ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

創造性の世界 1993

第二章 統合体段階の文化から、空間段階の文化へ

[1] 創造性の世界 1993

1 統合空間

(1)知的統合

統合空間

この世界は、自律性を持って絶え間のない統合作用をしていく、動的な統合空間である。我々生物は有機的統合体であり、生活をしていく有機的統合空間を持っている。そして、この有機的統合空間は無機的統合空間を土台にしている。それは、我々有機的統合体としての基層に横たわっており、有機的統合空間を越えてはるかに広がっている。両者は長い時を経た創造の歴史で一つに繋がっており、現在の世界はその成果である。そしてこのいずれもが創造活動を絶えることなく続けている。つまり、統合体としての生物は、統合作用をする主体であり統合空間を構成する主体でもある。生物はその身体とともに、生きる空間をも創造してきたその主体なのであり、創造とは生きることそのもの、生きる方向でもある。我々有機的統合体としての生物は、まさに身を持ってこの世界を創造してきたのである。そしてこの有機的統合空間がかなり発展したところで、人類による文化の創造が始められた。これを仮に知的統合としておく。この知的統合は他の生物においても行なわれていると思う。人類に比べれば小規模ということであろうが、相当豊かなもののようにも思われる。人類のほうは、大脳化とともに身体内の統制を自由化し、新たな枠組みに備えたようである。無機的、有機的統合空間に、さらに新しい統合を加え、統合範囲を拡大し、安定させ、自在性を高め、生命の主体性をさらに発展させていく。知的統合によって有機的統合の壁を破るのである。

また、意識や精神といったものは、知的統合による統合圏の拡大に対応した働きであり、その成果でもある。それゆえに真理の追求や信仰性といったものがともなっている。


(2)統合体段階の文化

さて、知的統合による様々な統合体は、統合空間を育てていく。これによって有機的統合空間の秩序、体制、能力を越えていく。文化的道具なしには秩序を保てない大きな集団になる。知的統合は組織や世界観といったものにまで及ぶ。そしてこの知的統合空間は、人種的民族的な素質と生活空間としての個性的な地理的空間を核にして育ち、全てのものが個性的なものとなっている。そしてこの個性的な知的統合空間、即ち文化は全一性を持っている。それは建物、制度、笑い方など総てに及ぶ。この個性的な知的統合空間が全一性を持って育っていったということは、自律性を持つ有機的統合体であり統合主体である人間が、この空間の自律性、自己完結性を達成しようとしているかのようである。またこの世界の全体性に触れようとしているようでもある。

ところで、この様々な個性的な文化、つまり知的統合空間は、実はそれぞれが統合体のようである。どうも空間ではなく、大きな統合体として開発されている。なぜなら、統合空間であるなら個は独立自由体となれる。だが、統合体なら個はその部分と成らざるを得ない。この言わば統合体段階の文化において、自律性を持った有機的統合体としての人間と、自律性を失った形の、知的統合体としての人間の矛盾に対して、文化的装置は用意されている。つまり部分として納まるときに、自律性を持つ全なる有機的統合体としてはかなりの苦痛をともなう。このとき、意義のある社会的規範はこの痛みを少しは和らげてくれるだろう。

また、部分となるとは例えば身分制である。現在の民主制はどうだろうか。座席の獲得競争をするところから見ると、民主的身分制といえるのかも知れない。統合体段階の管理体制の、中心的本質的なところはまだ乗り越えていないようである。つまり、納まるための知的統合を進めるということでは同じところにある。それに、強制的な面は近代化による様々な問題からさらに強まっていると思われる。確かに、統合法は開発されたばかりであり空間段階の文化はこれからである。それにしても空間全体を描いていないということ、つまり空間の全体を捉えていないということは、常に不安がつきまとう。統合体段階の文化は自律性が低い、つまり知的統合能力に問題がある。この統合体段階の文化と、自然つまり有機的統合空間の矛盾は、人間の病や苦悩、さらには戦争の源ともなっているようである。さらに、今では自らの基盤である有機的統合空間が危険にさらされている。本来の、自律統合をする独立自由体としての人間の、生きるという行為を支える本当の空間の文化が開発されねばならない。

