ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

sailing

▼第一章 命空間を求めて
[2]自然と文化を訪ねる航海へ 1984~8

1 出帆(1984/11/03)

(1)準備

高積雲

大阪に最初の秋風が一吹きしたとたん、四ヶ月もの風もなく蒸し暑い夏にすっかり弱っていた私の体は、一変して蘇った。そのとき、出港日と決めた日は一カ月後とせまっていた。そして出港準備はほとんどできていなかった。係留置での事故によって折られたマストは、もう自分で作る時間はなく、しかも発注もできていなかった。自作自設計と決めていた風力による自動操舵装置は全く白紙同然であった。
ではこれまでの長い間、いったい何をしていたのか。計画として形を成し、動き出しているものの中ではなく、この計画を生み出したところ、背後にある、全ての内容を含んだ、しかしこちらからは渾沌として捉え切れないところ、そこのところに戻っていたのではないか。この定期的におとずれると思える心の気圧の谷は、まだそこから何らかの価値あるものを掴み出すことを許さなかった。
一方、何か確かな力が動いているのも感じていた。別に何の用事も無いのに、引き寄せられるように岸壁から歩いていき、おもてのデッキで無意識にジブハリヤード用スナップシャックルを手にした。そのとたん、そのスナップシャックルは私の手の中で割れたのである。また散歩の途中に見つけた漁網用の浮きが気に入り、欲しいと思った。しかし漁港の中で拾うのも気が引けた。この浮きが翌朝、私の船の舷側に浮いているではないか。傷で分かった。そういえば、青木 洋さんと近くの鮨屋にいったとき、地震でもないのに棚から埃を被ったこも樽がテ-ブルの上に落ちてきた事もあった。つまり、私は私の中で、表面的には停滞しているのとは別に、何らかの力が上がってきているのを感じたのである。後の二つはともかく、スナップシャックルが割れた時は驚いた。確かに、スナップシャックルを手にするためだけに歩いていったのである。



体の回復とともに行動を開始した。一切の仕事をはじき出し、これをパ-ト法で図にした。これで、大きな仕事、細々とした仕事、急ぐもの当日まででよいものなど一目瞭然となった。それにしてもこれらの仕事は山ほどあり、歩いていてはとても間に合いそうもなかった。私はほんのちょっとした距離でも駆け足になっていった。
私の準備開始とともに、友人、知人、そしてヨットクラブ(オズYC,泉大津YC,ロイヤル石津YC)の人々も行動を開始してくれた。それらは物、金、労力、そして情報、心の支えなど全面的なものに及んだ。艤装工作はたくさん残っていた。これらは手分けして片づけていってもらった。これらの手厚い支援によって、私はまだ設計もできていない自動操舵や、その他重要問題に集中していくことができた。風力による自動操舵装置は機構が複雑で、しかも故障が多いことを幾度となく聞いていた。すでに私は自分の船が、非常に保進性能が高いことを知っていたし、小さなパワ-で十分な働きをするものとの確信があった。それで、自分の船に見合った、小さくて単純な、そして素早い動きをする高性能自動操舵を作るという仕事はぜひ実現したかった。オ-プントランサムは実に都合がよかった。それはそのまま自動操舵の構造として使え、やっかいな支柱がほとんど要らなくなった。また、十分な経験をもっていた青木 洋さんの助言は、短時間のうちに設計を完了するには欠かせない、重要な情報となった。シャ-リング屋はこの自動操舵のための細々とした仕事を、忙しいにもかかわらずすぐにしてくれた。そして出来上がった自動操舵は、確かにきゃしゃで簡単のものに見えた。フランスから航海してきたヨット乗りはこれを見て、三日で壊れるといった。しかし、彼の船と私の船は全く性格の異なるものである。私の船は、外見は昔風だが実質は軽快な最新の設計である。船底を真横から見れば短い後退翼のジェット戦闘機そのものである。それに、肝腎なところはよく見れば解かるように、十分な部材の厚みと、強い構造を持たせてあった。この自動操舵装置は、一回の試験をするだけの日時しかなかった。そしてこの一回はとても貴重なものだった。不都合な点を見つけることができたうえに、自動操舵の働きをすること、確かに使えることが解かったのである。この時一緒に乗った、単独で太平洋を一周した経験のある池川富雄さん(船名 おうめい 25フィート 1976)が、使えることを確認してくれた。

またこの一カ月間、ここでの仕事は即断即決だった。相談している時間、考えている時間は一分間さえ無駄なものに思われた。もっといいパンチの打ち方があったとしても、ここはすでにリングの上なのである。手伝ってもらう人には要望のみ伝え、その先は自分で決定していってもらった。もちろん、船を知っている人々であったということもあり、不都合なことは一つも起らなかった。出港パーティの中には資金カンパのものもあった。しかし資金を残すために切り詰めて用意された食べ物は、数分で食べつくされてしまった。食料はカンパによってもだいぶ集まっていたが、主要な部分を青木 洋さんに頼んだ。そしてその少なさにこれで大丈夫かなと少し不安になった。西野一也さんが店仕舞いしたところから運んでくれた食料の内、缶詰は緊急用として南大西洋で転覆するまで船底に眠ることになった。

(2)出帆

出帆

進水して一年後の同じ日、1984年11月3日に泉大津造船所の前から、上田 孝さんのヨット「ブル-シ-ガル」に引かれて岸壁を離れた。上田さんはこの一年、毎日のように現れ一緒にコーヒータイムを取った。上田さんは船の能力を最大限に引き出し(ヨットはピアノにも例えられるぐらい繊細な感覚と微細な調整が必要とされる)、シーマンシップにも熱心に取り組んでいただけでなく、船長として海上保安部とも対等の対応を示していた。つまり、長い歴史を持つ帆船の文化をも背負っていた。そしてこの時私は、一カ月間の駆け足と、食事を取る暇もないことから、自然な形で少食となり、それらの結果驚くほど健康的になっていた。柔らかく強靱な身体は、日本の沿岸脱出の仕事を成功させるにはこのうえないものだった。一時も早く大海原に出ていきたい、腕が鳴って仕方がないというところだった。出港前、青木 洋さんとは遭難したと思われる様なことがあっても、捜索は頼まないことを確認しあった。自力で生き残れなければ、マグロやカモメに合わす顔がない、そのように準備してきたのである。

大勢の見送りがあった。遠くから来てくれた友人もあった。ところで、出港後近くの港に寄らねばならなかった。それは船舶検査を受けるためだった。エンジンの無い船でも、外国へ行く場合は検査を受けねばならなかったのである。この場合、船長としての免許証はいらない。船舶検査は何のためにするのか。ここで私はお金と時間を失うだけである。検査の必要な様々な理由が挙げられ、積極的に指示する人もたくさんいる。それでも私は時間とお金を失うだけで何の利益も無い。私の立場からすると、私に必要なものは、高度なシ-マンシップを身に付けるための、身近かで利用できる社会的なシステムや柔軟な組織であり、それは高度な安全性を船に内蔵していくということにおいても同じである。安全もまた本人によって創造されていくものであり、その活動を支えるためにこそお金は使われなくてはならない。現状では航海に関する知識や技術など閉ざされているものがほとんどで、何もかもが自己流といえなくもない。自己流と既製品との組み合わせは、決して望ましいものではない。危ない。

