ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

南太平洋へ

▼第一章 命空間を求めて
[2]自然と文化を訪ねる航海へ

南太平洋へ

(1)静かな海

南太平洋へ

6月、カリフォルニア沖は極めて静穏な所で、風力は2止まり、鏡のような海面を毎日ゆっくりと南下した。疲れが溜まっているのか、目が覚めるのはすっかり明るくなってからだった。もちろん風の変化はほとんど無く南太平洋に向って走り続けている。船底にはマグロが数匹住み着き、数日間旅をともにした。とても大きなカツオの話も聞いたのでカツオかもしれない。4cmほどの赤い海老が海面いっぱいにが浮いていたこともあった。彼らは鋏を持っていた。ある日、大きなシイラが来たが彼は立ち去った。マグロは、4ノットぐらいではついてくるようだ。時々、横方向へ猛すピ-ドで突進する。そして小魚を捕まえたのかサッと戻ってくる。時には、銛で突けといわんばかりに手の届くところへと浮いてくる。彼らと別れたのは北東貿易風帯にさしかかったあたり、早朝一時間に3hpの急な気圧の降下があり、これまでとは一変して嵐の様相になった日のことだった。朝六時から、船尾からロープ流しをした午後一時までの、七時間の間に全部で29hpも急降下した。だが、この天気は結局爆発せずに終わった。その後気圧は急な上昇を見せたりしながら、しかし全体としてはゆっくりと上昇していった。最低指度は985hpだった。確かにこの辺はハリケ-ンの生まれる海域ではある。

時間は前に戻るが、マグロが住み着いたころ激しい嘔吐と下痢に見舞われた。夕食が原因らしく、夜の九時から深夜一時までの四時間たっぷりと苦しんだ。この時は何が原因かはっきりさせることが出来ず、怪しいものはみな捨てた。酒飲みではないのでテキ-ラもほうり投げてやった。小さなシイラの刺身が怪しいと突き止めたのは、ずっと後のことだった。   

この辺りから南十字星の左下の所に、二つの明るく強い光を発する星が現れた。これが水平線上に浮かぶとき、特に下側の星アルファセンタウリは水色と赤の光を交互に発した。その赤は何というかとにかくすごい色だ。しかし、星空は星よりも暗い空間に引かれる。親しみさえ感じるその真暗闇を、じっと見続ける。
「海軍と日本」という本を読んでいる。これは私の課題である文化を解明するには、貴重な一冊となった。文化には個性があり得意とするものがあるのだが、同時に全く手に負えない部分もある。そこから生じる禍を解決するには、文化としての全体的な能力を上げなければならない。そして文化はさらに高度なものへと実力を上げることができるのであり、そのためにこそ生きているということができる。大洋航海が可能な船を作り、空も飛んだ。次は生命を生命のままに生かす、高度な乗物が必要である。この航海で、少しでも手がかりが見つかるだろうか。
強い光のセンタウリ星の見え始めたところ、北緯20度以南になるとトビウオの海になった。何百何千の群れが前方で飛び出す。早朝、太陽が昇るまえのまだ暗いとき、いつものようにオプティマスストーブに火を付けコ-ヒ-を入れる準備を始めるころ、たまにデッキに物音のすることがある。体長は25cmぐらい、大きな目玉のトビウオが暴れている。そしてこのトビウオを狙うのか、海中にダイビングする鳥が現れるようになった。大型で、ダイビング用に頭がのっぺりしており、尾もするっと無くなってしまう形になっている。カツオドリの仲間だろうか。彼らは愛嬌があって、すぐそばまで近づいてくる。アホウドリも現れた。しかし一番大型のアホウドリは、餌を取るところを見たことが無い。ウミツバメの仲間だろうか、この小さな鳥も餌を取っている様子がない。ワタリアホウドリは飛行を楽しみ、小さな多分シロオビウミツバメはいつも波と遊んでいるように見える。

■海軍と日本 池田清著 中公新書

(2)作戦会議

カリフォルニア沖から北東貿易風帯の静かな海は、この航海について点検し考えるにはふさわしい場所になった。小さい頃あれほど憧れた南太平洋に向かっているのに、今その思いはほとんど無い。よって行き先も出たとこ勝負になった。このことについては、やはり少々不足感を覚えた。一方、これは取り留めの無いものを追いかけているゆえの、自然なこととも思う。強く引かれるところが無いということは、ごくありふれた航路を取ることになるだろう。このことは意欲にも関わり、高度なシ-マンシップの必要な難しいところは差し当って避けるべきだろう。この取り留めの無い気持ちは、多分私の追う課題に関係しているのではないか。星空の真暗闇のように、この地球上の真暗闇、生物や文化を浮かべている空間にこそ私の関心は向いており、やはりテ-マもここにある。

別な面の、一仕事としての航海について考える。南太平洋のガンビア諸島に向かう今回の航海は、ホップ・ステップ・ジャンプの真中、ステップにふさわしいものになった。つまりヨットの新しい工夫、そしてジャンプとなる次の航海の作戦を考える日々でもあった。またこの穏やかな海は、北太平洋で痛めた心身を元に戻すにも全く好ましい所だった。心身を痛めるはずだった赤道無風帯はほとんど認めることができず、これも幸いした。ここ赤道で吹く風は少し肌寒く感じるものだった。

最初の北太平洋は、飛び出すことが大事だったように思われる。発射時のロケットが、地上から離れることのみに専念するように。そしてその後は、とにかくエネルギ-を注いで向う岸にたどり着く。そこでは先人達がどんなことをしたのか、その航路をたどってみたい気持ちがあった。彼らによって私の航海も成り立っている。おかげで水も食料も今は頭を悩ます問題では無くなっており、完成度の高い装備もある。それでここは一つ、どうしても太平洋横断ということにしたかったのである。実際十分に手応えがあり、私には広すぎるほどだった。それに障害物のないこの広い海面は、いつだって休養できることを保証していた。つまり大変な中にも余裕がある、ホップとしては大変ふさわしい面を持っていたと思う。

ところで、この一仕事の設定は大変大事な問題であると思う。簡単すぎても、難しすぎてもいけない。若いときなら、難しすぎることもいいかもしれない。しかしもっと気をつけねばならないと思うことがある。それは、知らないうちに自分のテ-マから離れてしまう危険である。手段が目的になったときには、テ-マを浮かび上がらせた元のところ、本来の自分から分離してしまう。これは取り返しがつかない。自分を見失ってしまうという大変やっかいな病を背負うことになる。

