ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

南大西洋

▼第一章 命空間を求めて
[2]自然と文化を訪ねる航海へ

10 南大西洋

(1)潮気なし

出帆4日目、船酔いが治まって起き出すとさっそく問題が起きた。時計には私が思っていた日より、一日前の表示がされていた。船内には腕時計など三つの時計があったが時刻も全て違っていた。もちろん一つはグリニッジに合わせてある。日記などにより、アルゼンチンまで遡っても、私自身の記憶が間違っている様子はないが確証を得るにはいたらない。まあ時刻を解くのは、それはど難しくない。ラジオの短波による、時刻の専用放送によっても何とかなる。しかしこれは、電波のせいではなくアナウンサ-の英語がうますぎてよく解からない。ワンかツ-かも聞き取れない。このような国際的なものは、英語国民でない人にやってもらうべきでなないか。次に、私は日本語放送を探して、日付を確認することにした。この日は三つの放送を探すことが出来たが、何とそれらのいずれもが日付をいわずに終わった。そして翌日、日本語で英語を教えている放送を見つけた。その局のアナウンサ-は最後に、「8月1日(土)、ロンドンからBBC」といって終わった。これで、私自身の考えていた日付が間違っていることが確認された。もちろん、これらが確認できなかったとしても、航海をするうえで深刻な事態が起きる訳ではない。一日ぐらいの差は、天測位置を大きく狂わすものでもないし、入港近くになったら両方の日付で計算した位置を出し、いつもよりレベルの高い入港態勢を取ればよい。まあそれにしても、流木にぶつかったことといいどうも調子が悪い。

この海域によく飛んでくる中型のたぶんアホウドリの仲間は、黒地に白の、実に細やかできれいな模様を入れている。その自在な飛びっぷりを眺めている私のほうは、だんだん元気を無くしていった。変則的な天候が来ると体がついていけない。長い陸の生活で、潮気が完全に抜け落ちたのだろうか。少し波が悪くなると、その波のぶつかる音でも眠りは浅くなった。それに続く、積雲の大軍団でも睡眠が短くなった。安定すると思った天気は逆になった。雲から吹き下ろす突風が激しすぎて、最後には小さな帆一枚で放っておくことにするまで、さんざん動き回った。何もかもを吹き飛ばしてしまいそうな突風が来ると、水面からしぶきがあがり、船内に逃げ込んではハッチを閉めた。そしてその後は、ほとんど無風状態になる。こんなときには、どうせ距離はかせげないのだから、全部捨てて中で休むのが一番よいのだが、判断力、決断力がすっかり鈍ってしまったようだ。

元気のないときには、おいしいものを食べるのが一番目に打つ手だろう。今航海では日没直前の夕食時に、ビノ(ワイン)をコップ半分ほどを飲んでいた。今日はそのつまみに、ル-ベンのお父さんの作ったサラミを出した。カビだらけで曲がったものが袋にたくさん入っていた。これを適当の厚さに切り、ほとんど期待せずに口に入れた。口に入れた途端、古いという感じはあったがその匂いとは別に、たいへん美味しい味のあることが解かってきた。それは本物の深い味わいであった。このサラミの他に、チ-ズも丸のままを数個積んでいた。アルゼンチンのサラミとチ-ズでビノをやる、この日没時のほんのひと時は疲れを忘れた。

