ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

make2003~8

▼第二章 統合体段階の文化から、空間段階の文化へ

[2] 空間を作る 2003~8

テーマ


日常的な生活や仕事、
そして一生続く、生きるという様々な要素を含む生命活動に対し、これまでに無く細やかで質量ともに充実した、手軽でしかもどこまでも奥深く、一人気ままに出来るけれどいつでも協力体制がある、そのような仕組みを作ることは出来ないだろうか。

人間という
それぞれが優秀でありふれた機能を持つ生命体を、この社会の豊かな要素としてそのまま使うことは出来ないか。

人間の活動を、この世界の要素そのものとして社会の中にデザインすることは出来ないか。


1 人間が主人公

空間では、知的な生命活動をし優秀な情報機能そのものである人間が仕組みの主人公となります。

誰もが持っているこの能力を活用する仕組みにより、自らも状況や個性に合わせてその運営に関わりながら、問題を解決しテーマを発展させて行く事が出来る。そして空間の持つ高度情報機能という仕組みによって、より大きな自由と確かな手応えを手にする事が出来る。またその仕組みは、水を得た魚のように人間を蘇らせるものでなければならないが、本当にそのようになるには様々なアイデアを試す皆の知的な生命活動にかかっていると思う。

まず知的な生命活動をする人間は、様々な知識と経験を持っている。
そしてこれをかなり自由自在に呼出す事ができるし、必要な部分だけを切り出す事もあっという間にできる。この知識と経験の中には関連する情報を持つ他の人間、あるいはその情報を知り得る場所も入っている。関係ありそうな不確かな情報にも、あるいは全く別分野にも思考は広がってくれる。これらの処理速度は極めて高速なものであるし、その広さそして量は膨大なものである。現在、この人間の能力を仕組み立ててはほとんど活かしていないと考えられる。

もう1つは各人の持つ夢や計画、あるいは大小様々な解決すべき問題である。
これらは日常生活に関わるもの、趣味、遊び、仕事、人生、社会、心、世界観などその問題は極めて広範囲にわたる。つまり、これら解決し実現すべき問題、課題、夢、テーマは、人間の知的な生命活動そのものによって生まれ様々な展開をしていく。我々の社会、世界はこれら様々な活動によって成立っている。このようなことから、人間の生きるというこの生命活動を全面的に支える自然界同様の高度な働きをする仕組みを作れば、非常に大きな創造力を生み出す可能性が出る。この大きな創造力によって、自然との調和も考えた困難な仕事もこなし、この世界を快適に、そしてこれまでになく豊かにする事ができると思われる。

2 絶対自律性

絶対自律という言葉は、久松真一著「無神論」1981法蔵選書で知った。人類は神律的他律から相対的自律と進み、絶対自律を目指しているとの事である。

自律性は空間というものの中心的なテーマと思える。ここでいう自律の意味は、自分で自分をといった意識的あるいは外部からの独立というより、自律神経という言葉から受けるような意識を超えて働いているものとして捕らえている。よってもともと持っている生命としての動きのこと、ここでは知的な生命活動というものが生命に備わった生命本来の働きであること、生命を全うさせるものであると捉えている。つまり、知的な生命活動をこの世界そのものの働き、要素として考えている。この知的な生命活動に自律性を得ることは、知的な生命活動に本来の生命を得ること、あるいはより高度な知的統合活動(=知的生命活動=創造活動)への飛躍と考えている。よってこの自律性は、絶対的なものということができる。