さて次のジャンプは、決戦であり討ち死にもまたやむを得ない。ホ-ン岬の回航はやはり一つの頂点になる。そのような雰囲気を感じたのか、二重三重の安全対策をすることが中心的なものとして浮かんできた。荒天では小さなタイヤを先に結んだ、80m~100mのロ-プを船尾から流す。80m~100mという幅があるのは、船尾を押さえるという制御が出来れば、ロープを短くして船足を上げる意味である。そしてこれを船尾近くでは両舷からVに取り、船体中心線上にぴったりロ-プが来るようにする。さらに自動操舵も働かせ、機敏に方向をコントロ-ルする。そして船首には、小さな菱形の横帆を作って上げ、スピ-ドを増すとともに、その両端からロ-プをティラ-(舵柄かじづか)まで引いてきて、ロープ流しのロ-プが両舷とも切れ、さらに自動操舵が壊れたときに三段目に働く舵取り装置とする(これは実際、横向きになりたがる力に対抗できるものではなかった)。ジブセールを上げるハリヤ-ドも二重にすることにし、予備の滑車にテグスを通しておくことにした。ロ-プ類は新品のものとすべて交換し、現在使用しているものは予備に回す。キャノピ-(風防)は波に壊されないような形の固定式とし体の支えにもする。

(3)赤道

進路にあたる南の方では、稲光が三日前から見えていたが、彼らも南下しているのか、一向に追いつかない。音も聞こえないほど先を走っている。その頃、引き縄に1mちょっとのサメがかかった。食べようと包丁を入れたが、吐き気をもよおす酷い匂いにすぐに全部捨てた。だがこの酷い匂いは三日ほど漂い、船内にも入っていた。大きなカツオもかかった。よく見ると、背ビレはヨットのセンタ-ボ-ドのように、体中にすっぽり入るようになっている。これはすごい。6月28日、航海25日目に赤道を通過した。船内温度は27℃。ちょうどアップルマンゴ-が最後の一つになり、これを食べた。これを食べている限り健康を保てる、そんな気がする果物だった。そして無くなった途端気のせいか急に体の調子が落ちていき、一週間後に腰痛で動けなくなった。5日間ほとんど這って歩き、指先だけで仕事をした。太陽は痛いほどだったが、日陰にいればそれほどのことはない。それでも夕暮れのひとときは、なんともいえない素晴らしいものだった。太陽は水平線上の大きな積雲の陰に隠れ、吹く風が急に涼しくなる。私はキャビンから這い出して、コックピットのどこでも好きな所に腰を下ろす。近くに浮ぶ形のよい雄大積雲は、夕陽を浴びてピンク色に染まる。だがそれも束の間、積雲はすぐに色褪せてしまう。空の青にも闇が迫る。そしてそこに現れる星は、地上のものと違って何か揺るぎないもののようではある。

■センタ-ボ-ド 直進させるために船底中央から海中に下ろす板状のもの。

(4)入港

南東貿易風帯では一日の航走距離を、易々と伸ばした。そして入港予定の二日前の夕方、真黒い竜のような長い雲が海面近く横たわっているところに到達した。そして、そこから下がる黒い雨垂れの下をくぐり抜けたときから、天気は急変した。これはまるで、海と空の作る門のように思われた。離れているときにはマストが雲にかかると思われるが、真下に来るとやはり何倍かの高さがある。翌日は全面高層雲となり、前方はさらに雲が濃くなってきた。夕方、今度は積雲が南北に連なる第二の門の下を、急に衰えた弱々しい風で通過した。この中は向い風が吹いていた。よって進路を、島からあらぬ方向へ外さねばならなくなった。この日は雲が濃く天測はできていなかったが、そこに方向転換を強いてきたのである。翌早朝、何としても一本のポジションラインを得ようと天測を試みた。恐ろしげな空には、そこにしかない貴重な隙間から、三日月と明星のどちらも見える。その隙間からずっと見えていた。セキスタントを用意し、水平線の見える明るさを待った。そして水平線の最初に確認しえるその瞬間に、何と空は閉じられポジションラインは得られなくなった。現状はそれほど追いつめられたものではなかったが、つまり島には十分な高さの山があり視認はしやすいのであるが、推測航法を試されていると思った。位置のはっきりしているのは二日前の昼である。そこから現在の推測位置を出し、ここぞと思われる所でタッキングを打って島があると思われる方向へ転針した。形のよい雲は島と間違える。だが実際の島は予想よりはるかに小さく、しかし存在感は格段に違って現れる。午前7時、一時の方向、海も空も灰色の中、島と思われた雲のずっと下にとても小さな三角形の島影を確認した。その島々、ガンビア諸島の上空には、けだものの荒々しい毛皮模様の雲が広がっていた。

■一時の方向 時計の針で方向を表わす。真正面が12時。

大きなカツオ

午前11時、沖合に伸びるサンゴ礁を外して近づき、南側の水路に到達した。だが、試練はこれからが本番だった。島の数が足りないと見えたのは雨でかき消されているからだった。その豪雨の激しさはサンゴ礁のすぐ内側の小さな島もかき消してしまい、ついにはすべての島を見えなくした。雨が通り過ぎると、方向の定まらない微風そして無風そしてまた雨と、少しも進展しない状況に焦りを覚えた。沖合で夜明かしはたまらないと、ついに漕いで入る決心をした。さんご礁の外側は水深3000m以上ある。南側に少し浅いところがあるが、そこで錨泊するわけにはいかない。海図では相当広いはずの水道も、時には波が盛り上がって白く砕ける時があり、どこが安全なのかはっきりしない。いわゆるヤマダシをして、なるべく水深の浅いところの上には乗らないよう心がけて漕ぎだした。白い海底が見え始めた頃から、中型の鮫が5匹ゆらゆらとついてきた。海面は荒れていたが、落水することはないだろう。そして4時間も漕ぎ、すでに陽もだいぶ傾いたころ、柔らかな安定した風が吹き始めた。島の険しい山々、そしてそのふもとの椰子の木々と真っ白い砂浜の前を軽やかに滑り、砂地と思われる白い色の海底に錨を入れた。あたりはすっかり夕闇が迫っていた。上空は重い雲で覆われ、次第に強くなった風に少し寒気を感じた。村があるはずの目の前の浜には、黒く木々が繁るばかりで灯一つない。疲れもあってか寂しさが押し寄せてきた。死ぬときはこんな気持ちかなと思った。数キロメ-トル先の別の島に灯が一つついたが、少しも気は晴れない。ただ横になりたかった。こうして三日間の試練はひどい食事をもって終わった。こんな気分になるということは、私の船乗り度そして人間の未熟な回路も試されたのかも知れない。