ところで、再出港後さらにもう一度、入港を余儀なくされた。準備の最後まで残っていた天測航法の習得が、海の上では船酔いも重なって理解できなかったためである。天測航法の本には、どこからくるのか解からない数字が一つあったし、天測暦の本の解説はもっと解からなかった。八丈島の八重港には、同じヨット乗りの我妻幸一さんが持ってきてくれたデレクションファインダー(D.F)によって、八丈島から発信される電波に向かって進んで行ったのである。同じような原理で普通のラジオも航海機器として使える。ラジオを回転させると聞こえなくなるところがある。その方向が放送局のある方向である。ハワイアンを聞きながらハワイに行くことができる。

天測航法の実際は易しいものである。測定、計算、作図はすぐに上達する。しかし、すぐ忘れる。海に出るごとに、前に計算した例をなぞって思い出す必要がある。そのことを体験して知っていた池川富雄さんから、実例を元にして作った、解かりやすく手順を現わした図を一枚コピ-してもらっていた。これでも解らなかったわけだが、これを元に電話で解説してもらった。この解説の部分こそは、本などから抜けているものである。さっそく海岸で試し、数マイル(10kmほど)の誤差ではあったが行けるという確信を得た。ところで、天文三角を解くところまで理解を進めた人は、入港するたびに忘れるということはなくなるのだろうか。もしそうなら、そこまで理解したいとも思う。

八丈の八重港では、入港直後に吹き始めた北東風が連日吹き続け、漁師も休んでいた。入港時に、いったん接岸した後、強風の港内で半分だけ上げたステースルで移動するという手に汗握る帆走をした。その風が吹き続けていたのである。私は高い所に登り、白くなった海を眺めながら、私は漁をするわけではなく出帆を見合わせる理由はないと結論した。漁師等の野会食で亀を食べ、風呂にも入り、本当の出帆の日を迎えた。11月14日の朝、港外に向かって吹く風に乗って港を出たあと、2ポイントリ-フのメインセ-ルとスト-ムジブのクロ-ズホ-ルドで、東に針路を取った。そして私は、いつものことになる三日間の船酔いのために寝床に横になった。

(3)北太平洋

大低気圧

嵐

二週間も過ぎた11月の末、腕の鳴りもおさまり殺生がなんとも気の重い仕事になってきた。すでに日本の南方海上を北東進する冬の台風とも衝突し、さらに太陽の出ないしけの海が続いて、ひどく気がふさいできたのである。台風は一晩で去ったが、肝っ玉にひびが入るほどのパンチを受けた。夜になって風は強まり、一気に押し寄せた大きな波は船乗りの卵を震い上がらせるのには十分過ぎた。北アメリカの大陸も、手の届かないところ、遙か彼方に引き下がっていったように感じた。大きなシイラは大量の血が出る。わざわざしけの海で、気の重い仕事をすることもなかろうと考える。だが私の手は、そんなことを考えながらもナイフを突き立て、頭を落とした。もちろんこれは食料で煮付けにして食べる。ある朝、1mちょっとのシイラが手もとまでたぐり寄せられたとき、最後の力を振り絞ったようなファイトを見せ、体を立てて頭を二度三度振った。そしてその最後の、力のない振りで針を外した。そのファイトに関心するとともに、ほんとうのところほっとした。
   同じころ、びっしりと雲で覆われたその下の、黒いちぎれ雲の中を高速で走っていた。速度が上がってくるある時点からうなり音が出、それがさらに高速になるにつれて高音になる。どこからこの音が出るのかはよく解からない。最初の音が出るのは、7ノットを超えるあたりだろうか。出帆する以前は、どんなに快走しても発生したことが無く、6ノット台でないことは確かなようだ。後方には、水平線いっぱいに真っ黒い断崖絶壁のような雲が広がっていた。それはまるで、悪魔が翼を広げてこちらを狙っているようにも見えた。

船の方には小さなガタが現われていた。自動操舵の伝達ロ-プはビニロン系のものを使っていたが、これをテトロン系のものに換えた。ほとんど切断されるところまでしごかれていたのである。マストの楔(くさび)は倍の量を打ち込み、釘を打ってずれないようにした。さらに問題は起きた。この高速で走っていた晩、私はますます高くなるうなり音を聞きながら最初の寝に入った。そして夜の8時過ぎ、静かなはずの船内の、耳のすぐそばで波の音がした。怪しみながら懐中電灯の灯の中で見たものは、床板を越えて溜まっている水だった。その水はしょっぱい味だったので、初めは船体が割れたのではないかと考えた。パンチングや横からの波の体当たりは、これまで経験したことのない激しいものになっていた。波頭が巻き、その崩れた塊が斜面を滑り落ちるシューッという高圧ガスが吹き出るような音は、船内にいる者の神経を病ませた。しかしこの夜に、原因を突き止めることは全くできなかった。突き止めたのは何日か後、再び高速で飛ばしているときだった。その水漏れ箇所は、舵のシャフトを通す木製の部材のところだった。厚板を何枚か繊維方向を変えて接着した非常に強固な部材で、座礁したって割れるような感じは無い。工作上考えられることは、この部材の上にコックピットの床になる合板を乗せたとき、両面に塗られたエポキシ樹脂の中に空気が取り込まれ、非常に小さな穴となって水道を作ったのではないかということだった。そしてそこに、高速時にできる船尾波、あるいは水流によって高水圧がかかり、海水がにじみ出す。これは相当あたっていると思う。これはアメリカ到着後にシャフトの軸受けを外し、木製部材との間にシーラントを入れて解決した。それまでは工作に自信があったのでシーラントは入れていなかった。

■パンチング 船底が海面をたたくようにして走る。

そんな中、中型の鳥が魚を釣る仕掛けにかかって死んだ。ある種の鳥は、この仕掛けをついばんで遊ぶのが好きらしい。このついばんでは飛び上がるということを繰り返しているうちに、針がくちばしに引っかかり、水中に引き込まれたのだ。引き上げて見ると、カモメなどのきつい目とは違い、とても優しい目だった。私は鳥をさばいたことはなかったが、これを食べた。

