまり何らかの核があれば、普段は何も無く流れる社会の中で、小さな結びつきが起こる。

5月のさわやかな風とやわらかな陽光の中、建造場を探し、木材を見て歩くとき、健康の回復そして新たな力の湧くのを感じるとともに、この計画の成功の予感を得た。
そしてこの予感は、計画が進行するにつれて確信できるところまで高まっていった。もう私がやめようとしてもやめることができない、そのような事態の中にあることを感じたのである。

(3)木材

こんなにもたくさんの木を扱ったのは初めてだった。
私は合板製のヨットでもかまわなかったのであるが、設計者との手紙のやりとりで、細い棒状の部材を、接着剤と釘(抜け難いようにギザギザの付いたもの)で積み上げて船殻といったものを作る、ストリッププランキング工法というものに挑戦することになった。
木材は南洋材とした。ラワン材として売られているもので、その内容にはどれだけの樹種が交じっているのか解からないほど、多種多様な材質が見られた。
船を作るのであるから、赤味の強い頑丈なものをひいてくれるよういって、耳付き材1.5㎥を注文した。
建造を始めた1982年当時、ラワン材は大量輸入の峠を越えていたようだ。建造場所には、その製材工場の使われなくなっていた倉庫を借りた。また、海面いっぱいに浮いていたラワン丸太の風景もなくなっていた。そしてテレビでは、ラワン材をめぐる商社のドラマを写していた。
またラワン材は、造船材として一級ではないが広く使われていた。木の船が欲しければ、ラワン材が最も一般的なもとして私の前にあった。

製材所でできあがってきたものは、65%が望みのもの、残りは軽い、色もピンク系のものだった。
望みのものは美しく強く、その重みは耐久性を現わしているものと感じられ私の関心はいやがうえにもそちらにばかり向けられた。そのころ、ラワンは腐りやすいので木ではなく、草と悪口を言われていた。それで、本当に草みたいに軽い方のものはどうしたものかと思いわずらっていたのである。
しかし建造が進むにつれ、木造中古艇の修復の経験からいっても、これら軽いものでも使用する場所によっては、他のものには換えることができない長所を持っているものと認めざるを得なくなってきた。
腐る場所は決まっている。そしてその原因もよく解かっている。それは雨水であり、デッキまわりが集中的にやられてしまうのである。だからこれは工作上の、あるいは工法上の欠点といえなくもない。私の場合は自分のために作るのであるから、そこに防水のためのエネルギ-を注いでも自分に対して給料を払うようなものであるから、いっこうに構わない。それに内装工作には軽いものほど求められた。
毎日それら軽いピンク色のものを見ていると、使わなければならない、使いたいとだんだん思いが高じてきてしまった。曲げ試験や、ボルトの締め付けによる頭の沈み込みなどを調べても、少しも問題がなかった。それで、部材の木口は全てエポキシ樹脂で固め、その上でエポキシ接着剤を使って組み立てていくことにした。ステンレス製の木ねじを打つときも、防腐のためにエポキシ樹脂をつけてねじ込んだ。木ネジのまわりに、水分を集めバクテリアのためになる空間を作らないためである。もちろん木ネジによって木が割れないように、下穴は正確にあけた。設計図では接着仕様でないところも全て100%接着し、デッキまわりを完全防水とした。またデッキ下面の部材や、シア-材の接着面などには、エピグラス製のエバデュア-という防腐剤入りのエポキシ樹脂を塗り、念には念を入れた。

■シアー材 縦通材の一つ。船体の最上部つまりデッキの一番外側の角の部分に通っている。

(4)一級品

骨組み

形の正確さについては特に気をつけた。
実物大の現図を描いてから、これに合わせて骨組みを作っていくのであるが、この現図は極めて正確に描けるようになっている。オフセットの数値は寸分狂いのないものである。しかし、この現図の上でピッタリ合ったとしても、例えば天候によって知らないうちに狂わせられる。雨が降っても、晴れても、木は大きく形を変える。全体の形が固まるまでは、この動きを封じ込めておく必要がある。また、骨組みは曲線であるために、薄板を数枚張り合わせて作るのであるが、これも動きを封じないと、削るたびに形を変える。これは、内部に残っている真っ直ぐに戻ろうとする力が出てきてしまうものと思う。