6 ポリネシア

(1)ガンビア諸島

ガンビア諸島では、滞在許可一週間といわれたところを、港の前にある商店主の口添えで10日間になった。この短さは、隣のムルロア環礁にある原爆実験場に関係しているらしい。短期間でも滞在すれば、どうしても被爆について耳に入る。実験のときには小屋に押し込められるとか、髪の毛が一本もない赤ん坊が生まれたとか…。

すぐに子供らが、筏にのって遊びに来た。そのとき彼らから、日本ではほとんど聞くことのできない笑い声を聞いた。それらは、これまでの寄港地でも耳にしなかった種類のものだ。笑うことは生まれながらのものとしても、その笑い方は文化ではないのか。確かに個人差があり、同じ日本人でも高笑いする人もあれば声を出して笑うことのない人もいる。だがこのように違ったところを見せつけられれば、それらの個人差は文化の中の差にしかすぎないように思われてくる。衣服や心情、言葉や生活習慣とかけはなれて、別種類の笑いを持つというのも考えられない。文化の中でこそ元もとの自然としての自分を現わしている、と思われる。そしてその文化は否応なく人間が創造しているのであるから、自然の延長線上、つまりその生物としての人間や民族の個性、その他すべての個性的な状況の中にその文化があるともいえる。我々は自然から受け継いだ伝統を元にして、新たな世界を創造していると思う。

さっそくこの笑いから応用問題を一つ考えてみたい。一般に我々は自由であると思っている。その自由というものの内容を検討したいのであるが、この笑い方から考えてみるとそれは無制限無条件なものではなく、大きな枠の中にあると思われる。つまり、遠くは自然から受け継いできた文化という大きな枠があって、その上での自由であると考えられる。例えば日本人がここの笑い方を取り入れ、一生その笑い方をしてもよい。しかし実際にできるのは、そしてしているのはこのような所までではないのか。一般的にはこの枝葉の部分こそが自由といっている部分だと思うのであるが、何かその文化という全体的で大きな枠からも自由であるかのように錯覚しているのではないか。そうでなければ、ここでいっている非常に基礎的な枠組みと、もっと中間的な社会的枠組み(人間の一生の間でも変わる)といったものとの混同が考えられる。、また、一般的にいって自分自身に身に付けた枠組みは問題にしないものだし、自身の能力を高めていくことが自由になることと同義のようにいわれる。どうもいつでもこの矛盾した二重構造が問題になっているように思う。自身の枠組みは自分を支えはするものの、縛りもする。つまり縛られたままで自由を求めているのである。いつかは飛躍しなければどうにもならないところに行き着く。我々はこの二重構造を温存したままで、解決策を模索しているようだ。確かに小さな島の笑いと違い、先進的な考え方、制度、芸術といったものは力があり、根本的な解決の錯覚を持っても不思議はないかも知れない。だが二重構造を不問にしたままの努力は、常に墜落の不安がつきまとう。飛行高度や自在な飛行能力にもかなり重い制限がかかってしまうように思われる。

ややこしくなったので、もう少し身近なところで考えてみる。例えば職業選択の自由は、身分制のように生まれながらにして職業が決まっているよりは、文化としてずっと高度なものといえる。だが生命を持つものとしての人間にとっては、決してこれが最終的な段階にに到達している訳ではない。多くの人々は一つの職業を身に付けて一生を通すことが多いし、残念ながらその多くは生活のためという強い制約の中に置かれている。様々な職業を成長とともにいろいろ選べる訳でもないし、きめ細かな十分と思える要素と手順を踏んで事が進んでいくというのでもない。極めて繊細なものである生命としては、この人間の文化という世界はまだまだ荒っぽいものであるといわざるを得ない。理想をいうならば、一般的に評価の高い職業ではなく、人間(という職業?)を求めるべきであり、その方が飛躍的に自由度が高くなると思う。今は次善の策としてある職業に就いた自分を求めていると考えることができる。

以上のことから、本当の自由、高度な思う存分の自由を望むならば、自分自身も視野に入れた枠組みそのものを高度にしなければならない。生命という非常に複雑で広範な関係の中で存在するものには、文化という枠組みも自然と同様な高度なものが望まれると思う。おそらく我々は、日々の生活に追われながらも、この文化の創造という仕事をしているのだと思う。

この島では、うっかり既婚の婦人と顔を合わせるとゾッとするような恐ろしい顔になる。血の気を失わせ、無表情で、ありったけの力で相手をさげすむようなそんな顔を作る。まるで顔で仮面を作るのである。もちろん若い娘はそんなことはしない。だがどうしてこんな芸当ができるのだろうか。しかもみんなで、同じ言葉を話すように同じ意味を持つような仮面を作る。このことから推測すると、文化というものは個人を越え誰もが関わる共通の世界そのもののことであり、基本的に一体的、全一的なものではないだろうか。

またここはその昔、捕鯨船の補給基地として栄えたとアメリカのクル-ジングガイドブックに書いてあった。大きな教会の跡があり、この建設のために島民が数百人も死んだと聞いた。どうしてそんなことになるのか、私には本当のところは解からない。たぶん調べれば手がかりは残っているだろうし、似たような例は我々の社会からも、そしてそれほど昔に遡らなくても見つけることができるだろう。いや、探さなくてもテレビのニュ-スでやっている。これを私なりの課題からもう少し考えてみたい。それは現在の文化としての実力、つまり能力に関係しているのではないかと思えるからである。例えばごく一般的に、生身の人間はちょっとした仕事がある場合、自分で段取りをすることつまり仕事のやり方や手順を自由にデザインすることを求めると思う。ほとんどの人は他人に振り回されることをとても嫌う。しかしこれら人間の基本的な要求を十分に取り扱えないでいるのはないか。この島のことでも、現在の勉強や仕事においても、むやみに理想的な目標が示されたり、あるいは自らそれを求めたりしてはいないだろうか。もっときめ細やかで変化に富んだ、そして個性的な設定の仕方が可能ではないだろうか。さて今はこの問題も手に負えない。仕事の仕方、それはそのまま文化の問題だと思うのだが、それがまだ十分に完成したものでもなく、また誰にとっても大事であることをいいたかったのである。そして何故これが十分に顧みられず、よってムチャなことをせざるを得ないところに追い込まれるのか、それはさらに難しい問題が控えているようなので今は手が出ない。文化というものの核心部に関わるような気がする。