このとき、後から狙っていたあの異様な、悪魔の翼の中に捉えられていた。帆は風力に合わせて、どんどん小さくしていった。そして、どうしても風上に切り上がってしまい、コントロ-ルできない所まできた。どうしたものかとキャビンから出てきたときには、ステ-スル一枚のクォータ-リ-で波の大きな斜面を下っていた。小さな帆一枚でも大きく船を傾けるほど風は激しく、追い波ということもあってコントロ-ルが難しくなっていたのである。帆は、激しくシバ-しては風を受けるということを繰り返した。一方私は、その波の巨大さに身動きできなくなっていた。緊張のあまり、帆を降ろしに舳先に行くことができない。コックピットコ-ミングに腰を下ろしていたそのとき、背後から巻波を一発食らって船は横転した。私は海の上にほうりだされたが、メインシ-トをしっかり持っていた。それで、船が起き上がるそのときの、その力で私は易々とコックピットに戻ることができた。海に投げ出され、横転したままの一時の間に、キャビン入口の黒い四角な空間が目に焼き付いた。事態は重大だったが、この一発で私の緊張は完全に吹き飛ばされ、帆を降ろし、デッキのものをロ-プで縛り、船尾からロープ流しという仕事を素早くかたづけることができた。だが、ステ-スルのハンクスはインナ-フォアステ-との擦れで深くえぐられており、もっとも力のかかったものは断面の半分を越えていた。また、自動操舵のウインドベ-ン(風の変化を感知する部品。)は2㎜厚のアルミ板から作ったのであるが、これを取り外すとき私の手の中でグッと力を増した一吹きによって巻貝のように丸められた。船内は大丈夫だった。一度は180度の転覆をするものと、全ての敷板や扉は開かないようになっていた。

■ステースル マスト前方に上げる帆。
■クォーターリー 風を斜め後から受けて走ること。
■シバー はためくこと。
■コックピットコ-ミング コックピットに海水が流れ込んで来るのを防ぐ囲い。
■ハンクス 帆の前縁に付いている開閉式の金具。
■インナ-フォアステ- マストを前方から支える。4ミリワイヤー。

この大きな低気圧が近づいて来るのはラジオで知っていた。しかし半径1500km、そして中心からかなりの広範囲と前線付近には25m以上の強風が吹くと伝えられても、それが実際どんなものか船乗りの卵には実感できなかった。よって後手に回った。つまり、悠然と何もせずに待っていたのである。だが最初に出会うものとしては幸運だったようにも思う。というのは、この海域では前線付近に35m以上の強風が吹く低気圧も報じられていた。これは台風(最大風速17m以上)やハリケーン(最大風速33m以上)と並ぶものである。この低気圧で実際に吹いた風は、気象通報での25mの2倍を超え、50m以上だったのではないかと思う。

ロープ流しには、ごく小さなタイヤ(ゴーカート用)を付けた16㎜のロ-プを100mほど船尾から流した。だがこのとき、そのロ-プは船体の中心ではなく舷側に寄って取ったため、船体を少し斜めにした。つまり波を真後ろからではなく、ほんの少し斜め後ろから受けるようになった。これは後に中心線上から引くようにしたのであるが、最初の夜は何度も肝を冷やした。何度か巻波に襲われ、波と一緒に崩れ落ちていったのである。これは波が背後に近づき、このロ-プが弛んで船が走りだしたとき、少しでも波を斜めから受けるようにすると、大きな波と強風に船は傾き切り上がるように走りだす。つまり本来は波から真っ直ぐ逃げ走る荒天対策なのであるが少しも逃げていなかった。また、このときほんの少しの角度であっても腹を見せるということは、巻波に対して急所を見せることになるからであるようだ。もちろん、嵐を乗り切る方法としてはこれと全く逆になるようなやり方もある。つまり真後ろから波を受けるようにしては危ないというものである。また一切何もせず、横向きになったまま波にまかせるというのもある。どれを取るか、それは船の形や重量、構造や強度による。翌早朝、真後ろから波を受けるように、ロープを船体中心線上に取った。これで肝を冷やすようなことは無くなった。

■(参)ヘビ-ウェザ-セ-リング Vol.2 p.318  K・アドラ-ド・コ-ルズ著 鈴木雄彦訳 舵社

二日目も風は全く衰えなかった。どこから出るのか激しい振動音がある。全てのシャックルは銅線でゆるみ止めをしておいたが、フォアステ-下部のシャックルが開きぶらついていた。波高は15m~20mもあるように思われた。この波を見ると、この前の台風が普通のしけのように色あせた。波の頂に乗ると、水平線はいつもの何倍も、遥かずっと先のほうまで見えた。そしてそこは、鋸の縦引きのように荒くなっていた。近くの水面に目を落とすと、波の頂から吹き降ろしてくる風によって、大きな風穴が次々とできていった。さざなみに見られるあの谷の一つ一つが、大きな穴になるのである。また海面を遠くまで見渡すと、水平線のほうが高く坂のように見えてしかたがない。視覚が狂ったらしい。

三日目の朝、波だけは大きなままだったが風は衰えた。嵐は去ったのである。天測での極めて大きな誤差も判明した。計算に必要な推測位置が大幅に間違っていたからで、船はタイヤをつけたロープを引きながら4ノット前後の速度でアメリカに向けて流されていたのである。これは一日で170kmほどの距離になる。誤差と思っていたのは、船位が作図用紙から大きく外れていたのである。

雲の住処

一カ月も過ぎた12月中頃、極めて静穏な海域に入っていった。八丈出帆時の三日間も吹き続けた北東風や、その後の台風と大きな低気圧に流されたこともあり、冬期の帆船航路である北緯40度線まで北上できずにいた。それでこの小さくなっていた北太平洋高気圧の北端にかかったらしい。もちろん本当のところは分からない。

ここには下層雲から高層雲まで、ありとあらゆる種類の雲が寄り集まっているように見えた。上空には巻雲とその仲間がいる。高積雲の下には形の良い層積雲が空いっぱいに詰まっている。まるで雲がここに吹き寄せられたようだ。さらにその下、海面近くには真っ黒い色をした、いかにも恐ろしげな竜雲といった雲が長々と横たわっていて、じっとこちらをうかがっている。その長さは数百メートルか、それとも何キロもあるのか。そしてこれらの全ての雲は息を殺し、少しも動くけはいが無い。まるでここは雲の住処を思わせた。それほどあらゆる雲が寄り添い集まり、空を埋め尽くしていた。風はさざ波を立てるほどのものが軽く吹くばかりで、百鬼丸はその中を静々と進んでいった。

パイロットチャ-トでは、年を越せばこの辺もしけの海になる。この穏やかな海域に入っても緊張は解けなかった。食事は二食になっていた。昼がごく短くなり、これに合わせたためだ。また酒飲みではないのに、夕食時には飲むようになった。プレゼントされた1本があったのを思い出したのである。夕方は少し気が重くなる。夜は暗いだけでいやなのに、天気の急変による仕事があるかも知れない。すでにブ-ムを折っていた。真夜中、風向が急変して針路が変り、ジャイビングをしなければならなくなった。雨交じりの強い風の中、目覚めたばかりの体で手抜き仕事をした。ブ-ムは勢いよく反対舷のリギンに当たり、いとも簡単に折れた。音は聞こえなかった。幸いにも修復は簡単なものだった。翌早朝、デッキに置いてあった櫂(かい)をブ-ムに縛っただけで、全ての機能も以前のままに回復した。つまり、縮帆もまったく支障なくできた。それにしてもその日だけ、いつも夕方には一段階縮帆するという作業をさぼった、その時を狙われた。