(2)転覆

南緯40度線に到達する前日(1987/08/11)、雲の様子が怪しくなってきた。北から北西を中心に広範囲に広がった薄い雲が船にのしかかってきて、さらに南下しようとしていた。そしてその薄雲の後から、何か層状の雲がこちらを狙っている。今夕はビノをやめた。不安のためか、少しも欲しいとは思わなかった。1ポイントリ-フのメインセ-ルを2ポイントリ-フ(二段目の縮帆)にし、ステ-スルからスト-ムジブにして夜を迎えた。これは強風に備えての帆装であり、Aクラスの警戒態勢に入ったものである。そして真夜中、あまりにそうぞうしく走るのでスト-ムジブを下ろし、穏やかな走りにした。だがそれでも時々波がぶつかり、その音で寝つかれなかった。夜明けを待ってメインセ-ルを下ろし、今度はスト-ムジブ一枚にした。北よりの風はさらに強まり、雨も混じり始めた。波高は一級品に入れようかと思うほどに育っていたが、波頭に危険なものは一つも見当たらず、そのまま追手のクォ-タ-リ-で走らせた。だが確かに決断は迫られていた。大きく育ってくる波を、雨のために閉めた落とし戸の窓から眺めながら、重苦しい気分の中で迷っていたのである。そんな中、午前11時ごろ、左舷から何か強烈なものを食らった。船は横に飛ばされながらゆっくりと横倒しになり、そのまま流された。相当流されたような気がする。そしてその最後のところで、まるで下側になっているデッキが引っかかりでもするように、もう90度ゆっくり回転して逆さまになった。私は回転に合わせることが出来、何のケガをすることもなく天井に立った。さっそくハッチの落し戸の隙間から水が来た。この時、これは本当に死ぬかもしれんという思いが走り、一瞬全身が熱くなった。もちろん、波がぶつかって船を起こしてくれるという期待は、当然のごとく持っていた。しかしまず自分でゆらそうと思い、試みた。だが私の船は小さくて、体を動かす空間は少しもなかった。窓には、透明で真っ青な海中が映っていた。次に考えたことは、海水の浸入で増してくる水面の高さが、顔をつけずにスライドハッチを開けられるところまでは待ち、その後に脱出することだった。その高さ(膝ぐらい)までは、波の力に期待する。脱出のために、船内にいるときから潜ることになるのは、避けたい気がした。脱出作業がきつくなる。また前後のベンチレ-タ-は開いていたので、もし船の前後のバランスが崩れ、船が立ち上ったら、その時はあっという間に沈んでいくかもしれない。そのような例はある。もちろん上下のバランスのほうが、早く崩れる可能性が高い。だが、負の復元力が無くなるまで船内で待つことなど、少しも考えることが出来なかった。それに、どれだけの水が入ればそうなるのか、予備知識の用意がなかった。それよりも小さな船だから、人間の体重が利くということが頭に浮かんだ。やがて水面が膝の高さまで上がってきた。私はここで、脱出まであと三回だけ波の力に期待することにした。しかしその三つの波は、全く期待出来るようなものではなく、ほんの少しゆらゆらしただけだった。私はスライドハッチを内側から開けるための金具にロ-プを通しておき、それを両手で引いた。このほか脱出用に、ハッチを破る手斧を階段のすぐ裏に用意していた。しかし、いざというときにはバ-ルのほうが役に立つと思った。手斧では水面を叩くだけになるだろう。ハッチを一気に開けると、海水が盛り上がった。私はためらうことなく頭を突っ込んだ。水面に出るまでのことは、よく憶えていない。ロ-プが体に絡まることだけを心配して、スライドハッチを閉め戻すことは頭になかった。これで鍋の蓋とかヤカンといった食器類が少し落ちていったようだ。左舷側に出ると、船尾に向かって泳いだ。この時、もしいま船が沈んだら、何の希望もないままずっと泳ぎ続けなければならないかと思うと、何かたまらなく嫌な気持ちに襲われた。船尾に回ると、確かに私の船はひっくり返っていた。裏返しになった船体が、しっかりと目に入ったのである。そういえば北太平洋で横倒しになって海に投げ出された時には、黒く四角な船内に通ずる入口が目に焼き付いた。船底に上るとき、ブエノスアイレスで買ったばかりの長靴の片方が脱げ落ちた。拾いに行くこともできず、私はもう一方も脱いで放り投げてやった。そして今度は、舵からフィンキ-ルに行く途中、滑って落ちた。こんなことをしている暇はないという思いが込み上げ、今度は手前のスケグに体重をかけようと再びよじ上った。そしてスケグ手をかけ体を引くと、船はぐらっと来てそのまま勢い良く回転した。急いで船尾の海中からコックピットに上ったその時、何かに引き止められてふと後を振り向いた。するとすぐそこのところ、その上がったばかりの海面に死があった。その一抱えするぐらいの空間に、死というものの存在をを感じた、あるいはそれをしっかりと見たのである。これを振り切って前を向くと、今度は助かるかもしれんという思いが込み上げてきた。キャビンには、ちょうどテ-ブルの高さまで水が入っていた。これは吃水線から45cmの高さである。バケツを拾って水を汲み出したが、三回ほど汲んだところで水と供に手から離れ、コックピットの複雑な障害物を全部乗り越え、海へ転がり落ちていった。次は鍋でかいた。もちろん手動ポンプはあったが、鍋のほうが早くそして疲れない。そうこうしているうちに私は次の波、つまり再びひっくり返される心配に気がついた。今度波を受けたら、本当におしまいになるかもしれない。そう思い、ロープ流しをしようと表に出た。しかし何ということか、嵐は終わっていた。大きな波は少しゆるんだような形になり、そよ風よりも力のない風が吹くのみだった。(このように、嵐の終わりの方で波による転覆事故が多いというのを後で知った。参照 ヘビーウェザーセーリング 舵社)