私は、船乗りとして何年生ぐらいだろうか。一航海が終われば、どうしても長い休養の必要性を感じる。心身の芯のところまで疲れているようなのである。ところでここには私の船に他に、イギリス艇とフランス艇が一隻ずつ錨泊していた。イギリス艇は単独航海で、私と同年の男性が乗っていた。私の船より少しだけ大きい全長7.8mぐらいだが、何とコックピットは自動排水ではない。一時代まえの木造艇で、コックピットは敷板が深くフレームやキールの上に置かれているだけだった。もちろんエンジンもついていなかった。しかし船体の手入れは行き届き、少しも老朽さを感じなかった。彼はこの船でイギリスからパナマ経由でニュ-ジ-ランドまで航海し、山登りやスキ-のために半年ばかり滞在したあと、Uタ-ンして吠える40度線を走ってきたのである。コックピットが自動排水でないことに驚いたのだが、山でも感心した。この島の山頂まで二人で山登りをしたのだが、彼は急斜面をまるで跳ねるようにして降りていった。こちらは峰の部分を通る時、四つんばいの有様だった。つまり海でも山でも非常に熟練しているように感じたのである。しかしこれだけでは終わらず、彼らの活動を支えるもっと広い土台においても、何かしっかりとしたものがあるように感じた。彼の船では何冊かの水路誌を見せてもらったが、それは装丁も立派なうらやましいものだった。私の持っている大洋航路誌は彼らのものを元にしてあるが、帆船航路の記事は必要ないとして削られているし、装丁も貧弱なものだ。大分差をつけられているのを感じたが、それは個人と国の組織の関係にも見られるようだった。もちろん表面的なことに限られるのだが、彼のこの航海における領事館でのちょっとした話しから受ける印象では、より穏やかな関係があるように思えたのである。もちろん今でも階級社会があるということは聞いていたので、誰でもということではないかもしれない。またこの島はフランス人が多いのだが、フランスのヨット乗りとの間でやはり同じような感じを持った。遭難しようがしまいが人間はそれをするものであるという、合意か認識があるのかも知れない。我々の場合はもっと対立的である。総動員体制の中での勝手なまねということかも知れないし、平民とお上という、より根深い問題が潜んでいるのかも知れない。

ところで、あるとき彼は私の聞き知っている彼らの文化の一面を見せてくれた。それはあまりの違いゆえに、ずっと記憶していたのである。その話しはプレスリ-の大きなコンサ-トがあったときのことで、その時トム=ジョ-ンズはプレスリ-に足の骨でも折ってできなくなればいいのにと祝電を打った、とラジオで聞いていたのである。そして我々のほうは同時期、私はホ-ン岬に彼はマゼラン海峡に向かうということだった。そこで彼は紙を取り出して私の船が真っ逆さまにひっくり返った絵を描き、それを頭上に掲げながら大きな声で私の船の名を叫んだ。たぶん彼らの世界ではやり返せばそれでいいのかも知れない。だがこちらは、例えば受験生に落ちることを連想させる言葉など、決して使ってはいけない文化を持つ国から来たのである。こんな乱暴な絵を描くことは出来ない。だが、私の乗っているヨットも、そして航海術も何もかもといえるほど彼らが生み育てて来たようなものであるし、探検とか、冒険とかを我々とは比較にならないほど好むような文化の中で生きていると聞く。このことから考えると、彼らは船がひっくり返ろうが沈もうが、やるという文化の中に生きているのではないか。だから互いにやり合って楽しみ、あるいは燃えるという事なのかも知れない。日本でのことであるが、魚を取る訳でもないのにどうしてヨットで海に出るのかその意味が解からないと、立派な50代の男性に聞かれたことがある。私もこの男性と同じ世界に生きてきたことでもあるし、推測に過ぎるような、あまりにも違う世界のことなので、この辺でいったん止めにしておこうと思う。ただ、この50代の男性のような意見も多いが、反面日本人は彼らに負けないぐらい非常に強い、航海などに対する欲求を持っている、と私は思う。それができないのはやはり我々の持っている文化の能力に関係しているとも思う。

出帆日がせまり、キャンバス製カヌーで向かいの無人島にオレンジを取りに行った。やしの木で縁取られた白い砂浜が、たった一つの足跡も無くゆったりとした曲線を描いて伸びている。そこには廃虚があって、その荒れ放題で林のようになった庭で、たくさんの実をつけたオレンジの木を数本見つけた。オレンジといっても皮をむくとき果汁があふれ出て完全にジュ-ス向きと思った。この実をリュックサックをいっぱいにするには、一本の木で十分だった。その帰り、汗で汚れた体を洗おうと、砂浜から勢いよく海へかけ込んだ。もちろんシュノ-ケルは付けていたのだが、その浅いところには私ぐらいの大きさの鮫がいて、あわてて岩かげに隠れた。そして振り返ると、そこにはあたりを見回すまでもなく、名も知らぬ大きな魚がたくさん泳いでいたのである。この光景は何かしら心に残った。

小学校の先生をしているという感じの良いフランス艇(鋼鉄製)は先にたち、イギリス艇と私は同じ日(1985/07/25)に出帆した。彼は礁内のはずれにある、アメリカ人夫妻のひっそりと住む小さな島に向かった。今はあまり見ることのできない、メインセ-ルのロ-ラ-リ-フ(ブームに巻きつける。)をしていたが、帆のカ-ブはたいへん良くしかもブ-ムも下がっていなかった。彼は南側の珊瑚が密生している中を突っ切ろうとして出来ず、大きく迂回してきた。再び二言三言交わして別れた。タヒチまでは、風力5にもなっていた南東貿易風に一気に運ばれた。

(2)タヒチ

1985/08/01入港。入港当日は朝から凪となり、太陽の強烈な光が海面に反射して、サングラス無しではとても目を開けていられなかった。漕いで入った港には、岸沿いにたくさんのクルージングヨットがもやっていた。隣はアメリカら来た小中学生も含めた家族、その隣は何とたった全長5メートルの鋼製ヨットで、オランダから来たといっていた。重量は5~6トンもあると聞いた。日本艇も招福と夫婦で航海している面白い名前の2隻がおり、3隻もの数に皆で驚いた。

タヒチでは、フランスの文化が表にあるのではないかと思われた。最初、私はフランス文化の網に掛る。その網目の向うにタヒチの文化がある。もちろん私はそのどちらもよく解からないのであるが、そう感じた。気を付けないと網に足を取られる、そんな微妙なものがあるように思った。