■パイロットチャート 風、海流、荒天などについて統計的に表わした海図の一種。
■ジャイビング 下手回し、つまり風下側から船首を回す。

朝は暗い内から起きた。東の水平線に夜明けのきざしがある前のことだ。だがすでに空気だけは朝を感じさせるなか、オプティマススト-ブに火を付け湯を沸かす。ペ-パ-フィルタ-でコ-ヒ-を入れ終えた頃、海は白み始める。私はゆっくりと表にでて東の水平線を見つめる。晴れた日は鮮やかな日の出がある。このとき希望も戻ってくる。雲で日の出が見られないときは、ひどくがっかりした。夜は意識が弱まる。だから弱さや悪いものが心をすっかり占領してしまうらしい。

この静かな海域のある日、へさきに水の転がるような音を聞きながら、南よりの軽い横風を受けて進んでいたとき、早く仕掛けを入れろという感覚が全身を捉えた。私はその感覚のままにコックピットに飛びだし、素早く引き綱を入れた。そして5分とかからなかったと思う、手頃なマグロがかかった。そしてこの有り様を大勢の雲どもが見ていた。
   

入港

アメリカ大陸の西海岸まであと数日のところまで来た1985年1月2日、入港のためのトレ-ニングを開始した。出帆時の、柔らかでつま先まで力に満ちた体はとうに失われていた。4年ごとに西海岸を襲うという暴風も、今はその季節なのだが今年がその年かどうか確かめられないままに出帆した。何年か前、その有り様をテレビニュ-スで見たことがあるが、車も家も濁流の中だった。大阪の気象庁に足を運んだが時間の無駄だった。それはここにその情報が無いといった問題以前の、我々の社会ではよく出会う問題だったように思う。必要な情報に到達するまでの、社会的なシステムの問題といってもよいだろう。怪しげな判断を聞かされてもしかたがない。その判断は情報を求める本人がするものであり、そのための関係のありそうな情報とそれを得ていく道筋が知りたいのである。自作をしているとき、最低3人から考えを聞くことを原則にした。人を信用しないのではない。目差す目標が違えば、判断の基準も違ってくる。例えば最高の材料といったところで、初心者の多くにとっては何処にでもある安価なものが何よりも最高のものということができる。また相手にする対象はそれほど単純なものではない。同じラワンの板でも一枚毎にみな違う。判断は、その場にいる本人がすべきである。そしてそのためには、多方面からの材料つまり情報が欲しいのである。ところで私の心配していた暴風は、Cordonazo de San Francisco と呼ばれているものかも知れなかった。これなら季節も場所も少しずれており、心配は薄らいだ。これは大洋航路誌に載っていた。

現在地はサンフランシスコよりやや南に位置していた。パイロットチャ-トでは北寄りの風が卓越風と読み取れたが、大洋航路誌では南東風が多くこれに北寄りの風が加わるといったものだった。そしてどちらもが、強風になって吹き続くことがあるという。私は北寄りが吹いたら南の港へ、南寄りが吹いたら北のサンフランシスコへ向かうことにした。どうも骨の無いような気もするが、もしこれが人間を相手にしている場合ならどんなものだろうか。つまり人間関係とか世渡りといったことにおいてである。たぶんこれはほとんど一緒のことで、事の次第、目標の内容による。いざというときには、骨の有るところを求められるだろう。今はその骨っぽいところを見いだす旅の途中であり、あまり無理をしないで行こうと思う。

入港4日前から変化が現れた。いままで見られなかった種類の鳥、灰褐色のカモメほどのものが羽ばたかずに滑空していった。三日前には、小さな黒い鳥が海面から幾つか飛び立った。二日前には、腹が白くペンギンのように胴の太い鳥が羽ばたいて飛んでいった。海は緑色に変わり、空きビンや木材も見られるようになった。最初はゴムホ-スと見間違えた、褐色の太い海草も多くなった。これが多く見られるようになると、しけによる波で引き抜かれたのではと心配になり、このように大きな海草を剥がしてしまうしけとはどんなものか不安になった。天気の変化も早くなった。そして前日の夜はとても寒くなり、調理用の石油スト-ブを付けっぱなしにして暖をとった。

1985年1月7日の朝5時45分、予想した方向と時刻にファラロン灯台の灯を水平線上に認めた。朝日に見るアメリカ大陸は、雲をのせ雪を頂いた白い山波が遠くに見える、柔らかな明るさの静かな冬景色だった。

ところでハワイあたりの経度からではなかったかと思うが、この船に追いついてきては水面に降りるということをずっと繰り返していたたぶんカモメと思われる鳥が、今朝は私を追い越していち早く陸に向かって飛んでいった。そのとき低くそしてすぐ近くを飛んでいったということは、彼らは犬や猫と同じように我々とは親しい間柄ではないのだろうか。このように考えると、人間社会の中の他人もまた、思った以上に近い関係にあるのではないだろうか。何が関係を遠ざけたり、近づけたりするのだろうか。これも私の課題に深く関わっているものと思われる。

霧の塊りか、まるでそこだけを隠すように白いものに覆われるゴ-ルデンゲ-トを前にして、通じていなかった無線のスイッチを入れた。混信していたが、オズヨットクラブの家村憲司さんの呼んでいるのが聞き取れた。しかし交信はできなかった。この後、激しく変る天気の中で、この僅かな距離を思うように進めず、夜になった。

本船は午後8時までの間に、次々と並んでサンフランシスコ湾の中から出ていった。それらが終わって静かになり、私の船が水道の入り口にさしかかったとき、厚い雲が切れて満月があたりを照らした。そして同時に吹き始めた軽風をクロ-ズホ-ルドで受け、速度を増した。潮流も味方に転じた。風は安定し、タッキングを数回しなければならなかったが順調に進み、0時数分前、激しくざわつく潮流が頂点に達したとき、色とりどりの灯で飾られたゴ-ルデンゲ-トを一気にくぐりぬけた。そして橋の内側には、まさに鏡のように平で静かなサンフランシスコ湾と美しい夜景があった。

2 U.S.A.

(1)歓迎

2週間の後、ヨット乗りのニア-夫妻が、まずオ-クランドにある自分たちのヨットクラブの留守バ-スを世話してくれ、ここで一息いれている間にアラメダ市にある小さなヨットクラブを探してくれた。そしてこのエオリアンヨットクラブは、私をゲストとして向かえてくれたのである。カリフォルニアの心地よい気候とあいまって、やっと体に張りつめていたものが緩み始めるのを感じた。

■バース 浮き桟橋で作られた係留場所。

エオリアンヨットクラブまでは、クラブ員の所有する10mほどのモ-タ-クル-ザ-に横抱きにし、ゆっくりと走っていった。ここアラメダ市は島なので、途中に3カ所ほど橋があった。これらは跳ね上げ式の橋で、手前で合図すると係員が橋を上げてくれた。橋が上がっている間、道路では車が静かに待っている。そういえば私の最初の係留地である小さな漁港まで引いていってくれた2人の若い漁師の乗ったボ-トも、その少し前に、再びゴールデンゲートの外に追い出されるぞと引潮の注意をしてくれた中年の漁師も、みなゆっくりと走っていた。私は大分趣の違う世界にきたのではないか、そう感じた。