三日間、夜明けから日没まで、休む暇も惜しんで働いた。早くしなければ次の嵐が来る。人間の体は上手くできているようで、この三日間は食欲が完全に無くなった。かたづけの時に、船底から出てきた干し無花果やオレンジ、そしてチョコレートを試しに食べてみたが、少しも美味しいことはなかった。それで食事は作らなかった。食事をしなくても苦にならず、いくらでも働くことができた。濡れたままの衣類は、ウ-ルの上下(下着)にヨット用ともいえる油分を取っていないウールで編んだ厚手のセーターというものだったが、寒くも気持ちが悪いということもなかった。この時の船内温度は、日中は15℃、夜は12℃の間で安定していた。体温とインスタントアンカ、それに風により、二日目には乾いてしまった。船内の荷のほとんどは、その置かれたところに留まっていた。戸や蓋は開かないように、全てロ-プで結わえられていた(ロープ製の鍵といったもので扉を内側から引く)。一部開いたものもあったが、物は入っていた。私はまず船内の全体の形を整え、次に重要度の高いものから順次点検していった。

苦手な電気製品は最初からあきらめた。余分な水があればだが、応急処置として洗って塩抜きをしておくと助かる見込みがあるらしい。これらの中では、ディスカウントショップで買った、乾電池式の小さな置き時計が唯一助かった。これは防水機能が無いので、船の回転する軸に近い位置(マストのすぐ横、テ-ブルの上)にあったことがこれを救ったものと思われる。たぶん海水のほとんどは軸の外側を回っていた(実際は船が回転)。

缶詰めは最重要品として、すぐに水気を取り食用油を塗った。ほとんどが紙のラベルで中身を表示していたので、缶の形と中身をメモした。缶詰は、緊急用として航海中は食べないことを原則としていたが、ついに解禁にするときが来た。

白米は厚手のビニ-ル袋に1kgずつ入っていたが、一つ残らず浸水し、早くもカビが出始めていた。これは5kgほどいいところを残して捨てた。玄米も少し積んでいたが、これは捨てる必要が無かった。

防水マッチは、痛みの少ないものがすぐに使えるようになった。

オプティマス製の調理用圧力式石油スト-ブは、簡単な整備で強力な火が戻った。セキスタントは保管箱を固定してあったので無事なうえ、水もあまり入っていなかった。

アメリカでプレゼントされた救難自動発信ブイは、自動スイッチが入ったのか豆粒のような赤灯が点灯していた。ドライバ-で解体できるのだが、この時は気がつかなかった。またアンテナをペンチで落としてもよかったろう。しかし私は、電波が人口衛星ではなく海底へ向かうよう祈って、アンテナを曲げ船底に捨てておいた。