しばらくしたある日、港からヨットハ-バ-に船を移した。風の強い日で、ハーバー前の錨地には私と入れ替えに出帆するクルーザーがいた。全長12mほどの頑丈そうなクルージングタイプで、片腕の無い中年の男性がエンジンを少し回して行き足をつけ、船首に走って手動ウィンドラス(錨索の巻き上げ機)のハンドルを前後に動かす。そして再び行き足をつけにコックピットに走る。何度か繰り返して錨を上げ終えた。最後に魚の入ったかごを上げ、急旋回して珊瑚の間を縫う水道に船を持っていった。この強風下では、ゆっくり仕事をする広い水面は無かった。私も彼に見習って、とにかくもっと熟練度を上げなければならない、そう思った。

クラブハウスまでの長い桟橋には小さなたぶん6~7才以下のかわいい子供たちが数人いた。彼らは私が歩いていくとき、全くあなたの存在は感知していませんよといった風な趣なのである。似たようなことはどこにでもあると思うが、それがもう一つ研ぎ澄まされているようなのである。これは後に、いつどうやって相手を観察しているのか不思議で、これを確かめる実験をすることにした。それは、私がよそを向いている時には必ずこちらを観察しているはずであると思われたからである。まあこれは一回きりの実験だったが、予想以上のものだった。これらのことは、私がタヒチからライアテアに移り、そこであったタヒチ人の三人の子供たちも全く同様の風をした。彼らの父親の運転する車が道端に止まったとき、私がそばにいっても、荷台に乗った彼らは全く取り付くしまもない。私たちは一切なんの関係もありませんよといった風情で、あさっての方向を向いている。タヒチのヨットクラブのクラブハウスでは、初めは大人もそしらぬ風だったが、ある時点からとても社交的な感じを持った。そしてそれは、ここの子供らも同じだった。後に私が家に遊びにいったとき、彼らは例の仮面としぐさで現れたが、ちょっとしたきっかけでその殻のようなものを取ってくれた。思い出すと、そのきっかけを得たくて仕方がないように私の回りをうろうろしていた。そしてついに好奇心や活力にあふれた、本当にかわいい子供が出てきたのである。

文化には感心するほど、本当にいろいろの型があるものだと思う。我々が最初どちらかといえばニコニコし、柔らかいところから始めるのに対して知らんふりをするところから始める文化がある。温かいと思えば冷たく、冷たいと思えば温かい。もちろんどちらがいいということではないだろう。人間は文化のその力によって、地球上のほとんどの地域に、本来なら別種となって別れるはずのものが、一種類の生物として広がっていると本で読んだ。では近代化とか国際化というのは、文化というものがどのようになることを意味するのだろうか。一般にいわれるところの生活の変化ではなく、文化の全体像あるいは核心部のことが知りたい。

ところで人のことばかり書いているので、自分のことも少し書かなければ不公平になると思う。もちろん私の狙いやテーマは、性格とか他人の変なところではない。それに彼らの反応は私というものに向けられたものあり、誰にでも向けられるものとは違うかもしれない。それで私自身はというと、愛想が無いといわれたこともあるし、お世辞にも社交的とはいえない。人間嫌いのところがあるので、皆がそれに敏感に反応していることも考えられる。変なところも多いし、捻じ曲がった反応もするので、対人関係の点数は平均を大きく下回っていると思う。このようなことを考えると、この航海は健全な生命活動を求める、私の中の、生命そのものの求めることかもしれない。よって性格や行動の問題を越え、その生命の活動をする場である文化の問題を考えるのは当然ともいえる。とにかく少々怪しげでも自分なりに感じ考えて、自然や文化を一つに貫く核心部を掴みたい。それに文化という外側の問題を解決すれば、私のような内的な問題を抱える人間でも割りと楽に生きられるかもしれない。

タヒチは次の航海の準備基地に考えたのであるが、これは少々問題があった。だが後で考えると、最終的には準備も出来たのだし、準備を通してここの文化、それは日本とは本当に違うと思ったのだが、それを見ることが出来たのである。それによほど深刻なものでなければ、何も順調に進むことだけが良いのではなかろうとも思える。問題の最初は、郵便小包が送り返されてしまった事である。まだ決まった住所のない到着時、旅行会社で本人の代わりに郵便を受け取っておいてくれるサ-ビスをしていると聞き、その手続きをした。受付の女性はたいへん親切そうで感じの良い人であったが、その小包が届けられたとき、私を思い出さずチェックも大義であった。たぶん「ノン」の一言で済ませたのだろう。これで郵便配達員も国外に立去ったものと見なし、30日間の留置期間も無視したうえ、悪いことに船便で送り返してしまった。これはフランス文化における、最初のところに殻のようなものがあることに関係していると思えてならない。向うからいえばもっと主張しておくべきだし、こちらからいえば届いていると思った声が届いていない。まあ本当のところは解からないことだし、もう少し様子を見よう。
船便で送り返された荷物の中には、セキスタントの鏡など大事なものが入っていた。反射面の痛んでいた鏡は、一度アメリカでやり直したのだが、ここに来るまでの間に再びだめになっていたのである。この時は30ドル(7000円)もかかった。たぶん普通の鏡でもやれたかも知れない。しかし厚みも合わないし、歪みのないガラスでなければ正確な角度は測れないとあったので慎重を期することにしたのである。私には、自前で何とかするだけの知識と経験がほとんど皆無であった。ここに来てから、いざというときにはチョコレ-トの銀紙を溶かして反射面を作る方法のあることを聞いた。(溶剤は何か忘れてしまった。)これら海の知識が豊かになっていくことは、それ自体面白いし、何とかできるという実感のこもった力が湧いてくる。またこのときは、10ワット、21メガヘルツの小さな無線機がたいへんに役だった。泉大津オズセ-リングクラブの家村憲司さんとの何回にも及ぶ交信は、電話で話すように雑音も無くはっきりと聞き取れた。私は、新たに必要になったものも含めて、再び同じものを買ってもらうことになった。

そんな私を見て、フランス系のイバンさんと、彼の父親の代から付き合いをしているというタヒチ人のアベさん一家には、彼らの所を準備基地にするようにと勧められた。また貴重なお金を使ってしまわないように、いろいろ心配していただいた。彼に、入国のために預けた保証金は減って戻ってくる仕組みになっているというと、一緒に銀行に行って調べてくれた。為替による利益の出る方法も取れたが、その一番良い結果においても全ては銀行のためになっているようであり、二人でため息をついて帰った。しかし、彼らの庭で取れる食料の支援は力になった。差し入れてくれる一枝(100本?)丸ごとのバナナも、店で買えば高くて食べることが出来ない。ここの物価は日本と同じかそれ以上と思えた。だが私の体は、お金を節約するのに都合よく出来ていた。イバンさんが差し入れてくれる焼きバナナは好物だったし、若い椰子の実のジュ-スは自然の恵みそのもののように思えた。家の裏には大きなマンゴ-の木があり、私の大好きなこの果実の酸味は、私の疲れた体を癒すのにとても利くように感じた。たんぱく質も取らねばということで、さんご礁に打ち寄せる波打ち際での釣りも教えてもらった。