ところで、私はすでに英語のための学校に通っていた。永山昭二さんの運転する車に乗ってヨットクラブに近い学校の事務所に行き、5段階あるクラスのどこに入るかを決める試験を受けた。この時点では、会話のほとんどを理解することができなかったが、ペ-パ-テストの結果は真中のクラスだった。この学校は移民のためのもので、方々にたくさんあり、無料でいつでも入学できると聞いた。午前に4時限と、午後に1時限が用意されていた。受け持ちのリリ-先生の人柄ともあいまって、実に楽しい授業を受けることができた。いつもゲ-ムをして遊んでいる、そんな雰囲気だったのである。生徒は1クラス30人ほどで、ほとんど世界中から集まって来ていた。もしこの世界に難しい問題が無いのなら、この顔形や色そして着るものも違う人々と、一緒にいろいろなことができるだろう。そしてもしできたらどんなに楽しいことかと思わざるを得なかった。さて英会話のほうはというと、その楽しい授業にもかかわらず一向に身につくようなけはいが無かった。体が拒否しているようで、これはずっと続いた。到着時から世話になった永山さんの方は、建築関係の仕事が軌道に乗り、きれいな工場も借りて飛躍の時だったようだ。

■永山昭二さん 全長6mの自作ヨットで太平洋を渡り、そして計画通りアメリカ合州国に住着いた。

(2)異文化

私は確かに別世界、つまり別の文化の中にいた。ヨットクラブではほとんどの人が、いい船だね、素晴らしい航海だねと口を揃えた。ある夜、クラブの二階の一室で会合のあったとき、私はスピ-チを求められたが、そこでは全員が立ち上がって拍手の雨を浴びせ、いやでもその本人を調子に乗せるという例のものを、身を持って味わった。ヨットの不法係留で追われる国から来たものにとっては、ここは別天地のようでもあった。またヨットクラブには外部からも訪ねてくる人々があり、私の手帳には夕食の招待などの約束が、二週間先まで書き込まれることになった。そのなかでも日系のテッド・ニイヤさんとロシア系のレオンさんは、交代で私の授業が終わるのを校門で待っていてくれた。昼食をとった後、色々様々なところへと連れていってくれるというものだった。あるときは墓地の見学を希望した。そのなだらかな丘に作られた広大な所には、想像もつかないほど立派な墓があるのを見た。またテッド・ニイヤさんは、日系の人々と会う機会を何度か用意してくださった。そこでの会話はとても重いものも含まれ、私は聞くだけでせいいっぱいだった。私なりの方向が見えなくもない。しかしそれを口に出すには、あまりに内容が未熟だった。テッド・ニイヤさんは日本とアメリカの関係を、たいへん心配しておられたのである。海軍を引退し、ギデオン協会(キリスト教関係の団体)で責任ある役目もしているレオンさんは、事あるごとに彼の生活の一部に引き込んでくれた。そこで見た彼らの生活は、どうも一人ひとりに発言の機会が与えられているのではないか、保障されているのではないか、そう感じた。だからといってここが天国でないことは解かっている。ただ日本から来たものにとって、ベトナム難民であった人が大きな事務所の責任者になっていることも合わせて、とても新鮮なものに写ったのである。

豊かさも感じた。しかしこの時、日本ではアメリカには何もないという人まで現れて、日本のほうが豊かなんだといわんばかりになっていた。見るところが違うのか、私にはとてもそうは思えなかった。私の最初に世話になった、ニシン漁をする小型漁船の集まる港には、古タイヤをぶら下げているものは一隻も無かったし、船体は皆きれいにしていた。住宅は比べるほうがどうかしているように見えた。二十歳ほどの女性でさえ広々としたアパ-トに入っていた。ス-パ-マ-ケットでの印象もやはり同じものだった。日本のス-パ-だって品物は豊富に違いない。では何故このような印象を持ったのだろうか。価格が安いということばかりではなさそうだ。パンの国でパンを取り上げるのは不公平かもしれないが、柔らかいもの以外にも固いもの健康的なものといったものが置いてあり、とても多様な気がした。米も白米と玄米を置いているのが普通のようである。金物屋には、日本ではほとんど見ることのできないブロンズ製の釘もあった。私の船も、ステンレス製ではなくこのブロンズ製のもので作りたかったのである。ブロンズは丈夫なだけでなく、その錆が木の腐れを防ぐのである。ビニ-ルテ-プは日本でも簡単に手に入る、しかしここにはビニールテープのほかに様々なプラスチックテ-プといったものが用意されていた。どうも日本とは豊かさの種類が基本的に違うのではないか、そう思わざるを得なかった。

長い休暇や週休二日のことは聞いていたが、彼らは毎日の帰宅時間も早いようだ。テッド・ニイヤさんによれば早い人で午後二時、普通の人で三時、遅い人で四時には会社を出ると聞いた。その代わり、早起きと短時間の昼食というものがある。始めは、早朝にライトを付けた車で道路・がいっぱいになるのに驚いたが、これを聞いて納得した。

(3)アマチュアボ-トビルダ-

さて早く家に帰って何をするのかと関係があると思うのであるが、ボ-トの自作はたいへん盛んであると聞いた。ここではそれら大小何隻ものボ-トを見ることができた。ある日金物屋で、アマチュアビルダ-教室の作品が展示されているのを見た。それはこの教室に入ってみんなで取りかかった、最初の作品にあたるものと聞いた。長さ5mぐらいの木製手漕ぎボ-トで、バイキング船でおなじみの鎧張りにニス塗り、実によくできていた。
スプレ-号と同型船もたくさん作られているようで、私が見たものはシングルプランキングの本格的なものだった。本人がいうには、友人にも手伝ってもらって十カ月という短期間で作ったという。キャビンには、航海記で読んだそのままに大きな調理用を兼ねた薪スト-ブがあり、脇には太めの薪がきちんと積まれてあった。そして剥き出しのままの太いフレ-ムと外板が、大変感じの良い空間を作っていた。彼は、なんと風速20mの強風までフルセ-ル(満帆)で走ることができるといっていた。

■スプレー号 百年以上も前の1895~98に、帆船のキャプテンでもあるジョシュア=スロ-カムが小さなヨット、たぶん36フィートの古い漁船を、一人でフレームやキールまで新しくして修復し、世界一周をした。単独。スプレー号世界周航記 草思社または中公文庫にもあり。
■シングルプランキング 最も基礎的な外板の張り方、ダブルブランキングは二重張り。
■フレーム 人間の体なら肋骨にあたる部材のこと。

ヨットクラブにもいくつか自作艇があり、見せてもらった。内装は家具屋さんでもつくったようなできばえだった。合板製のデイセイラ-は私の船のようにあまり仕上げを気にしていないもので、一目で素人が作ったものと分かった。この船のキャプテンは50歳ぐらいの男性だったが、ブ-ムパンチを受けて頬を腫らしずぶ濡れになって帰って来たかと思うと、次はジブセ-ルを逆さに上げあわてて下ろしていた。FRPの船殻を買って、内装を自分でするのも多いようだ。立派なヨットを作る人ばかりではないと思うが、そのための環境や設備はかなりいいようだ。次の航海の準備をしている時、二人のクラブ員から道具などを借りたが、そのとき彼らのロッカ-には立派な道具や工具がたくさん入っているのを見た。日本のプロより立派なものを持っている、そう感じた。この小さなヨットクラブにはレールに乗った船台をワイヤ-で引き上げる上架設備や工作場があり、全て自分たちでやっていた。それに彼らは木を切ったりペンキを塗ったりするのが好きらしく、そんな姿をよく見る。またこのクラブには、とても古い木造の外洋クルーザーを修復している者もいた。

