ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

生活空間から生命空間へ 1994

▼第二章 統合体段階の文化から、空間段階の文化へ

[2] 生活空間から生命空間へ 1994

1 生命活動

我々は生活を営んでいる。社会はそのための仕組みをたくさん持っているし、我々はその勉強もする。しかし、本当のところは生命活動を営んでいるといったほうがよさそうである。生活を営むにしては不可解な、無関係な、無駄な、時には反社会的な、そして不思議でしかも豊かな、正に生命活動として捉えることによって納得できるような、そんなことをしている。

それは一生、寝ても覚めても、正に一時も休むことなく、あらゆる場面において活動している。そしてそれは当然なことであるが自律したものである。つまり生命そのものからくる、生命としての活動のようである。そしてそれは、生理的、心理的といった方面ばかりでなく、知的なこと、つまり作り、考え、計画し、判断し、歌い、集める、・・・といった活動もまた含まれる。例えば、名作といえども自らの関心事からかけ離れたものは、押しつけられても読みたくはない。

また自分で段取りをするというのは、生命活動をするものにとって無くてはならないものである。これを他人がやっては、失われるものが大きい。千変万化のこの世界に対応できないばかりか、何でやっているのか解からなくなる。複数でやるときにはこの自律性が押さえられることが多く、これも辛い。つまり家庭、学校、職場、そして友人との遊びの場においても、この自律性を持った生命活動は働いているのであるが、そこでのこの問題は決して小さくはないようである。

また子供が見せる、自らの個性と外との折り合いをつけるという困難な仕事は、この自律性をよく現していると思う。

2 生命空間

さて、この自律した知的な生命活動が、豊かな生命活動となりそれによって成長し生きていけるには、その場が生命空間となっていなければならない。それはこの生物としての体が、宇宙や自然という生命空間の中で生きていることを思い起こせばよい。空間の中でこそ自律した生命活動というものが可能となるのであり、生命が燃えることができる。それは太陽が燃え、人間が息をするのと同じ統合活動であり、知的な統合活動もまた同じことである。

それは次のことからも解かる。例えば一人の人間の創造性、個性といったものは、この空間における自律した生命活動にかかっている。なぜならば、本人の現してくる生命活動それこそがそれら未知なるものに通じているのであるから。

また、やむにやまれぬ物を作るという行為もまた、この自律した生命活動をうかがわせる。買ったほうが安上がりといった考えや、その行為を職人的、芸術的な仕事の中に押し込め、そこでの物差しで計り、それでよしとしてしまうものではなさそうである。それは、宇宙、自然、そして文化という総てが統合された生命空間からくる、生命活動として見るべきである。そこには、生きるということにおける未知なる部分が含まれ、多くの未知なる意味を持つものである。時には衝かれたようなものを見せるこの行為は、誰もが現すように思う。船を作り、パンを焼き、草木を集め、絵を描く、・・・・

また人に会うことや一人になることも、生命空間の生命活動としてそうするのである。なにも寂しがり屋とか変人というばかりではない。

3 知的生命空間

生命は、生命空間における自律した生命活動によって生命たりえる。生命が全体空間を意識するのはこの空間の中の営みゆえであり、罪や恥を覚えるのもここにある。夜空を見上げるのも、社会を気にするのも、それは見ているその対象を自らの事としてそうしている。

しかし我々は文化というものを、生命活動をする生命空間とは成しえていない。この基礎的な活動を、文化として機能させることができないでいる。よって我々は、結果として得るものを生命という内容無しに求めるのである。だがゴ-ルは幸福よりも充実であり、それは戦場の方がましだったという帰還兵の言葉からもうかがえる。お金も愛も、ともに無くては生きていけない。しかし我々の文化においては、例えそれらを有り余るほど得たとしても、それでも解決しえない問題が残ってしまうのである。

よって我々は、この文化を自律的な生命活動をすることが可能な、生命空間にこそしなければならないのである。そしてこの空間は、これまで見てきたように知的な統合空間としてとらえることができる。それは宇宙、自然の、無機的有機的な統合空間に対応するものである。大脳化により始めた文化の創造を、知的統合活動として捉えるのである。大脳化は、高度な知的統合活動の始まりであり、それは新たな生命空間の創造の始まりでもある。つまり、文化とは知的統合活動をする知的生命空間のことであり、その内容全体のことをいうのである。

知的生命活動とは、この世界、つまり宇宙や自然の創造活動に直結した、その創造活動に属したものであるということができる。

我々はこの文化という生命空間を創造してきたのであり、それぞれに様々な枠組みを育ててきた。しかし空間としての枠組みはまだのようである。いつでもどこでも、それは管理的な社会においてばかりでなく、仲間との遊びにおいても、その場を自らが自律的に活動できる、自らのものとしての空間を作り得ないでいるということである。遊びにおいても規則や規約に走ることが多く、最後は低調になっていくというのは、それが自律を促す柔らかな空間の秩序ではなく、固い枠組みの秩序ゆえのことであろう。管理的な手法は、その成員である個人もまた自らのものとして身に付けている。そしてそれは、外ばかりでなく内にも、つまり自分に対しても行使する。

生命空間


4 小さな生命空間

生命である我々にとって、生命空間はなくてはならないものである。それでは知的生命空間としての文化は、これをどのような形で育ててきたものだろうか。

日本の文化は、その核に空間性を置いているものの一つに思われる。つまり生命空間であるこの世界の、一体的な動きそのことを見ている。そしてそれはまず、自然の生物としての秩序に大きく依存するものとして始めたように思われる。それは知的生命活動からすれば、これを抑制するものとしたともいうことができる。