大阪の池田保さんが貸してくれたライフラフトは、だいぶ復旧が進んでから積んであるのを思い出した。

■池田保さん 横山晃設計バイキング22で太平洋横断。

バロメ-タ-は針が動かなくなり、叩いているうちに針が落ちた。これは後に数値もその動く量も怪しなったので、上下の動きだけを読むことにした。

マストはスプレッダ-の少し上、インナ-フォアステ-のところから折れた。またスプレッダ-の下からデッキまでの間を三等分するようにして、二カ所に浅い亀裂が入っていた。そしてそれらは前面にあった。これによってマストは、真後ろに引かれたことが解かった。このマストを後に引いたのは、マストトップとガフの後端を結んでいるピ-クハリヤ-ドだ。そしてこのピ-クハリヤ-ドに力を与えたのは、たぶん一撃を加えた崩れ波であり、たたんであった帆、ブ-ム、そしてガフのこれら一抱えもある束がこれを受けたのである。この束は、私の荒天対策の決断が早ければ、低いところにある受け材に固定されるべきものである。しかしマストにぶらさがっていたので、下方のメインシ-トに関連ある部品類が壊れてくれなければ、マストを後に引くより仕方がなかったのである。後手に回った結果である。またシ-ト類やハリヤ-ド類などの絡み合いはひどく、特にその中の一本はどうしてこんなことができるのかと思うほど、想像をはるかに超えて複雑にマストやシュラウド(マストを支えるワイヤー)に巻き付いていた。結局、帆は二日後の夕方に上げることができた。インナ-フォアステ-はかろうじてマストにかかっているようで、ステ-スルは張ることが出来た。メインセ-ルは2ポイントリ-フの大きさで上げることが出来た。実際この海域はこれで十分であり、転覆後のデイラン(一日の航走距離)は以前より上まわった。

また大量の本などは、日がさせばデッキに出して乾かした。

(3)老練さと文化

転覆の翌日、日没になりバ-スに横になると、老練さが欲しいという切実な思いに満たされた。転覆して間もなく、嵐は終っていたではないか。あれは全然読めなかった。波頭に危険なものが見られないといっても、ヨット乗りなら当然予想はしておくべきだった。何が無理に帆を上げて走らせているのだろうか。どうしてもっと自然に合わせてのんびりやれないのか。まず考えられるのは、恐さがあって先を急ぐ。怪物が出てくる前に港に入りたいのだ。またあの時は北よりの強風であり、ロープ流しをすれば一気に南に運ばれる。これは望むところではない。そこにはさらに厳しい海域が待っている。そんな時には、どうしようかと迷い続けている。その他、あまり南に流されない方法を取るにもそれなりの準備と決断がいる。一年半の陸の生活は長すぎたのだろうか。判断力が鈍り、つまり海の動きやその程度が掴めなくなっていて、なかなか決断を下せないまま時を過ごしてしまう。それとも北太平洋での後遺症がまだあるのか。迷っているというあの状態は、まともな判断、決断が行なわれようとしているのに、これに対抗するようなものも働いている。全体状況を捉え判断したりする、その働きを私自身が邪魔しているのではないかと思える。それに20歳前後の数年間とこの航海での経験は、的確な判断をするいわば回路といったものを作るには余りにも量が少なすぎたのではないか、という疑問もある。ああでもないこうでもないと考えても、いずれもほとんど経験が無い。それでも最後は決断をしなければならない。どうも回路の問題は、性格、心の問題などと共に航海の経験が関係しているようであり、現在の私には荷が重い。またこのような状況での行動に関してちょっとだけ思い当たるのは、本で読んだミッドウェー海戦などでのアメリカ軍と日本軍の対照的な違いにこの問題をとく鍵があるかもしれない。我々の感性的思考は、大事な時に変な動きをするのではないか。また状況が分からないなら分からないなりの判断というものがあり、その訓練も必要かもしれない。あの時、頭に浮かんだどれを選択しても転覆事故は避けられたと考えられる。それで優柔不断の心理的な問題はゆっくり考えるとして、結論としてはすぐに船尾からロープを流すのがやはり妥当だったように思う。

今回の転覆事故は99%乗っている人間によるものであったと思う。しかしそのような人間を守るのが船であるということで、一応船の問題も考えておきたい。船に対する期待として、もっと早く元に戻ってくれたらよかったのにという思いもある。また船に乗るものとして、これらの知識、経験を整理しておきたい気もあるし、我々の置かれた状況も考えたい。それは前にも書いたように、ほとんどが自己流といった状況の元でここまで来たからである。もちろん熱心に勉強する人もいると考えられるので、私のような普通の人間を対象にしたい。