2 統合体段階の文化

(1)相対的自律

知的統合を行ない文明化を始めた人類は、現在その統合空間を空間ではなく、統合体段階の、つまり形体的で中央集権的な管理体制によって何とか維持統制をしている。よって自由や民主といっても、それは近代化以前のいわゆる神律的他律から見れば自律的ということであって、限定的な相対的自律といえる。本当の自律、創造の主体である本来の人間から形を成していく、いわば無形的形をとる絶対自律の統合空間の開発には至っていない。国家誕生のその昔以来、この知的統合体の形体を高度化させ、現在は民主的なところまで来たのであるが、その生活空間を、自らの自律的な統合をする統合空間とは成しえていない。統合体の、その形を強制される。そしてこの強制された形体の座席を、民主的なル-ルによって獲得し生活していく。それは競争的な生活空間であり、本人の自律性あるいは個性とかは、これに関わりあうのは本人にとっても好ましいことではない、大変困難な世界となっている。
(注) 神律的他律、相対的自律、絶対自律という言葉は、「無神論」 久松真一著 法蔵選書で知った。
 
内部対立
さて、知的統合をする人間は自らが知的統合体となっていくのであるが、正にそれは自分そのものとなる。もし身の回りに、自律的な知的統合を行なう自由な生活空間がなければ、できあがってくる私というものは、自らにとって極めて厄介なものとなる。いつの間にか創造の主体である本来の私を見失う。この本来の私から離れたかたちの知的統合体にすっかり占領され、いわゆる自縄自縛となる。つまり知的統合体が主人公となり、本来の主体を脅かすことになる。本来の主体である有機的統合体としてはまだ生きている。しかし文化という知的統合空間の中を自らの手で生きることができない。これでは心身の障害が起こるのは当然なことであり、自殺もまたやむを得ない。自分が自分のように生きられないのであるから。この文化の枠組みから逃れようとするのも、またこれに反逆をするものが現れても当然だろう。そしてこれらはいずれもが一般的にいわれるように、弱い人間が安易にそのように走ったのではなく、長い苦悩の果てにそうしているように思える。

外部対立
さらに外側とも対立し脅かされる。この統合体段階の私は、その枠組みと同じように固定的なものである。知的統合を繰り返し、激しく移り行くこの動的な統合空間に対して、統合体段階の文化と同じ対処をしていることになる。全なる統合空間から耐えず脅かされる。もともと変化に弱い統合体である。いずれ古くなる。また若いうちに古くなっていることもある。なぜなら青少年期に身に付けたものは、すでに出来上がっているものであり、古着を着せられたともいえる。そしてさらに、文化の高度化はますます人間を追い立てる。このような中では、燃え尽きてしまうという感じを持つ人がいるのは当然なことと思える。

絶対自律的な統合空間ではなく、統合体段階の、激しい競争をし対立する相対的な自律空間であり、よって歯止めのかからない空間ともなっている。不信と不安、そして不寛容さも避けられない。色々なものでこの世界が成り立っているというより、一つの固定的な統合体としての体制が文化全体を支えているのであり、これで生活も成り立っている。ここでの、自律的な統合活動を許されなかったものとしての私は、自らに対して行なったようにむやみな押さえ込みをすることになる。権力闘争はいやでもしなければならない。強くなければ生きていけない。よってこのような統合体段階の文化では、個人の生き方としても昔から理想や完全性が求められている。立派な理想像が陰に陽に強要されてくる。それは外からばかりでなく、もちろん自らもそう思う。「弱さを克服して強くなる。」と考えざるを得ない。ここでの成功は用心しないといけない。つまり、自分を見失っているところでの成功かも知れず、いつどこから崩れるか知れないものであるから。