さらに、船体だけでなく舵やフィンキ-ルもマグロの体に負けないものを作りたかった。そうでなければ、長い旅の途上、人間が弱ったり、けがをしたときに致命傷に結びつきやすい。いざというときには、人間を助けてくれるものでなければならない。生き残るためには優秀な性能が必要なのである。その優秀な性能を得るには、マグロのような磨ぎすまされた船体が必要である。
舵やスケグを削り出すときには、型をいくつも作り、慎重に進めた。性能や性格を決めてしまう重要な部分である。取り付けの時にも、垂直に、寸分の狂いもなく収めた。

■フィンキール 直進と重りの役目をする。

ストリッププランキング工法による外板の部材は、細い棒状のもので高さ19ミリ、厚さ14ミリである。
この部材の選定にはちょっとしたパニックを起こした。というのは、木には強靱な部分と脆い部分があり、これを選り分けねばならない。一般に中心部に近づくほど脆くなり、色つやも失われていくものである。しかし、特に良いところだけを使っては大変な贅沢品となってしまう。程好いところを求めなければならない。設計者の進める方法は、振って折れれば不合格とするものである。4m長の細い外板部材を振り始めると、次々と折れて山になってしまった。
これでは、余裕をもって用意した量が逆に不足に転落する。頭がボ-ッとなってきたのでこの試験をやめ、設計者に手紙をだして別な仕事に切り換えた。そして、返事を待たずして問題が見えてきた。つまり、厳しすぎる試験を課していたのである。振るといっても、私のは鞭のようにひねりまで利かせていた。不合格とすべきは丸太の中心部の特に脆い部分だけでよい。これは絶対の避けねばならない。
実際には、すでに製材所においてこの部分を除いており、さらに私が切り除き、そして振り試験を課し、そのうえ色つやで選ぶのであるから、全体としてはだいぶ品質が上がったと思う。

(5)変更

ガフリグ

日が経つにつれ、さらに航海への理解が進み、帆装の変更ということが問題として浮かび上がってきた。
つまり、私の航海計画は、基本に自力航海ということを据えておく必要があるのではないか、そしてもう少し徹底おくほうが良いのではないか。
近代的な帆装はマストが折れたとき、近代的な道具、材料、そして多大な出費が必要になる可能性が高い。しかし古典的な帆装では自前でやれる部分が多く、たとえ人の助けを必要とすることになっても、最小限のところに収められる。
つまり、それらは手持ちの道具で、手作りできる範囲にある。マストは丸太でもよく、これを支えるリギンはたとえ損傷があったとしても、スプライスで元に戻せる。折れ曲がったタンバックルは使いたくないが、ラニヤ-ドならそのまま使えるだろう。それに、このワイヤ-のスプライスや、デッドアイというリギンの締め具の製作は、船乗りらしい仕事を感じさせた。まだ船乗りの卵としては、それらは大変楽しい仕事が増えるだけのことだった。

■リギン ロープなどによる一切のシステムのこと。
■スプライス 編み込み加工。
■ラニヤード ワイヤーを張る細めのロープ。

また私の設定した航路は、昔の帆船コ-スであり、、そこは追い風で走ることを基本にしている。
そしてこの古典的な帆装であるガフリグは追い風に向いている。それに、このガフリグの上り性能の悪さは何か問題になるだろうか。私の計画において不利益は考えられなかった。高度な上りの性能によってどこかの海域を突破する、あるいは危機を脱出することなど考える必要はないだろう。沿海の帆走では、この上り性能が特に好ましいものに思われるので問題にされる。しかし長距離航海ではまったく違った設定と場面になる。それに実際は多くの人が思っているほど、上りの性能は悪くないことが進水後に確かめられた。通常の範囲内にある。

■ガフリグ 四辺形の帆を上げるガフリグは、百年以上前にその全盛期は終わっている。しかし積極的に取り入れる設計家もいる。

それに、上り性能の良い船を持っても、この上り性能はシーマンシップという人間的な要素でたやすく崩されてしまうものでもある。それより様々な条件のもとで的確に走らすことのできる、シ-マンシップに熟達することのほうがずっと大事ではないかと思う。