よく感性的思考といわれ、ここからくるものと思われる近代化の中での突貫工事や白兵戦、これらは高度なハ-ド類に囲まれながらのソフトの貧しさの指摘とも重なる(注1)。この不釣り合いはどのような意味合いがあるのだろうか。これは、やはり文化の核に空間性を置いている事に繋がっているものと思う。つまり、ほとんど個性を扱わない優劣の物差しと、よく言われる日本の文化の奥深さは一つのものである。それら縦割り組織にも繋がる単純さと、奥が深いという一見矛盾したことは、空間を目差しているということで一致するのである。つまり生命空間が深遠なのはいうまでもないが、これを形にし機能させることにおいては、最初の、いわば小さな空間に留まっているということである。知的統合活動を抑制し、生物としての秩序に留めるような方法によって、最初のステップとしての小さな空間を実現してきたといえる。

これにより、理想は高いが成果のほうはこれからであり、まだまだ開発の余地があるということが解かる。また生活空間の近代化に対して、生命空間としてのほうは昔のままを引きずっているということができる。

この個人を越えてはいるが小さな空間の名が、和というものであると思う。これに対して個人のところに置いた空間の名が、自由というものであろう。つまりそれぞれの文化は、それぞれの生命空間を育てている。この空間であることにおいては、日本的な和と西洋的な自由は同じ分類枠の中に入るものであるということになる。このように見ると、この世界にはどれだけの空間があるものか興味深い。

(注1) 山陽新聞1994/2/27「展望94」で、山口二郎さん(北海道大学教授)が、「仮説形成こそ課題」という文の中で、ソフトウエアが周到な投資の産物であること、しかし現状はそれに程遠いことを指摘している。

5 大きな生命空間へ

以上によって、生活空間ばかりでなく生命空間もまた発展していくものであり、さらにそれが、相対的に立ち遅れていることが解かった。このことは個人の生命活動ばかりか、激しく変わりゆく国の内外の問題への対応というものにも枠をはめるものとなる。小さな空間とは、大きさだけでなく機能的構造的なものも限定的である。またこのことは、日本人の創造力あるいは個人のところに自由という空間を持つ人々の柔軟な創造性(注2)、それらが無いのではなく文化の問題であることになる。文化もまた乗り物や道具と同じで、性能を開発していくものに変りは無さそうである。よって我々の目標は、知的統合活動を抑制した小さな空間から、自律的な知的統合活動を促す大きな空間への脱皮、創造であるということになる。それは知的生命空間としての文化が、生命空間としての自律性を持つことであり、文化の生命化といえるものである。

ところで自律性を持たない小さな空間とは、大きく見れば生命空間以前の、統合体段階の文化(注3)の中に入る。そこではどうしても統合体的、管理的な秩序が必要だったのである。よってそこには心の二重構造の問題があった。つまり、宇宙や自然という生命空間の中で生命活動をする本来の私と、生命を持たない統合体としての私の矛盾である。自律的な生命活動を促す大きな空間は、この問題を解決する。本来の私による、自律した生命活動のままに知的統合活動を行えば、矛盾が無い。矛盾は、その時々に生まれる健全さを持つものとなる。

また小さな空間においては、人間の知的統合活動によって大きくなる知的統合空間に対して、管理的な一方通行の秩序体制に大きく依存して対処してきたのであるが、そこでは管理の及ばぬ空間でのみ自律性は保てたようである。大きな空間では、その本体を自律性によって動かすものであり、それは双方向による秩序の創造を常とするものである。

また大きな空間においては、個人の統合活動を抑制したゆえに持つことになった小さな空間の優劣の物差しに変り、個性的なものに対する評価の、大いなる発展が容易に予想される。そしてここでの自由は、自らも拡大し変化する生命空間における課題を、個性的自律的に創造することそのためにあるということになる。ここでは、何もするものがない何をしていいか解からないといった、空虚さの漂う苦悩は無くなるはずである。

心に芽生える、本当に小さな夢のようなものを、大事に育てることが可能となるのであり、それが生きるということになるのである。

(注2) 日本人も柔軟性が高いということは、一度でなく見聞したことがある。つまり、欧米人とはその方向がまったく違うと思われる。枠を作っていく柔軟性ではなく、枠にはまる、取り入れる柔軟性のように感じる。アメリカ人の書いた、「ニッポンチャレンジ」パトリック・スミス著、文芸春秋には、彼らのものとしての柔軟性という言葉が全編にわたって出てくる。P.9(7行)、P.87(8行)、P.193(17行)、P.371(9行)、P.372(14行),P.412(1行)。

またこれに関するものと思う、個人の創造性という言葉も出てくる。P.92(13行)、P.382(12行)。

そして、P.232(17行)全領域を見渡す能力の欠如、P.254(18行)貧弱な予定表、P.318(6行)マネジメントは無いも同じといった日本人に対する彼らの見方は、日本人の書いた「海軍と日本」池田清著・中央公論社、「失敗の本質」共著・ダイヤモンド社、の結論と同じようなものとなっている。

(注3) 「創造性の世界」P.  で、文化の成長を統合体段階の文化から空間段階の文化へと進むように規定した。

‐終り‐

1994 3月 31日
宇野港 (岡山)
佐藤 正志

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