さて創造の主体である本当の私を見失うことは、自然つまりこの生きている大地を見失い、関係が切れていくことである。創造の主体である人間の自律的な知的統合は、大地を土台にせざるを得ない。そこで生きるのであり、生きるということの総ては、そしてそこにある総てはこれを抜きにすることができない。自律的な統合は、総てを自らのものとして統合し、私を創造していくものである。だが、統合体段階の文化では、そこに生きているというより、統合体の一部である生活空間の中、言わば半虚構の世界に生きることになる。よって近代化以後の、知的統合空間が激しく膨張し始めた統合体段階の文化では、どうしても自然を食い物にせざるを得ない。この文化の固定性、統合能力の低さ、これら自在な形をとれないところからくる浪費ぐせ、また無責任性もあって食い物にせざるを得ない。歯止めがかからず、倒れるまで食い続けていく。まさに創造の主体としての健全な自律性を失っている。ここでは、全体に関わるより、自己防衛的な行動、態勢に走らざるを得ない。あくなき欲望というのは、決して安らぐことのない魂ゆえのことであろう。

統合する
さて、内外から脅かされるこの苦悩に救いの道はあるだろうか。本来の姿とはどういうものか。創造の主体である私と、創造された統合体としての私の対立は、これを統合することによって解決するしかない。そしてこの統合とは主従の逆転によって可能となる。創造の主体たる本当の私が主となり、創造された統合体としての私が従となる。このとき、私は創造されていくものとして柔らかさを取り戻す。また統合空間という全なるものの前で自由となり、自在さを取り戻す。しかしこれは、当然ながら本来のものである。空間段階の文化における自律的な知的統合を最初から行えば、このような苦労は少しもないと思われる。鳥が飛ぶのに、魚が泳ぐのに、大変な苦労をしているとは思われないのである。

(2)国際空間と国家

人間の内部が対立したままであれば、一方で脅かされ、また反対にこれを押さえつけようとする関係が続き、内外ともに混迷が深まっていく、独立体の自律性が失われること、つまり独立性が失われることは尋常ならざることである、いつでもどこでも脅かされている。人は互いに助け合い依存しているというのは、独立性が保たれている場合にのみ当てはめることができる。脅かされているというのは、他者によって死命を握られているということである。自らの自律性によって生活ができない。ここに覇道も生まれる。

自立性の喪失
我々は国際世界という空間の中で生活している。これは、いわば自給自足的な枠組みから、他国なしでは成り立たない枠組みへと国家の体制も変更したということである。日本の場合は、内発ではなく外圧によって近代国家に変身し、国際空間に船出した。もちろん富国強兵となる。このときから、独立国家とはいいながら、実体は内的な自立性を失っている。このような状況においては、戦争は避けられないように見える。脅かすものは何がなんでも押さえつけねばならない。このような状況のもとでは、悪党の活躍する舞台も用意される。

国の内部においては、国民がまた同じように不安定なものとなる。国際的な枠組みの中では、国そのものがどうしても形、そして内部構造を変えざるを得ない。大体が、変化することそのものをみんなで求めているところがある。つまり、バラ色の夢を目指している。よって変化は我身にも降りかかり、必然的に国民一人ひとりに強制されてくることになる。そして我々の文化は統合体段階の、自律性の乏しい固定的なものである。中央集権的な統制は強まり、競争は激しくなり、結果として自由なくつろいだ空間が少しずつ失われていく。そして結局は、場の獲得こそがバラ色の夢につながるということになる。もともと統合体段階の文化は、発展すればするほどに身動きがとれなくなっていくものをその本質に持っている。こうして寛容さを失い、狭量さを増していく。