また、この古典的なガフリグを採用するにあたっては、以上のような合理的な理由ばかりでなく、何か古いもの、失ったものに対する気持ちが少し働いたことも確かである。だがそれははっきり捉えられるもではなく、これも海の上で考えることにした。このガフリグへの変更において、ガフリグの採用を取り上げたことのあるこの船の設計者は、私の懐古趣味でありすすめられないと断ってきた。だが自力航海を基本にしたいことを再度手紙にしたとき、今度は心よく引き受けてくれた。私は新たな試みが加わったことによって、さらに意欲が湧いて来るのを感じることになった。

(6)エンジン

この帆装の変更は、更にエンジンについても考えを整理するよう求めてきた。
エンジンはほとんど入出港のみに使われるはずのものだったが、それは船にとって大変に危険な場所でもある、陸の近くで力を発揮してくれる。無ければ、最後まで自然を相手にすることになる。
私はほどなくエンジン無しにすることを決定した。私の課題は自然を尋ねることにあったし、今回は無しにすべきであると思われた。自然に分け入り、その動きを直接感じ、味わう。私の追い求めるものの姿を見るには、この自然こそがカギを握っていると思われた。ここは一つ通して味わうべきである、そう決定した。
それに、陸の近くは一つの決戦の場であると考えることができる。建造という仕事を人に渡したくなかったように、この戦いをエンジンに渡すのが惜しくなってきた。確かに、ラジオが今夜は海、山とも大荒れになると報道しているとき、夕闇がせまり嵐の来る前の静けさの中で、港を数マイル先に見ながら、なぎのために身動きが取れないのは何ともやりきれないものである。だが船はこれを乗り切る能力を備えているし、乗組員もシ-マンシップを備えていれば問題はない。
大変な、と思えることはそれがもし重すぎなければ、面白いことでもあるのだと思う。これも全て合理的に捉えられていたわけではなかった。ともかく、はっきりしないことは後で考えることにして、目標に添うことにした。

(7)金具製作

寒い冬の間は主に金具製作、あるいは内装、木製部品の製作にあてた。
エポキシ接着材を使っての船体製作は、もっと気温の高い理想的な条件のもとで進めたかったからである。以前職業訓練(溶接科)を受けていた私は、ステンレススチール加工の技術指導を受けるために再び学校を訪ねた。
この金具作りのある一日、この船作りを通して最もといっていいほどの充実した仕事を経験した。その金具は船尾の周囲を囲み、その角のところを他の船から傷つけられるのを防ぐものだった。まずステンレススチ-ルの真っ直ぐな帯板を、コ-クスの中で真赤になるまで焼き、それをハンマ-でたたいては焼くという繰り返しの仕事が、実に手応えのあるものだった。
どうしてこんなに面白いのか、このとき答えは見いだせず、そのままとなった。真赤に焼けた金属、強烈なコ-クスの火、それにハンマ-を振り下ろす私、相手は直接の手応えの中で形を成していく。これら様々な要素の中に、失われたものが蘇っていたのではないか。これは私の追い求める課題に直接関わっているのではないか。翌日、電動ドリルで穴を開けながら、その手応えの無さから、そんな思いにふけった。

(8)木について

一年を過ぎたころにはすっかり木の魅力に取り付かれていた。
ただし、目標に添って、工芸的なことには絶対に深入りはしなかった。とはいっても引きつけられていく。確かにそれぞれの一枚一枚が個性的だし、一様ではないので、使用にあたっては十分に思いをめぐらすことになる。木目の美しさは格別なので、無造作に扱うをわけにはいかなくなってくる。そのうち、木目ばかりか節も気になってくる。つまり木目だけでなく節の配置にも思いを込めるようになってくる。
そして少しずつ木の種類が増えていった。船室中央の床には日本産のクルミの木、それはちょうど床にするだけの小さなものが、材木屋の片隅に転がっているのを見つけた。これで通風のよい格子状の床板を作ることができた。南洋材のカランタス(ラワン材に混じって入ってくる。)は、工作場を甘い香りで満たしたのであるが、これは香りと共に内装材として大変気にいった。極めて軽量で、しかもマホガニ-と同系の容色を持っていた。ケヤキの板はちょうど船室に下りる階段になるべく、ちょうどの大きさとぴったり三枚という枚数で、材木屋のスト-ブに今まさにくべられようとしていた。木は合板になっているものでも同じように個性がある。力の加わりそうな所には強そうなやつを持ってくるし、内部に穴のできているものは敷板に回す。人目に付くところには、面白そうな節を配置する。