■デイセイラ- ちょっとした遠出ができるようなもの、ごく簡単なキャビンが付いているものもある。

さて日本ではアマチュアビルダ-の評判はかなり低い。手先が器用といわれ、技術立国とか大国といわれるのにである。お金、特に時間に余裕がない中で作ることもその理由に上げられるだろう。建造場所を探すにもたいへん苦労する。それとヨットの自作という仕事が、我々にとって少し大き過ぎるのかもしれない。つまりよくいわれる、日本人の持つ感性的思考の範囲を超えているのではないか。また社会的評価は変わり者といったところであまりよくない。技術立国で船を作るものが変わり者というのは不思議なのであるが、これこそ日本的な問題を現わしているように思う。航海術もそうだが、建造技術は手探りの自己流となりやすい。これだけの国なのであるから、それらの技術は得られるはずである。しかし実際にはなかなか大変でエネルギ-もいる。ただ和船ならいざ知らず、洋船の建造技術がボートの造船所以外に広く社会一般の中に存在しないということもあるだろう。このようなこともあってか、常識あるいは伝統とかいったものから離れ、本人の思いつきのようなもので飛躍してしまう傾向が強いようにも感じる。和船の場合は長い修業時代が無いと無理だということで、アマチュアが育つ希望はほとんど無い。ここでは大学が市民に開放されているということであり、天測航法は市民なら無料で勉強しに行けると聞いた(航海後に、わずかだが授業料を払うとも聞いた)。

ところで日本の造船業はもちろん盛んである。では個人のところでそれほどでもないのに、仕事のところで成り立っているのはどうしてだろうか。それは骨格としての経営技術あるいは建造技術はたくさん輸入されているし、これに得意の人海戦術をプラスしているということではないのか。肝心なところは向こうから技術者が来ているのかもしれない。ヨットの自作者は怪しい知識で自己流に陥りやすいが、造船業としての個人レベルのところでは職人として高い技術を身につける機会があるだろう。とにかく、この極めて個人的な活動という部分が問題ではあるようだ。

(4)文化について 1

さてアメリカの文化には文化全体を通しての骨格というか構造物があって、それが彼らのこれまで見てきた生活を支えているのではないか。ゆっくりしたボ-トの速度もここから来るものと推測できる。自動車免許取立ての日本人女性も、アメリカなら安心して車での買い物も友人宅を訪ねることもできると聞いた。つまり文化の構造や回路のあり方によって、個人の行為も決まってくる。長期休暇をとっての南太平洋への航海も、これを可能にする文化の能力として見ることができる。個人的にお金を貯めこんでも限界があり、広く文化として社会的に能力を高めたほうがさらに可能性が大きくなる。福祉のことでも同じ意見を聞いたことがある。このことから日本のことを考えると、この骨格の部分の開発が遅れているのではないか。もちろん日本の文化においては、それは骨格といったイメ-ジのものではないかもしれない。これが借り物ではなく、日本の文化の目差す方向での独自の開発がなされたとき、本当の豊かさを手にすることができるのではないか。また個人としての能力も高度なものに脱皮できるのではないか。また遅れているといったが、それは難しいことに挑戦しているからともいえそうで、新たな可能性が潜んでいることも考えられる。

いいことばかり書いたようだが、やはりアメリカも天国ではない。銃はよく目にした。ヨットにも積んである。ヨットクラブの玄関には常に鍵が掛かっていて、勝手に入ることはできない。ある家には、二重ではなく三重の扉を開いて中に入ったように記憶している。やはりアメリカも、生きていくのは大変なようなのである。帆走に出るたびにそのまま水平線の彼方へと旅に出てしまいたいと思う、あるヨット乗りはそう語った。その中年ほどの人は、職場には戻りたくないというのである。また日系の中年の女性は、アメリカでは好きなだけで結婚するのはアホのすることであるといわれている、と教えてくれた。日本では親が心配することを、ここでは自分でしなければならないようなのである。これは、個人のところに選択があるのだからある意味ではやはり進んでいると思うが、ほんとに本当のところはまだ解決しているわけではないとも感じる。

(5)出帆準備

7.3mガフカッターと私

滞在が二カ月になった三月の初め、私は出帆の準備を始めた。高橋 茂さん一家の好意で、ラスベガスやグランドキャニオンなどにも連れて行ってもらった。もう海に戻るべき時が来たものと感じた。このまま長居をしても何も解決しないだろう。やるべきことはここでも山ほどあった。ぜひともやりたい新しい工夫もあった。一つは船尾の後方に落水防止用のバンパ-を設ける。コックピットには、これもやはりステンレスパイプで手すりを二カ所設ける。これは天測時に腰を乗せるものとして、おおいに役立つことが後で解かった。折れたブ-ムの修理もある。さて準備は開始したが、行きたくないというもう一人の私も奥のほうに感じた。ここで一緒に過ごした人々とは、もうずっと一生二度と会うことはない永遠の別れになるということが、非常に気を重くした。だが実のところは北太平洋での後遺症、肝っ玉に入ったひびがまだ治っていなかったものと思われる。

■バンパー こちらの人がそう呼んでいた。ステンレスパイプで船尾の外側を囲んだ。

文化について 2 自然としての左利きと文化としての右利き

出帆準備に忙しくしていたある夜のクラブハウスで、この航海のテ-マにも深く関係している私の左利きの問題について、二人の男性から聞く機会があった。この問題には、私の中心的テ-マである自然と文化についてのことがよく現れている。自然としての左利きに、文化としての右利きが強制される。これは他のことにも当てはめることができる。例えば自然としての女性に、文化としての女性が強制される。それはまた、自然としての人間に文化としてのというように、様々なことについていうことができる。ここまで来ると多くの人々が混乱するのではないか。つまり原始人と現代人を比べてしまう。私のテ-マは、一人の人間の、そのなかの自然と文化を考えている。英語はほとんど上達していなかったので、質問は一つだけだった。それはいつの頃から、悪いこととしてやってはいけないことにしたかというものだった。私の予想に反して、ヨットに住んでいたチャックからは1950年頃ではないかという答えが返ってきた。もう一人のジ-ンも、まあその頃だろうと答えた。アメリカの場合は左利きをよく目にするし、左利き用の道具も用意してあるので、私はもっとっずっと以前からであるという答えを予想していたのである。これはその後、寄港地ごとに聞くようにした。フレンチポリネシアではフランス人、アルゼンチンではスペイン系の人、南アフリカではイギリス系の人に聞くことができた。そして皆1950年頃と答えたのである。今でも日本では、悪いことであるという意識は低い、あるいははっきりしない。それは新聞や週刊誌でこの問題を取り上げたときの記事を読めば解かる。やってはいけないというのは、右利きの人に左利きを強制すれば説明など要らないのであるが、本当にやっては大変なことなのでそうもいかない。これがどれほど心身を深く傷付けるか、現在では犯罪に値すると認識すべきである、と私は思う。(何時のことだったか忘れたが、アメリカにおける人種差別の体験学習といった番組を見た。小学生のクラスだったように思うが、選ばれた生徒のその青い目や髪の色を、先生が率先して事あるごとに徹底的に差別するのである。)