民主制に移ったということは、身分的に規制されていた人生が一つ自由になったということである。方向づけられていた知的統合の枠組みが広くなり、それだけ自由な知的統合ができるようにたった。自由な人生とともに、便利で豊かな生活に必要な生産もまた高くなった。だが、このことはいいことばかりではなく、以前にもまして強い規制が働くことになったのである。生活空間は変動してやまない不安定な空間であり、その空間は身分制以上に身分的な肩書きといったものを要求してくる。そして、四民から外れたら大変なのは今も昔も変わらないということになる。

一人の人間、そしてこの人間の所属する国家、これらはみな空間の中に漂っているようである。自立性を失って漂うそれぞれの統合体段階の文化、近代国家といってもこの段階の文化であり、先進あるいは後進とかいっても同じもののようである。

統合する
自立性を失いながら、国家としての空間と国際世界としての空間が統合されていない。文化として、一つの知的統合空間とはなっていない。もちろん統合体段階の文化でこれを統合することには、無理があると思われる。能力的に限界がある。可能性があるのは、創造の主体として、本来の人間の持っている自律的統合能力による、空間段階の文化の開発であると思う。振り返れば、個人においても、創造の主体である本当の私を主とし、その生活空間を自律的な知的統合をする統合空間とすることによって解決を得た。国際世界という空間においても創造の主体は変わらない。そしてこの空間段階の文化を担う人間、つまりこの文化を身に付けた人間は、文化の開発という面から見ると、人間となった人間、初めて人間としての知的統合をするものといえるかも知れない。今は、人間として大進化中なのかもしれない。国際世界という、各民族文化を越えた包括的な最大空間においては、頼りになるのは自立性を失った統合体段階の枠組みではなく、高い自律的統合能力を持つ空間段階の文化と、自律統合をしてこれを機能させる、全的な人間であると思う。

各民族文化のゆくえ(文化の分化発展)
近代国家とは、その始めから実質的には国家の枠組みを失っているように見える。国際世界という統制のきかない大きな空間に浮いて、からくもその枠を支えているのはそれぞれの民族的な文化である。それぞれの文化が存亡を賭け、緊急態勢をとって近代化の海に船出したということであろうか。それでは、もし国際空間というものが空間として統合された空間段階の文化においては、それぞれの各民族文化というものは、いったいどういうことになっていくのだろうか。

個人の場合、三つ子の魂という言葉があるように、まず核といったものが形成され、それをもとに成長してくるようである。これは同じように民族的な文化にも当てはまるのではないか。例えば、日本的な文化というものは、日本がこの島に到着する以前から日本的なものであったに違いない。いろいろ形を変えても、近代国家となっても、やはり日本的なものとして働いている。そして文化、つまり知的統合の始めは非常に古いものであるのだろう。化石によると、人間としての核ができたのは、言葉もない、もっとずっと以前のことではないのだろうか。

そしてまた、統合体は統合作用をする空間に依存しながら独立しているということがある。つまり、創造性の世界のこの二面的な性質が分化して、それぞれに知的統合の核になっていったのではないだろうか。それらは空間的なものであり、統合体的、あるいは形体的といったものである。またこれは、母性性と父性性の文化の源でもあるように思われる。ここに開発の方向が定められたのである。そしてこのことは、男性と女性に分化し、また何種類かの形質の人間に分かれているように、そしてさらに各人がそれぞれに個性的な人間であるように、分化することによって広範な対応力が生まれるということと同じことである。分化することによってそれぞれに能力が高度なものとなる。つまり各民族文化とは、それぞれの方向に分化することによってその能力を高度化させているということであり、空間段階の文化は、それらの各文化によって高度な対応力が生まれるということである。そしてこの様々な個性的な文化は、無機的統合空間である宇宙の壮大さ、有機的統合空間のこの自然の豊かさに匹敵する、知的統合空間の広がりと厚みを如実に物語っているのではないだろうか。空間段階の文化は、これをさらに発展させるものであると思う。そしてその発展を担うのは、創造の主体である本来の人間の自律的な知的統合であり、その人間を生みだし育てていくものが全体空間の中の民族的な空間であると思う。