材木屋にいると、次に作る船の木まで買っておきたい気分になってくる。
そのときに出会い気に入った相手が、もう二度と手に入れられないものであるように思えてくる。だから、その一部でも現在の船のために買えたときには、まるで宝物でも手に入れたように嬉しくなった。
このような木への思い入れ、心の動きはいったいどういうことなのか。どうして板切れを手に入れて、それが宝物にまでなってしまうのだろうか。これもはっきりと言葉にはできなかった。だがこれも、私のテ-マに直接関わっていることは確かである。

(9)進水 (1983/11/03)

建造開始から一年以上過ぎた夏の終わり、進水できそうで出来ないという、切りのない仕事に決着をつけるために、1983年11月3日を進水日と決め、何がなんでも浮かべることにした。
その日に進水できれば、建造開始からちょうど一年半ということになる。このために、アルバイトを頼んで追い込みをかけ、とにかく進水させることは出来た。しかしその日、帆走は出来なかった。ハリヤ-ド(帆を上げるための動索。)を止めるための、マストに装着する金具が間に合わなかったのである。

建造場所も隣町の海のすぐそばに移動していた。
そこでたくさんの人々の祝福を受けて進水した。友人や知人を越えて近所の人々も来てくれた。そして食べ物まで作ってくれた。
日々の生活の上では他人でも、船を作り航海に出るといったことは、同じ人間の生命活動として、何となく通じる所があるのだろうか。そしてこのことが、私のテ-マに直接関わっていることははっきりしている。だが今は、その内容をはっきりさせることが出来ない、言葉に出来ないでいる。
木製(欅と樫)のクリートやデッドアイを亜麻仁油で三日三晩とろ火で煮ていた時、私の隙を狙っては焦げるほどの大きな火を上げたために、ヘッドロック(プロレスの技)をかけてやった小学生らも、数百円のカンパを持ってきてくれた。

またヨット乗りの長谷川正樹さんが坊さんと進水式用のお経を見つけてくれた。
そしてこの船には百鬼丸と名付けた。横文字ではなく、丸が付いたものを望んではいた。丸には掛け替えのないものといった意味のあることを、どこかで見た覚えがある。またこの名は、漫画家手塚治虫氏の物語からいただいたものでもある。
百鬼丸が水面に触れ、まさに進水しようとするそのほんの短い間だけ、ほとんど無かった風が突然起こり、マストに張られた旗が強く舞った。そして、積み荷の無い船体は松島湾の奥、浜田魚港の鏡のような水面に軽々と浮いた。

■長谷川正樹さん 単独でオーストラリアに航海し、南洋の島々を訪ねた。船名 ドリンカー

4 シェイクダウン

シェイクダウン 実際に海に出し、しけを走らせ、出来の悪いところを全て洗い出すこと。

(1)自己評価

自作に対する評価は、高い得点をつけた。
船には不安を残すような作りのところは無かったし、船体の形は相当正確に出来たと思う。木造船といっても、完全防水に近いものにすることが出来た。目標である形の正確さ、強度、耐久性に対しては、一級品にすることが出来たと思う。
しかし外見は一見して素人が作ったものと分るようなものだった。

建造期間は約一年から一年半としていたのであるが、その範囲に収まった。
耐久性をもう少し落とすか、工法を変えたら工期を短くすることが出来たと思う。というのは、船内にアマニ油を塗り込むだけでも延べ20日以上必要であったし、各部材、そして釘の一本一本にも防腐のための処置をした。
内装についても、もう少し簡単に出来たかも知れない。何しろ100%エポキシ接着をしたのであるから。しかし合板で作ったデッキの、FRP加工(合板を守る)後の表面に、仕上げ処理をしなかったのは遠くからでも一目で自作艇と分かった。
後半部には経営者の心境になった。それは、借金をしなければ進水まで持たないのではないかという心配が出てきたためである。だがこれはなんとか切り抜けた。ただ、進水式とシェイクダウンのための航海には、友人に借金を頼んだ。結局、建造資金300万円は、場所代(住居付き)と生活費に100万円、材料代(セールはジェノアジブ抜きの3枚のみ)に200万円ということだった。