文化について 3

カリフォルニアの天気は気持ちが良かった。明るくさわやかな空気のなかで、仕事はどんどんはかどった。ヨットクラブでは昼食会が定期的に持たれているようで、大きな体の優しい目をしたディックがよく呼んでくれた。また夕方からはバ-が開かれた。どちらもクラブ員が交替で調理をし、バ-テンダ-をするのである。ときにはプロのストリッパ-が呼ばれた。ドアを隔てた表のテ-ブルでは、ここは毎朝コ-ヒ-を飲みながら話をするところでもあるが、2~3人の奥さんが終わるのを待っているのか静かに話し込んでいた。またヨットクラブの広間には、ここを訪れたヨットとそのクラブからと思われる礼状がたくさん飾ってあった。それらはきれいなカ-ドであり、彼らの間では形式が決まっているものと思われた。

そんなある日、仕事でアメリカに来ていた2~3の家族の子供たち全員が、クラブの中に飼っている蹴飛ばしても大丈夫な感じの、おとなしく大きくもない犬を見て泣き出した。皆大粒の涙をポロポロ落とした。幼児から小学生まで5~6人だったと思う。そのとき私は、彼らは紛れもなく日本人だと感じた。私も小学生の頃、犬がこわかった。みんなで逃げ回った記憶がある。このことは後にアルゼンチンでも、日系の五十代の男性に聞く機会があった。彼も子供の頃、それは日本でのことであるが、犬は恐かったそうである。どうも文化というものは、日常的な細々としたものから、内面的心理的な世界まで大きな一つの世界を作っているように思える。

さて毎日のあいさつも、もちろんその一つである。そしてここでの、日本とは違うあいさつの仕方が気になってきた。調子はどうかといわれているようなのだが、良いといっておけば済むのにそれがどうもしっくりこない。おはようなら気持ちの問題に触れないので気にならないといえる。しかし、このようなあいさつに慣れていないせいか私の性格のせいか、形式的に良いとはなかなかいえなかった。大体は気分のすぐれない日が多い。もちろん悪いともいえない。こちらの人はどのような言葉のやりとりをするのだろうか。多分、まあまあだぐらいに答えておけば無難なとこなのだろう。ところで、日本でも明るく元気にといったことが強制的な意味合いを持っているように思う。私もがんばってなどということが多い。確かに我々は色々、深刻でややこしい問題はあっても、とにかくプラスの面を信じる気持ちを保持しておかねばならないようだ。そして私のテ-マの一つは、本当のところを聞いてくれ受けとめてくれる、またそこから始まる生命活動といったことが、この文化の中にごく一般的な能力としてまだ開発されてはいないのではないかというものである。悪いといったところでどうにもなるものでのないし、極端にいえば休むこともできない。ごく限られた小休止だって難しい。段取りの変更は自分を取り巻く広い状況の中では困難であり、自分自身の小さな範囲に留まる事が多い。いや自分自身の中でさえ対策に限りがあり、その能力に限界がある。つまり人間の微妙な、そして当然なともいえる生命活動そのものを取り扱えないでいる。生命活動とは気分がいいとか悪いとかばかりでなく非常に広範な働きをしているものであり、様々な問題に対し自由自在で高度な対応により、高い成果を上げえる可能性を持っている。今はこの可能性のある生命活動を、自由度の低い固い枠組みにはめ込むことで生きている。生命から見れば、この文化という人間の生きる世界はまだ生命的ではないように思える。学校とか職場を考えただけでも(当然家庭も?)、そこはあまりにも生命とかけ離れているように思う。

このことは、文化の部分ではなく文化そのものについて考えをめぐらすことになる。一つの文化はもっと大きな世界、様々な文化を含む世界の中にある。私の航海も、ここまで形を成してきたその内容はとても複雑である。非常に長い世界的な歴史に、さらに近代化や国際化とかの流れを受け、これに日本的な問題が関わっている。もちろん歴史は、生物の進化そしてそれ以前の、宇宙の生成にまで関係が及ぶ。さらに日本的な問題では、小さな地域のたった一人の個性的な状況がある。これら全てが生きて働く、この大きな広い意味での文化とは何かを知りたいのである。つまり、文化とは誰もが生きていく空間なのであるから、その空間を本当の空間として成り立たせるものが知りたいのである。そしてそれは、どうも自然とか宇宙のなかにヒントがあり、我々それを常に見ているような気がしてならない。それはまた、私の中にいつも働いていると思えて仕方がない。

(6)出帆

出帆

1985年、4月14日(日)を出帆日と決めた。それは入港から三カ月と一週間目である。船底とともに、船体もこれまでより少し濃い目の青を塗ってきれいにした。ここのマリンペイントは艶があり、仕上がりは上できだった。船底はフジツボが一つも付いていなかったが、これからの航海のために塗り重ねた。ヨットクラブでの滞在は、上架などを含め全て無料だった。

出港日が近づくと、幾つかのパ-ティが開かれ航海の安全を心から心配していただいた。ここに留まりたいという気持ちは非常に強かったが、行かねばならないということもはっきりしていた。航海計画をやめてしまうような理由は、たぶん見つからない。

メキシコのエンセナダまでの一週間から十日間の航海に、セーリングを始めたばかりの末広完二さんが同乗することになった。彼はヨットに大変魅せられており、小さな外洋ヨットも手に入れた。その船は市営のヨットハ-バ-に係留されていた。それにしてもこの湾内には、どれほどのハ-バ-とボ-トがあるのだろうか。日本の全部を持ってきても足りないのではなかろうか。さて出帆日はいつものように天気が良かった。これは私の行きたくない気持ちを和らげた。見送りの人々を乗せたモ-タ-クル-ザ-のモ-ニングソングは私の船を引いて湾に出て、それからゴ-ルデンゲ-トに向かった。ゴ-ルデンゲ-トが見えるはずの所には、この橋だけを包むように小さな白い霧の塊が見えた。私はモ-ニングソングに乗り移り、みんなとの心温まるひとときを過ごしたが、やがてこれも終りが来た。我々は濃霧の中に入っていき、外洋への出口のところ、位置を確認できる岩礁のすぐそばでもやいを離した。だが帆を上げ手を振る間も無く、我々は濃霧のために切り離されてしまった。有無をいわさぬ無慈悲な出来事だった。そしてそこは恐ろしげな、気の重くなるような風景の中だった。