そんなある日、ヨットの部品をさがしに行った店で面白いものを見た。それは私の買おうと思ったものに、二つの値段が付いていたのである。全く同じメ-カ-、同じサイズのもであり、並んでぶらさがっていた。店員がいうには、仕入れ値が違うことによるものであるという。仕入れ値が上がる前のものは、そのままの値段になっていたのである。逆の場合はどうなるのだろうか。商売の仕方、その値の付けかたというものにも、文化を反映するいろいろなやり方というものがあるのだろうか。アラブの世界ではたくさん買うより一つ買う方が安いと本で読んだことがある。

郵便のトラブルのせいばかりではないが、三カ月を過ぎてもほとんど準備は出来ていなかった。ところが滞在許可の延長のためには、タヒチ島の空港にある事務所まで行かねばならないことがわかった。つまり私はアメリカのフランス領事館で保証金の二千ドルを払い、ビザをもらってからフレンチポリネシアに入って来たのであるが、その手続きの経路は港または島々にある警察によるものとは違うので、パピエテの空港に行けというわけである。往復で数日はかかるだろう。何もせずにここに来て、現地で手続きをしたほうが良かったのである。このことは、フランス文化よりも我々のことを思い出させた。サンフランシスコ湾域で、南太平洋へクル-ジングをしたことのあるヨット乗りを見つけるのはたやすいことであり、聞けば問題は起こらなかっただろう。だがたまたま日本人との間でビザの話になり、私もやっかいなことは済ませたいという気になった。つまりここで思い起こしたというのは、我々は遵法精神が必要以上に旺盛なのではないかという疑問である。もちろん、やっかいだということであるから負の旺盛さであり、守らなくても済むものなら守りたくない。実際、守らないことも極めて多い。それは我々個人だけではなく、法を守る立場の人も守る訳にはいかなくなる。法を杓子定規に使っては血の通った行政はできない、このような都合の良いつまり裏のある言葉は何度か聞いたことがある。また法と現実との大きな乖離については、国会中継で聞いたことがある。思うに、この守るにしても守らないにしても法を積極的に評価しえないということは、融通の利かない、あるいはその能力の低い社会ということを背景にしているのではないか。つまりいずれの場合にも、社会を運営するのに表の能力ではなく裏の能力に多くを頼らねばならない。問題を解決し創造をしていく、社会の骨格、大道が未発達なのではないだろうか。古くなっているといってもいい。表の能力として融通を利かせる、これは幅がでることであり豊かな能力を備えることでもある。限られた、あるいは一つだけの選択肢をイエスかノウかで迫るのではなく、自分の個性的な人生に合わせて選べるほうがさらに良い。しかしこれは、日本文化の根幹に関わる難しい大きな課題であるように感じる。表面的なものでは、どう改革しても飛べないように思う。光と影が互いに濃くなり、分離してしまうことになるだけではないか。また、表の能力が利くとは飛躍的な能力の増大ということでもあろうから、近代化に関わることでもあろうと思う。話しを元に戻すと、タヒチ島は遠くにあり、タヒチ人の警察官も含めてほとんどの人が、ビザなんか切れてもかまわないよといった口振りなのである。私はアメリカでビザを取ったときのように、再びこの意見に流された。そして間もなく、街はずれで警察の検問に引っかかった。これは環境保護団体のグリンピ-スがムルロア環礁の原爆実験反対に来ていたので、その影響と思われた。私は指揮を取っていたフランス系の警察官に、一時間以内の国外退去を命じられた。水と食料の積み込みのために、これを四時間以内とすることが出来たが、セキスタントの鏡が郵便のトラブルのために失ってしまい、航海ができないというのは聞き入れられなかった。またこの四時間は、友人によって一週間以内になったが、私はすでに出港した後だった。そういえばガンビア諸島では滞在許可1週間のところを商店主の口ぞえで10日間となった。これをどう考えればいいのだろう。誰かが訴えてくれると酌量される。訴えてくれる現場にいたわけではないので推測になるが、訴えれくれる人はそこの社会で十分に信用のある人であり、この人が彼は危険人物ではなくひど過ぎるのではないかといってくれる。フランス本国でもこのようになっているのだろうか。とにかく面白いシステムではある。できればもう少し詳しく知りたい。ところで、いったん外国に出ればいいのであるから、隣の国のラロトンガからは十日間で戻ってきた。そして警察署で、あの憎しみに目がらんらんと輝く(?本当のところは解からない、このような厳しい目はアメリカでも見た。)国外退去を命じた同じ人から、パスポ-トにスタンプとサインをもらった。

ラロトンガまではプラスチック製のセキスタントを使用した。これは使うたびに変化するその誤差を毎回確かめれば、問題はなかった。世話になったエオリアンヨットクラブのモ-リスさんが、自分はもう使うことは無かろうと、大学で天文航法の勉強をしていたときのまま、海図などの入ったバッグごとプレゼントしてくれたものである。私はさらにもう一つ、もっとずっと簡単な作りのプラスチック製のセキスタントも持っていた。こちらはオ-クランドヨットクラブのニヤ-夫妻からいただいたものである。これも落としたときはどうするか。緯度は割合と簡単に確かめられるだろう。経度は太陽の出没時で大まかなものが得られる。このようにして陸に近づき、入港するのはなるべく楽な地域、簡単そうな港にもっていく。

またこの出来事は、私がここの文化にさらに分け入る大事な機会も失うことになった。それは、ある若者の村に入り、そこでしばらく暮らすことになっていたのである。しかし事情も伝えることができなくなった。戻ってきても、再び会うことは難しいだろう。

(3)モーレア

話は前後するが、ライアテア島からモーレア島まで全長15mほどのヨットに乗る機会があった。そのときの航海では割りに大きな波があった。大きな船がそのまま大きく揺れるので、自分の船の方が乗り心地はいいなと思った。荷物も飛び出したし、自分の体も大きく振られるので快適なものではなかった。この時、最適なあるいは適切な大きさというものがあるのではと感じた。