このように、自律性を得ることは、この世界そのものの働き要素である知的な生命活動と、その営みを行う知的統合空間というものが、自然や宇宙と同じように空間としての生命を得るために無くてはならないものと考えられる。確かに、限られた知的生命活動をしなくてはならない現状でも、皆それなりにうまくやっているということはできる。つまり本来人間は自律的なのであるが、状況のすべてに対して統合活動ができない不自由な思いをしている。生命を持つものとしては、自らの生きる場が限られたものになっていることにもちろん納得してはいない。本当に小さな場面で考えても、人間は状況を知りたがり、うまく対処しようと皆苦労している。それを頭から押さえつけるとちょっとした騒動になることもある。事件も起こる。しかし一般的にはギクシャクした中でそれぞれがうまく立ち回り、我慢することになる。不信や対立もここから生まれる。また、2人になるとどちらの自律性に合わせるかで自然に主導権争いをする事にもなる。自律性とはそれほど人間にとって大事なものである。ちょっとした仕事を頼む場合、その中身つまり仕事そのものの出来具合を考えるとこの争いが苦手な人のほうに任せたいと思うこともある。これは親子あるいは大人と子供という関係、いやあらゆる関係においてこの問題が存在する。日常的なものだけに深刻でもある。特に子供の場合は問題が大きいと思う。もちろん我々の文化にはさまざまな仕組みや共通の理解があり、何とかひどいことにならないようにしているということはある。グループや組織に身を置けば、強制的大規模な枠組みの中でそう簡単には対処できず、さまざまな弊害が出る。そして多くの人が活力を失うという事態も起こる。もちろん相手の自律性を尊重し、対等に主従の交代や配慮をするあるいは見守ることができる人もいる。あるいはより多様な方法を認めることで対処することもあるが、依然として認めない力も強い。このように自律性は生命が本来望むところのものであり、生命が生命であるために必要なものが自律性であるといえる。そしてある程度はこれが認められている。しかし現在のわれわれの生きている社会で考えてみると、どちらかというと何もかも本人の自律性に任せるのでは規律も何もあったものではなく、学校にも仕事にも行きたい時に行くことなど認められないということになるかも知れない。それでも、自律性を元に育った人間は高い社会性の意識、皆との協力の能力とその豊富な経験を持つと考えられる。もちろん現在でもほとんどの人はこの社会性を身につけているが、知的な生命活動が自律性を得ることによってこれが弱まることはないだろう。なぜならば、もしも空間による自律統合での成長あるいは生活が可能になった場合、自然な形でこれまで以上に広くに社会とのやり取りを深めることになるのであるから、これで勝手気ままな性格だけが育つとは考えられない。反対に空間のこと、つまり社会や自然を身近に考える気持ちをこれまで以上に育て上げることになるだろう。自律的な生命活動(知的統合活動)とは空間という仕組みに乗って自由自在に飛び泳ぐものであり、当然この世界のさまざまな要素、出来事を自然に取り入れることになる。それにスポーツにおいて考えた場合、ルールや監督の指示に従わないなどという事を考える者がいるだろうか。

ところで、自律性を持つということ、あるいは持っているということは、その裏づけとして、何か知的な生命活動のための非常にしっかりとした基盤がすでにあるということになる。そのような基盤を皆の日々の統合活動を元に創造するということでもあるが、現在の我々自身がすでにその基盤を持っている。持っていなければ現在のような安定した知的生命活動の日々を送ることは到底不可能なことである。その基盤の信頼性をを認識する必要もある。それはつまり人間そのもの、人間という存在丸ごとに対する信頼であり、生物としての人間であるからには自然やこの宇宙に対する信頼でもある。知的な生命活動の自律性は、このような上に考えられることである。いい換えるとこの自律性を持った仕組みは、この宇宙そして自然そのものである人間の、その生命のために統合活動ができるということになる。自然においては、生存競争をする生物に自律性が無くてはあまりにも危うい。人類が高度な文明を持っているといっても、それぞれがその生命を全うするという点では同じである。つまりこの生命のためにということが極めて大事で、この生命こそが自律統合活動を求めているのである。よってその場その仕組みは極めて生命化したもの、本当に100%生命と一体的なものとなる。生命のための自律統合活動とは、自らがその活動を自由自在にすること、できることであり、知的生命活動をする主体である人間が、知的統合空間の無条件の主体となることである。つまり人間は知的統合空間の無条件の主体として、制約を受けずに自由自在に統合活動をする、できることになる。それはまるで人間が100%自由に振舞っても良く、その空間の中で垣根が無い。これは人間が人間として生きることを100%信用されていると考えられる状態でもある。 しかも徹底的に信頼する必要がある。人間としての皆の知的な生命活動に、空間の性能、存立を委ねるのである。少しでも人間(個々の人間ではなく自然の生物としての人間)に対する不信があり、その対策のため仕組みに不自然なものがあるならば、どこかで行き詰る。つまり自律性を歪めるものとなってしまう。それは知的な生命空間にとって致命的な事である。それに不信を解消するための仕組みとは、何を基盤にするだろうか。