3 空間段階の文化

食糧の余剰ができた時から始まったと思われる社会の新たな発展は、国家の誕生から領土国家へと拡大し、近代化といわれるところまで来た。そして様々な各文化は、統合空間が分化したものを核として、それぞれの個性的な地理的空間を土台とし、それぞれに個性的に育ってきたものである。そしてそれぞれが統合体段階の文化のようである。つまり、地域的なものに対応した限定的、途上的なものである。またそれは、自律的一体ではなく管理的な一体というものになっている。これに対して、近代化による国際的な空間とは遙かにこれを越えている。しかも、すでに自らの空間、つまり実質的な生活空間となっており、これを統合しなければ振り回されるばかりのものである。地域的、限定的、そして管理的一体的な文化によって、一挙に大きな空間に対処しなければならなくなった訳である。様々な障害が出ている。いやおうなくこの国際空間に船出しなければならなくなったこの近代国家というものは、その空間の特色ゆえに、まさにエンジンを止められない機械のようである。産業国家といい、科学技術に象徴されるように、有機的統合空間の抑制を断ち切って自らの知的統合で走りだしたものと思われる。しかも国家の枠を越えているために、自立性を失っている。つまり他国無しでは生きられない。また、ちょっとした減速も不景気となって現れる。止めれば恐慌となる。そして止めなければ人間も自然もどんどん食われていく。知的統合体としての私が、創造の主体としての私を牛耳ってしまったように、走るために人間を含めたその有機的統合空間である自然を牛耳ってしまう。これを支える統合体段階の文化で育った人間は、特殊性、専門性は高められているが、全体性については逆に弱点を持っている。このことにより、みんなが危険を感じたとしても止められないことになる。社会システムは対応力の低いもので、エンジンばかりが大きくなっている。環境破壊が地球大に及んでも、人間の魂にヒビが入っても止められない。科学技術でこれを乗り切っていこうというのは、もしこれに頼り切っているとすればあまりにも的外れである。この拡大した空間を統合する科学こそが必要なのである。

思えば、人間の成長においても国家の成長においても、拡大した空間によって自立性を失い、これを統合することによって新たな高次の自立性を得るということを繰り返しているようである。しかしこれまでの形体的、管理的な捉え方の統合体段階の文化では、国際世界まで拡大したこの知的統合空間には対処しえない。むろん、これまでもこの管理的な文化に悩みながら、代わるべきものが未開発のままにここまで来たことがいわれている。だが近代化以前と以後では、状況があまりにも違っている。取り返しがつかないという度合いがまるで違う。とにかく、この近代化による国際的な空間によって、社会の成育発展が質の転換を向かえたということであり、一段高度なものに乗り換えねばならなくなったということであると思う。

(1)知的生命活動

創造性の世界は、何もかもが変化してやまない千変万化の世界である。この中で、我々は休むことなく知的統合活動をしている。五感を動員し、そのための情報を集める。そして、自分の置かれている状況を捉え、判断を下し、手を打つ。知的統合とは生きることそのものである。それは日常の生活、仕事、遊び、およそ人間の行為の総てにわたるといってよい。そしてこれは、一生を通して死ぬまで続けられる。ゆえに、知的統合とは人間から切り離すことのできない、知的生命活動と言えるものである。もちろん、意識的な面ばかりでなく、無意識的なところでも行われている。全的に行われる。無意識的な活動は、意識的な一面性を補い、これを支えている。また、全的に行われるということは、生活空間の個性的なありさまによって、その中で様々な形を取り、補い合い、本来の全体性を達成しようとすることでもある。ゆえに社会性といったことは、生まれながらにして持ってきているものである。それは、この世界にしっかりと結び付きを持つところの、この働きからも証明される。