3 カリフォルニア沖

テッド・ニイヤさんの弟さんに用意してもらったキングサ-モン用の仕掛けを入れると、すぐに食いついてきた。しかし、力が強く引いても少しも浮いてこない。この日は十分な量の糸を用意していなかった、こちらの完敗に終わった。翌日もすぐに食いついてきた。だが私には手に負えない相手であることを、認めざるを得ないことになった。それに魚どころではない重大問題が現れた。天測によるポジションラインが、全くとんでもないところに出るのである。何回繰り返しても同じことで、少し頭がおかしくなってきた。実例による手順を示した図によって、一つの漏れ落ちも無いようにやってもだめだった。どこにも誤りを見つけることができない。幸いにも海は極めて静かであった。夜になると陸に近づき、灯台の灯質で位置を確かめた。翌日も原因は解からなかった。末広完二さんはアメリカ式なので、私の誤りを発見することはできなかった。それに彼はまだ勉強中で、正確な位置を出せるには至っていなかった。天測開始から三日目、私はロサンゼルスに向かうことを決めた。航海の専門家に力を借りて、この問題の原因を突き止めようと思ったのである。そしてこの日の午後、再び謎解きに挑戦した。私は人差指で計算表の数字をなぞっていき、目当ての数値を押さえた。そしてこれを、計算のために別紙に書き写した。この時私は、計算表に置いた指をそのままにしておいた。そしてこの計算表の数値と書き写した数値とを、何気なく見比べた。驚いたことに何桁もあるこの二つの数値はまったく違っていた。隣の列から数値を拾っていたのである。つまり数字を拾うその瞬間に、私は目眩ましの術にかかっていたのである。ついに謎が解け、真相が明らかになった。私の中の航海を望まぬ者は、ついにこのような形で手を打ってきたのである。だが解かったからには取るべき道は決まっていた。予定通りメキシコのエンセナダに向かうことにしたのである。それにしてもこんな姑息な手段を使うとは、どうせ航海を望まぬ者が勝てるはずは無いのだが、肝っ玉に入ったひび割れはまだ修復していないのか。

しかしこの時我々は、サンタバ-バラ諸島のミサイル実験区域に入り込んでいた。私のイギリス製海図にはこのことが記載されていない。停船を命じられて取り調べを受け、そしてロサンゼルスまでの諸島を抜けるコ-スを指定された。天測航法の問題が解決するまでの間に入ったこの出来事は、再々迷惑をかけることになった。あまりにも静かで平和そうな海だったということもあり、指定されたコースからメキシコにコ-スを変えたのである。

4 メキシコ

メキシコのエンセナダでは、すぐに面白いことに気がついた。商店で買い物をしても、ありがとうといわないことである。パン屋でも、レストランでも、金物屋でも聞くことがなかった。アメリカではとても愛想が良かったので、感心したものである。この問題はここに長く住まないと解けないかもしれない。推測に過ぎるかもしれないが、ありがとうというのは他の店ではなく私の店に来てくれてということかもしれない。ここでは売る方も買う方も、もっと一体的な関係にあるのではないか。まあ、この問題はこれぐらいにしておこう。関連があるかどうか、歩道ですれ違うときは互いに譲り合うことができた。向うでは、私のほうばかりがよけていたように思い出されたのである。しかし、これは私のおとなしい性格が出ただけかもしれない。

ところで、私の中の航海を望まぬ者は少しも引き下がってはいなかった。それは尋常ならざるもので、私を騙すためにあの手この手を使って出し抜こうとした。天測ではまず私が勝利を収めたが、それはほんの緒戦だったらしい。だがどれほどうまく意識を牛耳ることが出来ても、最終的に彼が勝つ見込みはほとんどなかった。なぜなら彼はこの世界、人間社会の常識にうといようだったし、緒戦での天測のようにそれは何時か解明されてしまうものである。しかし油断ならないことではある。航海の途上であり、割と簡単な図式の上にあるので何とかなっているが、そうでなければ道を誤るかもしれない。これが普通の生活の中でなら、他人を巻き込み巧妙に自分自身を騙し続けるかも知れない。しかしそれを見、感じる自分もいる。ということは多重人格的なことが普通のことで、それが健全な範囲にあればよいことになるか。

滞在も一カ月に近づき、ようやく自分を取り戻したころ、キャンバス製の折りたたみ式カヌ-(自作仲間の山城正幸さんが提供してくれた)で、9マイル(17km)ほど先のトドス・サントス島へ遊びに行った。そこには二家族10数人が、ひどく小さくて屋根も一部しかのっていない貧しい小屋に暮らしていた。一時的な、漁のためのものかも知れない。年長のほうの主人は英語を話し、タバコとコ-ヒ-をすすめてくれた。小屋の脇には日本へ行くという天草らしき黒いものが、ぼろ布のように置いてあった。彼は夕暮れまでに帰れなくなった私に、自分の船で送ろうかという話を持ちかけた。それは私にとって少し値が張ったし、安くてもこの日に帰る理由は無かったのでこの話は成立しなかった。しかし彼らの生活を見ると、少しはお金を使うのも悪くはないと思った。また安ければ帰る気が無かったわけでもなく、早々と交渉を打ち切ったことを反省した。夕暮れはすぐにきて、私は彼らの小屋から100mぐらい離れた崖のところ、すぐ下に波が打ち寄せているところでカヌ-を解体し、キャンバス製の外皮に周りの枯れ草を山ほど被せ、その中に潜り込むことにした。夕食は、彼の奥さんがアワビの入った炒め物を作ってくれた。草をむしり寝ごこちを良くしようとしているところへ、小さな(三つ?)男の子がよちよち歩いてきて、毛布を一枚貸してくれた。

島から帰ってすぐに出港準備に取りかかった。水道水はビ-ルス性の肝炎にかかるため、飲料水は水屋から買った。これは酷い目にあっていた池川富雄さんから何度も注意を受けていた。美味しくて私の健康にはなによりも効くと感じた大型のアップルマンゴ-は、ス-パ-マ-ケットを何度も往復してたっぷりと買い込んだ。ただ錨泊しか出来ないこの港では通船にお金がかかる。

出帆

出帆は、風邪ぎみで少し熱があり、アメリカで貯えた体力もすっかり失ってしまったような中でのことだった。あの漁師らの住んでいる島の側を通って、太平洋へ出た。この島では二つの約束を果たせなかった。一つは、島にある小さな湾で先に行っているアメリカのヨット乗りの家族と合流し、小さな息子を私のキャンバス製のカヌ-に乗せることだった。いわゆる自閉症といった彼は、私が乗っているカヌ-に非常に強い興味を示したのである。しかし出港手続きに手間取り、その日を棒に振ってしまった。もう行っても会えないだろう。街で偶然奥さんに出会い、言訳ができたのがせめてもの慰めだ。もう一つは、漁師らのところに錨を下ろし、この前のお礼にラジオを貸してあげることだった。私も島の生活を知りたかった。潜ってアワビを取り、カモメの卵を拾いにも行きたかったが、外洋に出たい気持ちが押さえがたく高まっていた。しかしこの3日間ほどの時間も取れないという、この余裕の無さは大いに問題があると思う。これは私の短気さにも関連しているだろうか。

次は、南太平洋へ です。

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