まず設計に対しては基本的に満足している。7.3mガフカッターには、船体中央部でキャビン入口のところに船体を横断するように設けられたブリッジデッキがあり、横あるいは後部からの波の衝撃に対して船体強度を高めるとともに、波が打ち込んでくるのを防いでいる。これは多くのヨットには見られないものであり、外洋を走る船としてふさわしいものと思う。これを取り入れた設計者に感謝しなければならない。確かに、船体はびくともしなかったし、転覆から戻ったとき落とし戸が無くても波の侵入を防ぐ十分な高さがあった。キャビン入口の落とし戸はこのブリッジデッキの上に乗る。また落とし戸は失わなかったが、失ったことを考えてバース(寝床)の敷き板(9ミリ合板)に落とし戸を描いておいた。その他、荒天時のヨットに求められる性能も一級のものと思う。船首が波に突っ込んだりしたことは一度も無いし、オーバーヒール(限度を越えた傾き)でデッキが洗われた事もない。またバラストの重量は全重量の三分の一で特に問題は無いと聞いた。一般的には喫水の深さ、重心の低さが特に重要であるということはまだ聞いていない。つまり深く重ければよいというものではないと本で読んだことがある。これには船の形、つまり浮力が復元力に大きく関わっているようで、7.3mガフカッターは非常に優れていると思う。傾いた時に船の形による対抗する浮力が生まれる、あるいは移動する。また私の船で特に目に付くものは1mという浅喫水である。もちろん深い方が転覆から戻る力は大きいだろう。しかし私にとっては非常に好ましい深さであり、今回のことでさっそくこれを捨てるようなことは考えられない。ただガフリグはマストが短くしかも中空で軽い上、さらに浅喫水では横方向からの衝撃に対しては回転しやすいかもしれない。しかし横方向に相当流されたところからすると、浅喫水はその力を受け流すのに良かったのかもしれない。

次に裏返しから戻る能力について考えて見たい。裏返しになったときの負の復元力は小さいものだがその数値、そしてその復元力がさらに小さくなって元に戻るにはどれだけの水が船内に入る必要があるのか。これは転覆してからの行動に関わってくる。7mぐらいの小さな船においては、体重をかけるのは有効な対策と思うが、体力を有効に使うためにはその時期を知っておいたほうがいいだろう。この海域で転覆した12mほどのスイス艇の場合は、船内にいる人間の胸の高さまで海水が入ったときに回転して元に戻ったというということをケープタウンで聞いた。元に戻るにはもちろん積荷などの問題も関係してくるだろうが、大まかな数値を知っておいたほうがいいだろう。この知らないということが問題である。これまで一般的にヨットは起き上がり小法師といわれてきたが、以前の船と違って割と幅が広くなっているので戻りにくくなっているとも考えられる。それで結論としては、まず十分な船体強度が必要であること。日本での事だが、アメリカから来た15mほどのヨットが、台風の荒波で船体にガタが来て、船体放棄をした事がある。この船は実際に見たが、このような話は少なくない。次になかなか沈み難い構造をしていること、この間に乗組員は船を助ける戦いが出来る。さらに航海する海域や季節よっては、本当の起き上がり小法師に設計された船が考えられる。

もちろん専門家でなくともヨット乗りは、船の能力や性質あるいは船体構造、そして等級つまりその船の評価を話題にする。時にはその元になっている、設計に必要な様々要素も話題になる。このような機会があるときは、聞き耳を立てて様々な角度からの情報を得ておかなければならない。その道の専門家といわれる人の意見でも鵜呑みにしてはいけないし、流行に流されてもいけない。その他、設計上の様々な数値などは、今の私には手に終えないので、設計者の言葉や実績を信用する事になる。

(4)嵐について

三日間の重労働により、次の嵐が来ても大丈夫なところまでこぎつけた。一度は北上し天候の穏やかなところまで行こうと思ったが、残った帆で十分行けることが解かり、再び南下を決定した。ジェノアジブセ-ルはもちろん、メインセ-ルを全部広げるといった大面積の帆の展開は、元々風が強くてチャンスが少なかったのである。そして実際、デイラン(一日の航走距離)は転覆前より伸びた。

