ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

self-introduction

7.3mガフカッター百鬼丸と若い頃の私

大脳による知的な生命活動、
その流れに沿う空間段階の文化の開発は、心の病から現代社会のほとんどの問題を解決できるほど大きな力を持つことになると考えています。
私の一生をかけることになったこのテーマは、海が好きということから始まりました。
はじめに(テーマと自己紹介)

少年(ヨットとの出会い)


私のテーマとして、
最初は本当に小さな夢のようなものだった生命空間というもの、あるいは空間段階の文化を作りましょうという結論は、強く引かれる海との関わりの中で見出してきました

私は小さい頃から海が好きだったようで、南太平洋を紹介するたぶんアメリカからテレビ番組は、毎週欠かさずに見ていました。そこで流れる南太平洋の合唱は、今でも強く惹かれることに変わりありません。

氷の船
同じころの、春の暖かな日に決行した、氷の船による大航海は、今考えると最初の重要な航海だったのではないか。田の一角に終日日の当たらない場所があり、そこから厚い氷を切り出して、あぜ道よりも高くなり広くなった水面を向こう岸まで竿を使って渡る。たどり着いて飛び降り、振り返った時、氷の船は細かく割れて見る間に溶けてしまい、どうして乗っていられたのか、信じられないようなその光景が目に焼き付きました。

波乗り板
中学生の真夏、どうしても海に出たくて、物置にあった板で上半身を乗せる波乗り板を作り、家からずいぶん遠い、太平洋に面した砂浜の海岸まで自転車で運び、台風一過後の5段構えの波に何度も挑んだがはね返され、高速で乗れたのは数回のみ、浸水が始まり浮力が無くなっておしまいになった。南北に長い広々とした海岸に一人ぼっち、誰にも見られなくてよかった!。

ヨットに出会う
そして15歳(1965年)、ここでヨットに出会い、水平線のかなた見知らぬ世界への憧れは実現可能な夢となり、弱かった体も急速に回復していきました。

チームワーク
同じころ、チームワークというものにも何かしら大事なものとして引きつけられていました。誰かと一仕事を成し遂げるためにはとても重要なものではないか。しかし、これは一般的にいわれるチームワークとは少しおもむきが違って、極めて技術的なものとして捉えていました。



10代半ばから20代前半
ヨットに出会った、10代半ばから20代前半までの数年間は、特に海との関わりを深くしました。

スパロークラス・チコ

最初に2枚帆の小さなヨットを自作
(全長3.47m スパロークラス、合板製、3人での共同オーナー)。

K22クラス
次にデッキのボロボロになった全長6.5mほどの木造クルーザーを買って修復、5人での共同オーナー

足船
これは一日で作り上げました。

ダブルカヤック
そしてダブルカヤック(合板製)の自作。ある夕暮れ、風に舞う木の葉を眺めていると、そんなところで何をしているのこっちへ来なさい、という優しい女の人の声がして、そっちの世界には何か本当のものがあるに違いない、そう直感してすぐにできることを計画した。

クルーザーと本船
あるいはキングフィッシャークラス(堀江健一さんの太平洋単独横断に使われた艇種)や本船(国内航路)での経験など、自作と航海''が中心になりました。

フェローセメント製ヨットの建造失敗
若い時の失敗は金を出してでもという言葉通り、本当に良い経験でした。


自作の後には
どんな小さな船でもその船にふさわしい航海をする事になり、遠い未知の世界に一人であるいは友人と出て行きました。

最初の自作艇スパロークラスでは、進水後1ヶ月乗り回した夏の終わりに、少し改造を加えて、塩釜(宮城県、ここで生まれた)のいつも乗り出す漁船の船溜から牡鹿半島そして金華山へと、往復55マイル(100kmほど)発達した海風に吹かれて大海原を渡るという、本当にすばらしい航海をしました。

2.4mほどの足舟では、松島から宮戸島を一周する14マイル(約25km)ほどの夜間航海。

修復後のK22クラスでは、大学のヨットクラブにいた長谷川正樹さんと、夏休みを利用して往復540マイル(約1000km)の伊豆大島まで。

合板製のダブルカヤックでは、これも夏で、新潟弥彦山のふもとの海岸から数時間ほど漕いで佐渡へ、そして2週間ほどかけて島を一周しました。驚くことに、畑の間を流れる、またぐことができる細いそして割に強い流れの中にも、鮎(子供たちによれば)が群れて泳いでいました。