この船の船長さんには、潜りにおけるとても適切なアドバイスをもらった。水圧に対抗するために、耳の中に空気を入れる耳抜きというものをする。この一回目を水面すれすれでするのがいいというものだった。この直後、私はどんどん深く潜れるようなり、水深計を借りて潜ることにした。温かな海水ということもあって、何のストレスも無く水深20mまで来た。まだ海底は見えない。まだ息はあったが、さすがにそこで立ち止まった。そして帰る分の息を考えて戻ることにした。船長さんに20mまで行ったというと、今日はもう止めた方がいいといわれた。最大で4mほどしか潜れなかったのに、一気に20mまで記録が伸びたのである。翌日は、水深数メートルのところに大きなカレイがいるというのでこれを追いかけた。潜りには体調も関係しているようで、昨日のようにはいかず数メートルがやっとだった。それでもいくつか取ってこの船の冷凍庫に入れた。

(4)ラロトンガ

ラロトンガは、よく島がそうなっているようにすっぽりモヤに包まれ、ごく近づいてから海岸線によってようやく確認できた。近づくまでは、山の頂に乗っている(と思われる、)それらしい形と動きの雲が目印になった。雲は千切れ流れるような動きを見せているが全体としては少しも動かない。そしてその雲の下には、タヒチとは全くの別世界があった。検疫官は私の船を煙で燻したが、彼はなんとウィスキ-を土産に持ってきた。道路に出ると、タヒチではほとんど見ることの無かった日本車が、本当に低速で穏やかに走っている。ここでは、歩行者が車によって緊張を強いられることは無いのではないか。タヒチでは日本と同じような猛スピ-ドの他に、ヘッドライトの目潰しにあっていたのである。そのヘッドライトは、日本でのフォグランプのように黄色のもので、すれちがい様にこれにあうと何もかも見えなくなるのである。最初は、彼らが互いに対抗しているのかと思った。しかしこのほうが眩しくないという話しも聞いたので、目の作りが違うのかも知れない。また私はちょっとした頼み事があって、商店を何軒か回った。このとき、店番をしている若い女性がとても親切で愛想がよいので、何やら温かいものに包まれたような感じを持った。だがそれは彼女ばかりでなくどの店も同じで、まるで親しい友人のように私の話しを聞いてくれたのである。若い警察官は、白バイで島めぐりをしてくれた。もちろん彼はピストルを持っていないし、その必要性も無いという。口笛に振り返ると、岸壁には若い女性が遊びに来ていた。ここでは建物の作りも変化した。郵便局では、職員と客を隔てる透明なプラスチックの仕切りは無くなり、テ-ブルの高さが胸からヘソまで低くなった。

進んでいる、あるいは素晴らしいというものが、当然のごとく学ぶべきものであるならば、ここの文化は大いにその価値があるのではなかろうか。例えば日本での、商店街を歩く人々の間をすり抜けて走る車のスピ-ドを、半分にできたらと思うのである。これは港も同じで、減速しない船の立てる大きな波は、外海のように船を揺らす。どんなメカニズムで人はアクセルを踏み込んだり、離したりするのか。それが少し解明されるのではないか。もしそれが文化の中心的なところから来るのであれば、猫は犬の真似はできないので簡単には解決できない。まあそれでも、思わぬ何かが発見できるかも知れない。しかし、もっと見るためにさらに滞在することは断念した。次の航海に心が傾いていた。

ところで、港に戻るとグリンピ-スの船が入港していた。そういえば彼らはニュ-ジ-ランドから来ており、ここラロトンガはは深い関係がある。船長は近づき難い雰囲気で歩いていたが、乗組員は気さくな人で、環境保護以外の話をいろいろした。帰ってからの仕事のこととか、彼らの不恰好な船のこととかである。その形は、現地に行ったら、容易なことでは動かないという意志を現わしているようにも取れるものだった。

ライアテアに帰港途中、釣り上げたマグロを食べて食中毒にかかった。マグロの種類は、日本では缶詰めにするビンナガと呼ばれるものと思う。釣ってすぐに刺身で食べたのだが、まず体全体がほてり、太陽に当たり過ぎたかなと思っているうちに心臓の鼓動も激しくなってくる。そして頭もガンガンしてくる。さらに全身の皮膚が赤くなっているのに驚き、鏡を見ると目も充血している。だがかゆいということはなく、目の充血もまぶたで隠れている部分には認められなかった。この病は食べてすぐ症状が出るが、横になっていれば四時間ですっかり治まってしまう。次に釣り上げたとき、今度は煮たり焼いたりして食べてみた。その結果は全く同じだった。これは海域の何か、例えば細菌によるものだろうか。

(5)ライアテア

釣り

ライアテアに帰ると、大急ぎで出港準備に入った。日本からの荷はまだ着いていなかったが、これもほどなく届けられた。私はこれから始まる新たな航海のために、前に書いた工夫の他にも、軽量化や重量の中央への集中化を徹底した。割合にすると、中央4のところに全ての荷を集め、前後各3のところは空っぽにした。これで機敏な運動性能を確保できる。それは舵、そして自動操舵そして乗組員の負担を軽くしてくれるはずだ。上下の重量配分は変える余地がほとんどないし、これは大きな力を受けないように逃げることしかできない。

ところでこの最中、私の性格それは日本の文化といってもよいと思うのだが、それが根っ子にあると思われる小さなトラブルを二つ持った。日本の文化といったのは、自分の不手際を他のせいにする積もりはもちろんないのだが、とにかくそこで身に付けた文化としても広く捉えておきたいからである。まず一つは郵便のことで起きたのであるが、振り返ってみるとそれはやはり私のいい過ぎであったように思う。調べてくれるよう頼むときに、信用できないなどといった言葉を使うのはやはり慎むべきだったように思う。言葉が不自由なゆえにストレ-トに過ぎたというより、やはり性格が主因だろう。すごく甘いところがある一方とても疑り深いものを持っているのだが、それが良いほうへ向くとおおらかで注意深いということになる。しかし悪いほうへ向くと、単純に悪いほうへと考えていく。そしてそれを口にする。この背景には、情報を集めて考えていくということが鍛えられていないこと、それゆえにこうあるべきだという感情に流されるのではないか。またはっきりいわない文化では、反対のはっきりいうことが、何かのきっかけで余り抑制が利かない状態で噴出するのではないか。

もう一つは、小さな港の長と思われる人から、そこは長く係船してはいけないと注意されたのに対して、これも感情をそのまま口にしたのである。私はエンジンを持っていないので、動くのは自然条件に左右されやすく意のままにならない。また私がよけたからといって、そこにはエンジンを持ったヨットが入ってきて常に占領している場所である。地元の人がそこに来て係船しているのを見たことが無い。それに、私は準備のために一時広い場所が欲しかった。離れたところにあるヨットハ-バ-は、強い向かい風で入れず戻ってきたところでもあった。もちろん風待ちすれば、翌朝入るチャンスはあっただろう。だからタイミングが悪かったともいえる。つまり、どうしたものかと考えている最中に注意されたのである。私は思い出すだけで気が重くなるのだが、ここに至るには疲れやその他様々な要素が私を規制し翻弄しているように思えてならない。このことにより、この港で働くたいへん感じの良い人も失った。本当に失敗した。