建造途中に、家主との気まずい関係から場所を移動しなければならなくなったのは、減点としなければならない。
それは、私の短気(この言葉の中に、心の様々な負の動きがある。)と、この社会の仕組みに対する十分な配慮をなし得なかったことに対してである。それは、当事者だけでなく、外部からも崩されるからである。これも海に出てから考えることにしたい。今はとても私の手に負えない。

(2)シェイクダウン

進水後、大急ぎで帆走できるようにした。
セールはメインセールとステースル、そして荒天用のストームジブの三枚だけ用意していた。実際これで十分広範囲な風に対応でき、後で作ることにしたジェノアジブ(微風から軽風用)は使うチャンスが少なかった。
一週間後には、大阪に向かって処女航海に出た。11月の半ばにかかっており、行くなら早いほどよかろうという季節だった。大阪には青木 洋さんがおり、準備のために協力を頼んだのである。一緒に航海をしたこともある、同じヨット乗りの長谷川正樹さんに誘われて参加した、船検、船免を考える会で彼に会っていた。青木さんには航海についてだけでなく、人間の全体について影響を受けたかったのである。大阪で準備を終えたら、再びここに戻ってくるとはいったものの、内心その見通しは持てなかった。

■青木洋さん 1971~4年、自作の6.4mのヨットで単独世界一周の航海をした。船名あほうどり。
■船検、船免を考える会 ヨットにも船舶検査や船長の免許が定められようとしていたとき、これに疑問を持った人々の集まり。

初セーリング

最初の日の夜、一緒に乗ってくれた四人が雨の中を帰っていったときには、やはり寂しい気分になった。残されるのは良くない、皆を残して出帆すべきだ。
それから毎日、夕方には港に入り、ゆっくりと休みながら福島県沖を南下した。エンジンがないので接岸のかなわない時もあったが、このような時は港内に錨を打った。ともかく順調だった。強い風も夕方には収まるものであるし、ほんの少しの風でもよく滑った。

関東海域に入ると最初の嵐に会った。
鹿島沖で漁師がみな引き上げていくなか、最後に走ってきた小さな船の老漁師が、海上保安庁から強風警報が出て、避難するところであると知らせてくれた。
だが私の船は、嵐の来るまえの静けさの中、じりじりするほのどのゆっくりした速度でしか進めない。それでも時間はたっぷりかかったが、とても小さな彼の漁港にたどりついた。

そして、入港したとたんに最初の一吹きがきて、接岸は素早い仕事が求められた。このとき、ヨットの先に小さな傷を負ったが、仕事としては上出来だった。

入港前に吹き始めたら、入口の造りの関係で入港は無理だったろう。もちろんその時はその時で打つ手はある。入港は諦め、風上で波がほとんど無い海岸に錨を入れてもよいし、海上で流していることもできる。しかし、港の中ほど安らぐところもない。

だが安心したのも束の間、漁業組合から若い職員が来て、出ていけといわんばかりのことをいう。確かに出ていけと同意語であったと思う。
どうしてこのような人々が少なからず、これほどでもなければ大勢いることについてはおいおい解明していくことにする。
もちろん、個人的な人間の問題としてではなく、文化としてである。文化として捉えなければ本当の解決は無いのではとさえ思う。社会の基礎的な部分に流れる一般的な価値観、常識などが、人々をこのようにさせてしまうものと思われる。
これは我々の文化としての、能力の問題とも考えられる。ヨット遊びに飛びついた私としては、もっと穏やかにできないものかと思うばかりである。

翌朝、夜にあれだけ吹いた風もすっかり収まっていた。
だが風向が少し変化していて、帆走する水面のほとんど無いこの小さな漁港は、非常に出にくくなっていた。
もやいを解いてすぐのところにある防波堤の先端にぶつかるか、すれすれで交わせるか、一発勝負になった。その一回目を失敗した。しかし船は何とか助けた。離れた瞬間だめと解かり、素早く風下の小さな砂浜に向けた後、腰まで水に入り元の場所に引っ張ってきた。
そのとき、あの老漁師がひとり出てきてくれた。彼は、クロ-ズホ-ルドの発進で逃場の無いことをよく理解していたようで、船が必要な前進力を得、行けると判断できた後でもやいを投げてくれた。これは時間も距離も非常に短い中での判断である。