復帰してすぐに、次の嵐の前兆が現れた。まず霧雨となり、その翌日は静かな霧の一日となった。そして次に、前回の嵐と同じ北よりの風が吹き始めた。今回の嵐は、日本を出て以来一番大きな波を送ってよこした。この波に比べると、この前の嵐はやはり嵐の中には数えられないかも知れない。とにかくストームジブ一枚でも帆走可能であった。ところで北太平洋の時の温帯性低気圧は、今回のものより波は少し低かったが鋭さでは一番であり、総合点でも一番の横綱クラスである。南太平洋の時のものは、海面が三方向からの波で荒れていたので、今回の嵐とは東西の両大関とするのがいいかも知れない。しかし波の大きさがかなり違うので異議は出るだろう。もちろんそれぞれの低気圧の大きさや船の位置は解からないので、体験上の極めて限定的な比較である。つまり、小さな低気圧の真中と大きな低気圧の端を比べているかも知れない。今回のものは大きな低気圧の端のような気がする。波の大きさからすると無条件に横綱クラスになる。この波に見合うだけの、ここよりさらに激しい強風が吹いているところがあるはずだ。北太平洋の時の、波の斜面を吹き降りてくる猛烈な風でできる、あの風穴といったものは見なかった。さて今回の嵐の波高は、30m(本当の高さは、感じた高さの5分の3が妥当というのを本で読んだことがある。ヘビ-ウェザ-セ-リング K・アドラ-ド・コ-ルズ著 鈴木雄彦訳 舵社)はあろうかと思われた。しかし一方向からであったし、たったひとつ本当に顔色を失うような波も来たが、他の波と同じように逃げることができ、結局どうということは無かった。これらあまりの大きさの波に見とれて、その前斜面に自分の知っている大きさの船を描いてみた。まず若いころ乗った千トン、これはゴムボート同然だ。次に5千トン、これも一飲みだ。2万トン、これも横波を受けたら一飲みか。まあそうでなくても大変だろう。しかし実際にはどんなふうに走るのだろうか。バラストを張って船を沈めて走れば、スクリューが空中に出ることは無いのか。巨大タンカ-は平気なのだろうか。このような波の中で発生するサギング(船体をぽっきり折るような力)には、耐えられるのか。ここは意外と素直な波のように思うが、急に発生するサギングにはどうだろうか。ヨットで起きる様な、舳先を前の波に突っ込み、船尾を持ち上げられて一気に横転させられるようなことは無いのか。ところで日本近海での、北太平洋を北東進してきた小型の台風は、関脇といったところだと思う。強烈で波も鋭かったが、波高は10m以内だろう。この時は、2段縮帆のメインセ-ルのみ(半分の面積になる、ストームジブの2枚分ほどでもある。)のクロ-ズホ-ルドで激しく走っていた。夜になってから急に風が強まり、一気に波も高くなったので、まだ船乗りの卵だった私は恐ろしくて帆を下ろしに行くことが出来なかった。帆は諦めたのだが、船の大きさとしては厚めの帆布で作ったメインセールは、破れずに走り続けた。

さて今回は先手を打ち、てきぱきと仕事をかたづけた。新調した菱形の横帆も試し、ロープ流し、自動操舵と三重の荒天流走装置とした。偏西風帯では、ロープ流しをしている時も、帆走している時と同じぐらいの距離がかせげた。また今回は、油を浸したぼろ布をいれた缶を、このロープに結わえ付けて流してみた。しかし油面が小さいのと、船のスピ-ドが速いのでいい結果は得られなかった。対水速度はゆったりしたものに感じるが、約4ノットで走っている。本物のオイルバッグというものは、比重の大きい魚油などが入っているということであり、今回の試みはほんの気休めということではあった。またロ-プの長さもいろいろ試してみた。短くすると、波の斜面からロ-プの先につけた小さなタイヤが水しぶきをあげて勢いよく飛び出してくる。私はロ-プを伸ばして、波頭の向う側の斜面に先が行くようにした。これで確実に船尾を押さえてくれる。しかし絶対にこちらが良いともいい切れない。出したロ-プの長さは正確には記憶していない。100mの長さのロ-プであったので、80mから100mの間と思う。スト-ムジブセイルほどの大きさだった横帆は、もう少し大きいほうが良いようだった。シートにかかる力が小さく、パワー不足ではないかと思われた。自動操舵はよく動き小刻みに舵を取っている。