自律的であることを人間の知的な生命活動は求め、その自律性を空間こそが可能にする。そして空間の仕組みが生命空間といえるまで高度化することが望まれる。初期の、空間の仕組みがごく素朴なものであっても、日々の自由な自律統合活動は知的な生命活動そのものを活発化させる。この活性化によって、空間の仕組みによる情報の機能化はさらに細部へ、ごく日常的なところへと働くようになる。まさに毛細血管とその血流が隅々までいきわたることになる。そして、これら日々の自由な自律統合活動によって、その機能が生命空間といえるところまで飛躍する時が来る。このように生命空間と自律統合は一つのものとして発展し飛躍する。もちろん放っておいても人間は自律的に自分というものを育て生きていく。経験を積み、未知なるものに挑戦し、技術の開発をし、自らの内外にさまざまなものを創造する。これを空間というもので徹底して支援し、人間が人間であるところの知的な生命活動にとって最も自然で滑らかな活動を実現し、それぞれの個性にも、千変万化する状況にも対応できるようにするのである。そして誰もが普通に生命を全うする。

さて生命空間にまで飛躍できれば、情報機能は想像もつかないほど高度なものになるだろう。この高度な情報機能によって、個人のそして社会の創造力は非常に高いものになる。それぞれの自律的な統合活動によって、飛躍的な創造力の増大がもたらされる。そしてこの創造力(=知的統合力)はその姿かたち、大きさを変化させることも自由自在となるだろう。。さまざまな困難な問題が解決される可能性も出る。社会には痒いところに手の届く、快適なシステムが生まれるだろう。当然、不健全な緊張は減る。社会的経費は非常に少なくて済む、あるいは非常に効率が良いということになるだろう。絶対的な自律性を貫くことにより、人間の多様な個性に沿って2重3重の回路が生まれる。不安を抱えての漂流ではなく、個性的な生命活動として多様な道を歩むのである。完全に自らの力で知的な生命活動を営み続けることができる。その自由度、そして安心感は想像を超えるものと思う。これはいわゆる社会保障制度の内在化であり、少し心配な子供でも親は安心して旅立つことができるだろう。知的な生命活動が自律性を持つということは、環境と自分とがより一体的になることである。自律性は空間という仕組みが支えているのであり、その統合活動はどこまでも開かれている。どちらに向かってもいいし、速度も自由自在、一休みも勝手にできる。自分にあったグループを選択し、関わり方を自ら設定する。とはいえ大方の部分は皆と同様なものとなるだろうし、協力(知的統合の合力)するための能力とその多様な方法は皆と共有している。自由を求めることは昔から皆が見せているごく普通の行動である。これを自律という生命の根本的なものとして認め、空間というものの技術開発で大規模の能力を得てこれを保障するのである。

3 空間の運営と個人の活動について(高度情報機能の運営)

ごく一般的な問題として、皆のものである空間は誰によってどのように運営されていくのだろうかという事がある。

これまで述べてきたように、空間を成り立たせる高度情報機能は100%技術的なものである。テレビや自動車と同じで技術がすべてを決める。快適で高性能な空間は高度情報機能の技術開発や日常的な創意工夫にかかっている。そして空間は人間そのものが主人公であり、その知的生命活動の絶対自律を求める。よって運営は誰かがするのではなく、皆の豊富で多種多様なテーマを頼りとして、皆によって日常的にそしてごく自然にしかも極めて活動的に行われるものということになる。

さて空間には高度情報機能を得るためにいくつもの仕組みが考えられる。後述する設計の章には現時点で考えられるものを提案した。これらのサービスは利用しやすい形で無数に用意されることになる。一人の人間はこれらの仕組み、サービスの何処にでも、そして提供する方と受ける方の両方の立場で自由に関わる事になる。つまり空間に関する各種サービスの運営には、皆が関わる。関わることが自然にできるようになっているのが空間なのであるが、関わらなければならない、あるいは義務があるというものでもない。あくまで皆の自律的な知的生命活動あるいはそれぞれの個性的な状況による。場合によっては専門的な知識あるいは経験を積む必要もあるだろうから、その関わり方は千差万別である。一人での行動が好きな人は必要なときだけ関わることになる。好きなようにしていても何時でもどこでも必要な時関わりたい時に自然にできるのが空間である。また人間の知的な生命活動は極めて広範であり、空間の仕組みに直接関わるものはそのごく一部であるとも考えられる。しかしこの広範な人間の知的生命活動全体を空間の高度情報機能が支援するということであり、これによって誰にでも空間の仕組みとのごく自然な関わりをもたらすことになるだろう。また基本的に空間は世話好きの面があり、各種サービスを通して個人への働きかけは活発であるといえる。もちろんこの世話好きということも空間の高度情報機能によってそのような働きがあるということである。(特に統合活動の場としての①広場と②支援サービスにおいては、この世話好きあるいは積極的な支援というものがその仕組みの中に当然作られる。つまりチームが用意され、皆の知的な生命活動が滞りなく行われているかを見ることになるだろう。)また状況としては、後述する空間の技術を研究し支える⑦研究研修サービスによって皆が知識や技術を身に付け、自律的な活動ができる豊富な人材としてどこにでも無数に存在することになる。また空間の技術として欠かせないチームワーク(後述の、2 技術についての中にあり。)なども一般的なものとなっているだろう。このように、高度情報機能に支えられ知的な統合力(創造力)を高めながらその運営をするのである。