ヨットに出会ったこともあって高校は入ってすぐに中退しました。


20代(KJ法との出会い)


KJ法
次ぎに重要なものとして、海から少し離れていた20代中頃、KJ法と出会い大きな衝撃を受ける事になりました。もう一生やるべき仕事は何も残っていないのではという悔しい思いに、3日間眠る事ができませんでした。

もちろん気を取り直して研修を受けました。結局、KJ法は、私の結論である空間段階の文化に無くてはならないもの、KJ法が無ければ空間段階の文化も見出すことができなかったでしょう。
(参照、発想法 川喜多二郎著 中公新書)


30代(自作ヨットとKJ法で航海へ)


そして32歳(1982)、
節目が訪れ、ヨットとKJ法という道具が一つの計画として合流することになりました。

7.3mガフカッター百鬼丸初セーリング

外洋ヨットの自作(1982~3)をして世界周航(1984~8)を目指す、
強いがしかし漠然とした航海に対する思いをKJ法でまとめる中で、自然と文化の二つのシンボルマークが現れました。これに基づき、できるだけ多様な文化を見る事とし、航海の設定もなるべく自然との関わりを濃くするように心がけました。例えばエンジンが無いのも自然との密接なやり取りを求めた結果です。
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航海の節目と感じたブエノスアイレスで、
どうしても答えを得たいと思って始めたKJ法による作業の途中、ヨットクラブに戻る電車の中で、我々の文化はいわゆる天動説ではないのか、ここから地動説に移って行かなければならないのではないか、そのような強い思いに捕らわれました。このブエノスアイレスでまとめた「私の問い」は、私なりのこの世界に対する一つの結論ですが、そのほとんどは私の言葉でなく、ここでは一応省きました。


40代(知的統合空間の発想)


そして43歳(1993)、
瀬戸内海を航海している時、漁港に3ヶ月ほど係留して、確信に近い所まで来ていたものを創造性の世界 1993としてまとめました。

知人との一方的なしゃべりの中で、人間の知的な世界も情報の粒子による統合活動ではないか、つまりこれらは自然や宇宙の統合活動と同じように働くものではないか、と確信しました。

この中では統合体段階の文化から空間段階の文化へという仮説を立てました。

この空間段階の文化へ進むためには、高度情報化社会から、高度情報機能化社会へ進まなければなりません。

大脳による知的な生命活動を支え促す、この高度情報機能こそは、我々の生きる世界を自然や宇宙と同等の、生命空間に飛躍させるもの、空間足らしめるもの、と確信しています。


さらに44歳(1994)、
同じ瀬戸内海で生活空間から生命空間へ 1994をまとめました。

我々の生きる世界を、生活から生命活動を中心に設計し直すことを考えました。
その方が、生活という視点においても自由で活動的、何倍も豊かになれる。


そして45歳(1995)、

初冬の瀬戸内海から沖縄に航海し、ほとんど誰もいない小さな港で、記録そして記憶を元にヨットの自作と航海を「生命空間を求めて」としてまとめました。これは航海が終わってから数年後に見つめ直したもの、ということになります。


50代(知的統合空間を捉える)


瀬戸内海

再び瀬戸内海にもどり、
無人島の入り江で釣りや潜りを楽しみながら、何とか空間段階の文化というものを開発したいという思いから、「空間について 2002」をまとめました。

さらに知的統合空間の理論的な支えを確実なものにし、また高度情報機能を得るための仕組みを考えた「空間を作る 2003~8」をまとめました。

ここで航海中に読んだ無神論(久松真一著 法蔵選書)の絶対自律を、知的統合空間というものから考えることになりました。

現在60代 空間段階の文化を作る


これまで追い求め、考えてきたものが熟成し、「空間段階の文化を作りましょう 2017」としてまとまりました。ここまでは、空間段階の文化の可能性と証明ということですが、この先は、様々な方面からの研究と試みということになる、つまり実際に作るという段階に入っていきます。様々な困難もあると予想されますが、文化のアメリカ号を作ることができれば本当に大きな成果が期待できます。たくさんの人の協力を求めていきたいと考えています。

2017/11/ 丸亀市 佐藤正志


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