さて私は自分の中に何かが欠けているようなのだが、このことをもう少し考えてみたい。もちろん酷く自分を苦しめる積もりはなく、私の課題からよりできるだけ正確に事の次第を掴みたいのである。まず私は日本の文化の中に育った者であり、つまりどんなに個人差があろうとも日本文化を身に付けたもの、日本人である。そしてこの文化の問題は、様々な個性(生まれつきというばかりではなく、全ての意味で)を持つところの個人においては、脳の回路の問題であるように思われる。また一般的には、成長とはより高度な回路の獲得ということができる。そしてその回路の成長は、生まれたときから(正確には以前から?)脳の持っている手順によって、その本人によってというより、その本人を越えて作られ続ける。だから本人を一生悩まし続ける回路だって、作られないことはない。それらの回路は作用し続けるし、これから自由になれるものでもない。また、必要な回路がどうしても持てないでいるということもあるだろう。一方、それらを補いそして支える、生命に値するような回路も同時に作られるはずであると思う。生命自ら持っている要素だけでなく、この世界では様々の正の要素にも満ちている。それらは、負の回路に対抗するだけの強さを持つまでに成長するかも知れない。それに負の回路を消せばよいといった単純なことでもないようで、それはコンプレックスのように塵芥(ごみあくた)か至宝か解からないところがある。つまり成長のための高度な回路に、それは無くてはならないものとも考えられる。よって考えられる方向は、我々は文化として、その正の回路を育て、よって全体として高度な回路を育てる、その方策を持っているだろうかということである。個々の文化、いわゆる文化活動といわれるものなどを通してということや心構えでなく、そのことを狙った一揃いのものがそろった文化として、具体的な形にしているかということである。理論はあるのだろうか、それとも探っているところだろうか。それに今あるものはどんなものだろうか。私が思うには、正の回路の成長には創造的な行為が直接かつ密接に関わっている。これはたいへん重要である。しかし誤解されやすいことでもある。つまり私は生活とか生命活動としての創造的な行為を見ているのだが、一般的にはたいへん優れたものとしての創造的行為をいう場合が多い。だが生命活動として、つまりこの世界の一般的基礎的なものとして見なければ、結局出来上がってくる回路は弱く、十分な個人の基盤には成り得ず、よって社会的な基盤にはならないと思う。それで結論としては、もちろん個人の出来の悪さもいえるのであるが、その人間の生きる世界である文化の問題、文化の能力の問題を抜きにしてはいけないということである。

■コンプレックス 河合隼雄著 岩波新書 p.219 

(6)出帆準備

イバンさんらの好意により、畑にあるものを必要なだけ積むことを許された。里芋にそっくりなタルア、そしてカボチャ、グレ-プフル-ツ、これらは航海中少しも痛まなかった。カボチャは、パイに適しているという日本では見られない水っぽいもので、大きなやつを数個集めた。グレ-プフル-ツもまた日本で売られているものとは別種類で、もっと大きくて外皮がみかんのように薄く、味のほうも高級品といった感じのものだった。椰子はジュ-ス用の若い実と、ココナツミルクを取る熟したものをそれぞれ積んだ。バナナはもちろん一枝のまま全部。いつも食べていた小粒のマンゴ-の他に、今回は特別にピ-チマンゴ-を何処からか持ってきてくれた。そのほか名前を忘れたが、手のひらに乗るぐらいの丸いフルーツで切り口から白い果汁が出てくるもの、またとげのある大きなフルーツで白い果肉が何とも美味しいものなどがあった。また山で集めたゴヤブの実から作った、手作りのジャムの瓶詰めも数本あった。その他野菜など、庭の中央に集めるとほんとうに食料の山になった。最後に、アベさんの息子アレンさんが作った私の大好きなポアソンクル-も食べた。シイラを刺身のようにしたものにレモンをかけてしめ、トマトやレタスなどの野菜と一緒にココナッツミルクであえたものである。これは刺身が苦手で、サラダは健康のためと思って食べるのとは違い、美味しくてたくさん食べた。

出港前日、警察で出港のスタンプをもらい、それを持って保証金の大金二千ドルを受け取りに銀行に行った。銀行ではこのスタンプが必要である。窓口のおばさんは、タヒチの本店に電話をいれた。しかし、そのようなお金はないといわれたらしい。私にはノンの一言で済まし、私に中断された同僚との世間話を再開した。このおばさんはフランス系、そして彼女の同僚はポリネシア系の顔立ちをしていた。さてこの間、数分とかからなかった。思えば、郵便小包が送り返されたトラブルもこのようにして発生したものと思われる。このようなことがあることは、フランス旅行の体験談としてラジオでも聞いていた。他人とは一線を画し、プライベ-トなことにはあまり干渉しない。しかしともすると他人のことは、急を要することでも無関心になれる。しかしまあ急を要するときにはまたそれなりの方法があるのかも知れないし、どちらかというと全体的な評価は向こうのほうが高いような気がするので、この辺でやめておく。この保証金の問題も、タヒチ入港時に支払えば良かったのかも知れない。今考えるとアメリカで振り込んだために迷子になったと思われる。たぶん、彼らには思いも寄らない極めて例外的なことだったのではないか。ところでこのおばさんは英語が苦手で話にならず、イバンさんに事情を話してとにかくもっと調べてくれるように頼んでもらった。そして何回かの電話と山のような会話のやりとりの末、ついに解決した。さて彼女が何の悪気もなくノンといっていたことは、予想どおりだった。彼女は愛想よく、航海には必要でしょうと箱の形が三角形をした宣伝用マッチをくれ、さらに航海の安全を祈ってくれた。今回、私は一切の失礼なことは口にしなかったし、友人の力は借りたが少しは自分でも思考を働かせたと思う。心のままに言葉を口に出す、これはやはりまずい。抑制が利いてないということであり、それはまた高度な回路を持っていないということでもある。さらにそれは、目の前にしている対象をねじ曲げていることも多いと思われる。とにかく、これで出帆準備は完了した。今回のことでは、大きな一仕事をやり終えた充実感にも満たされた。ほんとうに。


次は、ホーン岬へ です。

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