この嵐による大きなうねりがまだ消えないうちに、北北東方向に大小二つの島を認めた。トリスタン=ダ=ク-ニャ諸島だ。私のヨットはここでも修理出来るかもしれないが、今回は都会へ向かうことにした。島の山は、雪をのせているのか白い。後で聞いたところによると、港は無いが船を吊り上げる設備があるという。

海水でぬれたチ-ズの、悪いところをよけて食べてみた。ピリピリするが大丈夫だろう。またここでは、10cmほどの小さなイカがよくデッキに上がっていたが、これはおいしい。しかし、料理は天気の良い日にやっとやる気になるぐらいだ。船内に流しが無いので、さらにやる気をそがれる。ハロルドは便所さえソロセ-ラ-にはいらないといっていたが、私には受け入れがたい意見だ。たぶん人種が違う。パワ-やガッツが向こうの方が少し上に思える。今日はご飯だけ炊いて、ピクルスのビン詰を開けた。この小さなキュウリの漬物は大変うまい。もっとたくさん買ってくれば良かった。水は一日に2.5㍑ほど使っているが、この量は節約感の無いものである。そして水は有り余るほど残っていた。つまりあと長くても十日でアフリカに着くが、その4倍の100㍑もある。

(5)入港

出港から40日目、転覆から28日目の早朝5時10分、白み始めた東方の水平線にテ-ブルマウンテンを認めた。しかしそれは一時方向であり、これでは目的地の北へ流されてしまう。風は南よりの向い風であり、思いのままに目的地に向かって方向を定めることが出来ない。現在地でさえ北よりなのに、実に良くない状況になってきた。これというのも、先人の教えをおろそかにしたからだ。

昔、帆船が大活躍していた頃の帆船航路図がある。これには世界中の航路が描かれており、季節とともに変わる風向によって航路も様々に変化している。これはパイロットチャ-ト、そして大洋航路誌とともに大変参考になる。そしてこの帆船航路図によると、入港と決めたケ-プタウンには、入港直前までずっと南に位置するようにして接近し、その後急北上して入港するようになっている。ケ-プタウンの沿岸には、強い北上流があるからだ。数日前から作戦を立て、そのことが良く解かっているはずなのに近道のコ-スに段々となっていく。これには自分でも嫌になる。いくら昔の帆船と違って格段に性能がいいといっても、もし風が無くなったらこの強い北上流には勝てない。失敗は許されないのにまだ切実さが足りないようだ。わざわざ自由の幅を狭めている。うまくいった場合の、確率のとても狭いところを狙っているのだが、今はそこに賭ける理由は何もない。

翌日、凪ぎの素晴らしい天気となった。初夏のような静かで明るい海には、トロ-ル船が現れ、鳥が飛び、テ-ブルマウンテンがあった。だがすでに大分北に位置していたし、さざ波さえ一部にしか見られない海面には、北上する海流のものと思われるしわが出来ていた。私はとにかく流れを横切ろうと、漕ぎ始めた。この午前中から始めた戦いには、夕方三人の乗ったモ-タ-ボ-トが、正に助け船として現れた。彼らがいうには、少し先には風の吹いているところがあり、そこまで引いてあげようということのようだった。これは後で解かったのだが、湾内にはテ-ブルマウンテンから吹き下ろす強い風があり、それが局部的なものに限られていたのである。25分ほど引いてもらうとその海域に入り、もやいを離してもらった。風はテ-ブルマウンテンを中心に、扇のように広がって吹いているようで、まるで巻貝の殻が巻いていくように中心に向かってクロ-ズホ-ルドで走った。風力3の十分な風であり、すっかり暗くなった空には満月も上がった。夜8時頃、防波堤と思われるものの外、つまり港外に投錨した。そこにはほとんど波は無く、少しも揺れなかった。風上には穀物工場でもあるのか、風に乗って小麦か何か、いつか嗅いだことのある少し香ばしさのある匂いが流れてきた。テ-ブルマウンテンの下には、サンフランシスコを思い出すような、美しく灯火で飾った街が広がっていた。そしてその灯は、吹き下る空気のせいかろうそくのように揺らいでいた。翌朝の1987/09/07ケープタウンに入港した。


次は、 11 アフリカで です。

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