彼の年令では、若いころは帆を操って魚を取っていたはずだ。今とは違い、重い綿の帆布とマニラ麻の帆綱で、手入れも大変だったと思う。

そしてこの日の午後、再び北よりの風が出て強まり、大しけになるのではと思われた。早々にこの日の入港をあきらめ、海で夜を迎えることにした。

波が大きくなり始めたので、まず波の小さな風上の海岸に向かった。この時、舵を持っていなくても真っ直ぐ走ってくれることが解かった。2ポイントリ-フのメインセ-ル(2段目まで縮帆した主帆で、半分の面積になる。)にスト-ムジブ(前帆で一番小さな荒天用のもの。)のクローズホールドでいくらでも手放しで走ってくれた。これで余裕が出て反転し、先に進むことにした。

このしけの中でハマチが釣れた。しかし、食べる気は少しも起らず、コックッピット(操船席)に捨てておいた。

夜になると風はますます吹きつのり、本物の大しけとなってきた。追風で犬吠崎を回り、風を真横から受けるようになると、再び舵を持つ必要がなくなった。2ポイントリ-フのメインセールのみで、実によく安定して走り、舵はロ-プでおさえておく必要もない。また九十九里浜が風上に位置するようになったので、波はだいぶ楽なものになった。

私は本線とほぼ同じ航路を走っていた。上空には満月が冷たくさえ、一片の雲もない。リギンから発するうなりは、いつもの風の音ではなく、金属音となりその高い調子を落とすことがなかった。すぐ後ろから来る本船とこちらのコ-スとがずれるのを確認して、私は船内に降りた。ところが思いもよらず、そこには静かな温かい空間があった。私はここで、風のおさまる夜明けまでの長い間、一度もコックッピットに出ることなく、十分に体を守ることができた。

そして夜明けには、推測通りの望ましい位置につけることができた。しかし日が昇るとともに、再び風はピタリと止まった。やむなく近く見えていた小さな漁港に入港したが、今度は大勢の漁師から大変なもてなしを受けた。昨夜の大しけに海にいたということで、一番いい場所にもやうことを進められ、私はおおいにくつろぎ疲れを癒すことができた。

横浜では横山設計事務所から伊佐間さん、佐々木さんらが船を見に来てくれた。この時、クォーターバース(後部にある寝床)の奥、コックピットの裏側まで見られた。そこには木目が適切でないいんちきな部材が一つあり、これを見られたのでヒヤッとした。

また友人ら数人との帆走で、東京湾口から強風と共に大波が押し寄せ引き返す時、驚いたことに佐々木さんは、その時の追手の帆走でほとんど横揺れさせずに舵を取った。以前、大学のヨットクラブにいた長谷川正樹さんとのクルージングで、私は追手の帆走でビール瓶を何度も倒したのに彼は一度も倒さなかった。そのときの何倍もある大波の中だった。

この後、大阪の南、紀伊水道を目の前にして、この吹くだけ吹いた後にはピタリと止まるという冬の季節風のために、港はおろか陸にも近づくことができないというピンチに陥り、人間だけが弱みを見せたが、ヨットの方は一つの故障もでなかった。

この弱いところは全て振るい出すというシェイクダウンは、船のほうは満点の近さで合格したということである。だがこれは後の本番において、満点でないことが明らかになった。波や風、そして船の速度など、もう一段上の質の違うものが待っていたのである。そこではガフジョ-によってマストは削られ、マストを固定するくさびはみな落ちてきた。高速時の水圧の高まりは、非常に小さな、エポキシ樹脂の中にできた穴から、ほんの少しずつ海水を船内に入れたのである。

■ガフジョー 帆桁の先端部材で、マストと接し回転する。

保進性能の高さは十分に確かめられた。波高のある中での追手以外、特に向かい風(クローズホールド)と真横からの風(アビーム)の間は、ほとんど舵を持つ必要が無かった。嵐の海でそれも夜に、コックッピットではなくキャビンでくつろいでいられるということは、何にもましてありがたいことであった。

またこのことは、風力による自動操舵(ウィンドベーン)を設計する場合、特に追い風での働きに焦点を当てることになる。つまり追手の帆走では、風と同じ風下に向かうので相対的に風力は弱まる。この弱い風でも軽快に動き、俊敏な働きをするものこそ設計しなければならない。


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