また各サービスに対する各自の評価もある。どれもが気に入らず独自の道(つまり新しい仕組み、サービス)を用意するのも容易である。空間の仕組みの中にその独自の道を支援する仕組みが用意され、望んでもいる。これらの問題も、皆で空間の高度情報機能を研究し様々な技術を開発する後述の⑦研究研修サービスが重要な役目をすることになるだろう。ここでは空間についての大小さまざまな課題、問題に対し皆が(個人であるいはグループ、組織で)自由に様々な取り組みをする。もちろん自分の都合に合わせ、あるいは穏やかな連携のもと自在な協力でやっていく。また空間では、皆の知的な統合活動によって様々な問題点、課題そしてテーマなどが集約されて自然に浮かび上がる事にもなるが、これらの解決に⑦研究研修サービスとしても取り組むことになるだろう。このような場合、同様のテーマでも、いくつもの取り組み、いくつものチームが用意されあるいは生まれることになるだろう。地域的な問題もあるし、もともと空間では多種多様なものをそのまま生み出す仕組みになっている。規模もある。当然、すでに独自の考えで、個人やグループ、組織での取り組みがされている場合も考えられる。もちろんそれらは空間の支援を受けている場合も少なくないだろう。それらの取り組みは空間という緩やかな連携の中で協力し影響しあいながら新しいものを生み育てる。そしてその中から支持を得ていくものがある。つまり自然な変化が期待できる。元々多種多様なものを生み出すのが空間である。皆の自由な取り組みによって、より自然により良いものが生まれていくことになる。空間の持つ大いなる連携により、変化を求める人も急激な変化を求めない人もやっていけるだろう。対立する問題では、それら様々な取り組みがより早く解決する方向へと導き、無用の混乱を最小限に抑えるものと思われる。そして共通の理解から合意を得たものについては大いなる創造が可能になる。つまり空間の働きそのものの中に経営といった意味の働きも含まれている。皆によって支えられる高度情報機能が、社会の変化により素早く柔軟に、そしてより自然な動きで対処するというわけである。この皆の自由自在な知的統合活動、小さくてもその流れを止めるものは無い。空間の仕組みはそれらを支援するように作られている。つまり多種多様な形でサービスが試され提供される。このように経営的な意味での運営は、仕組みそのものの働きがより良いものを生み、より自然な変化を可能にすると思われる。

一方、仕組みを動かすといった意味での運営も、同じように皆の自由自在な知的統合活動そしてそのテーマこそが頼りになる。実際、高度情報機能の各仕組み、サービスを運営し提供するのは独自の考えと方法を持って様々な取り組みをしている個人、グループ、組織でもある。後述する各仕組み、サービスの運営に置いても、より良いサービスは個人の活発で自由自在な統合活動による。つまり日々の生活で皆が感じるものが空間を動かすものである。知的統合をする人間もその統合空間も日々変化する。これらに対処するのはそこにいる人間であり、それを支える高度情報機能である。また専門に携わる人が多数必要になることも考えられるが、当然これらの人々と皆とは同じ立場である。もともと知的生命活動をする人間と知的統合空間は不離のものとして深く関わっている。よって空間を成り立たせる高度情報機能の運営に関しては、多種多様な連携の形、方法が生み出されるものと思う(後述の空間性について参照)。時間があり関心を持っている人は好きなだけやれる。また多くの人は日々の活動の中で空間に関する問題課題を感じ、それを解決すべく取りかかるものと思う。空間はそれを支援するようになっている。そしてこれらの仕事は空間としての高度情報機能が働くようにする事、目標はこの一つだけである。後述の、設計の章で提案している⑦研究研修サービスにおいても、技術者を育てる事(技術者として仕事をするということではなく、誰もが対象の一般的な意味で。)になっているが、そのやり方、内容は皆の開発した技術が元になる。また育てるというその運営そのものに皆が関わっているのは当然である。ここでの日常的なあるいは自らの都合による時間での研究研修で、様々な技術を身につけ運営の一端を担う。さらにこれらを通して、共通の認識、理解、そして連携するものを育てるものと思う。空間の運営は誰かがするのではなく皆による日常的な創造活動として行われるのである。またこれら技術者としての人間は、様々な形態で運営に当たる事になるだろう。そもそも空間では、運営、管理というものの形態が違う。管理運営といっても各自の自律的な知的生命活動を支援することこそ求められているのである。空間というものの初期の段階と、かなり経験した段階でも違うだろう。柔軟性があり、複合した、変化に富んだ様々な形を取って、もっとも適切な力を出す。そして緊急時には即座に対応できるものになるだろう。

また空間としての働きが限られた初期の状況下でも、皆の知的生命活動は活発化し、個人のあるいは社会としての知的統合能力が高まると考えられる。一人の人間としては日常的な行動あるいは課題の解決や創造活動に対する大いなる自由が得られ、それはさらに生きがいや安心感をもたらすものであるから、穏やかだがより活動的になるだろう。よって空間としての十分な働きが出ない初期の段階においても、運営上の様々な問題に対して柔軟な対応、対処がされるものと思われる。このように皆の活発な知的統合活動とこれを促し支える高度情報機能が自動操舵装置のように働いて、健全な方向にまっすぐ運営されるものと思う。そして最終的には、我々の体のように極めて複雑な、高度に発達したまさに生命空間というものになると思う。

4 空間性について

空間性とは空間の持つ自由で高度な能力、あるいはその性質をどれだけ備えているかを見るものである。

高度情報機能によって自然な情報の流れができれば、空間性は高まる。また空間性というものから創造中である高度情報機能を検討することもできるだろう。また前述の、空間の運営にも欠かすことができない視点である。後述の②支援サービスでは、様々な夢、テーマ、課題、問題が扱われ、その実現や解決に向けて多種多様なサービスを受けることができ、それらの解決策が場合によっては事業あるいは何らかの計画として生まれる。そのときどれだけの空間性を持たせることができるかが問題になる事もあるだろう。つまりこの問題は空間というものに直接関係する仕組みだけでなく、知的生命活動の大部分を占める一般的な様々な計画、事業のあり方にも関係して来るものである。自信のある人は100%高度情報機能で動く開かれた組織あるいは仕組みを用意すればよい。しかし一般的にはその内容とともに徐々に空間性を育てることになるだろう。これは我々の創造するものが空間というものにふさわしいものかどうか、その仕組みあるいは組織といったものに、その大小に関わらず空間としての動き、能力、性質がどれほど実現しているか、これを評価する物差しでもある。ほとんどの人にとっては、空間性の高い場ほど快適で安全なものを感ずると思われる。また高い空間性を備えた方が、創造力(つまり競争力)も高いという事になり指示もされるだろう。基本的に人間は、どんな小さな場でも空間性の要素の中でこそ自由な知的統合活動ができるというものではある。また空間性とは開かれているというばかりでなく、実質的に縦横の関係を作りやり取りが行われているかどうか、その中(あるいは内外)を人間が自由自在に活動できるかどうかを見る。つまり知的生命活動(=創造活動)をする人間そのもの、そしてその人間の住む一般社会を元に考えられたものかどうか、その内容や仕組みが問われる。それらがどの程度実現しているかが評価されるわけである。空間では誰もが自由に独自の試み、活動をすることができる。空間の仕組みは様々な面からこれを支援するようになっている。その個性あるいは独自性のままに、この自由な活動を限りなく保障するという意味でも、その創造するものに空間性を持たせるという問題が出てくるという訳である。もちろん一様ではなく、社会的公的なものほど高いものを求められる。反対に個人的なものは特に問題にならない。しかし思う存分空間の中を泳ぎ高く飛ぶにはそれなりに求められる事になるだろう。そして結局、この空間性という物差しは、知的な統合活動の基礎にこの宇宙や自然と同等の統合空間を得るためのものである。



次は、設計そして技術と道具と建造 です。

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