拡大統合

そしてこれらは、自らの生活空間の創造ということである。赤ん坊は、自らの生活空間を拡大統合しつつ、全体空間の中に乗り出してくる。この全体空間という大きな生活空間は、文化として、自然を土台に育てて来たものである。またこの空間は、有機的統合空間が一つのものであるように、一つの有機的な仕組みを持って働くものである。そして現在は地球規模で働くところまで拡大した。どんなに大きくても、この空間は自らの生活空間なのであり、人間の生きることとしての知的生命活動をする場である。人類は、自然の上に新たな生活空間を創造してきたのである。文化とは、知的生命活動をする知的統合空間のことである。よって組織の中の仕事といっても、それは自らの生活空間の創造をしているということでもある。この生活空間の創造に、空間ではなく統合体段階の文化で対処しているゆえに、様々な問題が発生していることは前に見たとおりである。

(2)高度情報機能社会

さて、この空間が空間としての自律性を発揮するには、そのための仕組みとして高度情報機能が不可欠である。高度情報化社会といわれる。しかし、さらにこの空間の中に、つまり生活の中に情報機能が働かねばならない。このことは、知的生命活動をする主体である人間としては、この機能を身に付けねばならないということでもある。

我々はこの千変万化の世界で、自らも変化しながら様々な問題を前にする。組織的な仕事においては、ここから解決すべきことを課題としてもらう。それらは例え繰り返しの仕事であっても、同じ状況ではない。ほとんど未知の、困難極まるものも少なくない。一生ということでは総てが未知である。また、いわゆる仕事とは生活の糧を得るためばかりでないことはいうまでもなく、特に現代は、生活空間全体をことさら対象にせざるを得なくなって来ているようである。この中での自律性をもった知的統合活動とは、課題の解決を自ら行うことである。自ら判断する。問題が何であるかその状況を自ら把握し、その要点を見いだす。的を絞り目標を立てる。あの手この手の作戦を考えておく。自らの成長に対応した段階的な計画も考える。そして実施する。要するに一仕事の総てを自らがやるのであるが、このとき、この空間と主体の間に、つまり主体と主体の間に、この一仕事を達成していくための情報機能が働かねばならない。手取り足取りでもなく、隠すでもなく、バラバラでもなく、一方的でもなく、この共同のものである生活空間の創造のために、その創造活動が支障なく行われるように高度情報機能が働かねばならない。空間段階の文化、つまり創造的な社会とは高度情報機能社会ということでもある。

そしてこの高度情報機能とは、我々が知的生命活動をしている、その自然な働き、その仕組みをそのまま高度化させるものである。道具にし、技術化する。つまり文化とすることである。例えば、リ-ダ-を決める。大勢の人が集まって同時に一仕事に取りかかる現場を見ていると、リ-ダ-は情報流通センタ-の役割を、身を持って演じているように見える、全員が注目し、彼がうろうろすると動揺が広がる。こちらからあちらへと、リ-ダ-を通して的確に情報が伝わり、その時即断即決しなければ全体の動きがとたんに悪くなる。二人のリ-ダ-では簡単な仕事も暗礁に乗り上げる。これは、一人の人間の中で行われているときの情報機能が、複数になったときに一本化できず、混乱しているわけである。

また統合化も大事である。総てが個性的なこの世界では、個々の状況を捉えねば的を射た手を打てない。よって状況を捉えるための取材法、デ-タの統合法などが欠かせない。これは、対象をバラバラに見るのではなく、統合された全体像を求めることにより、見えにくい真実の姿に近付き、またそれを一望のもとにするものである。

さらに、生きるということは問題解決をしていくということでもあるが、その一つひとつの仕事は、一連の手順を経るものであり、構造があることも明らかにされている。よってその一連の質の違う段階を一つずつ行うことは、一人の人間として、あるいは集団として、そのやろうとしている仕事の全体がよく見えるようになり、このことによってさらに情報機能が高まり、複雑な難問に対処しえる可能性が出ることになる。また自律的な統合が活発に動きだせるようにもなる。つまり、これら総ての方法や技術によって、新たな秩序ある情報機能が働き、生活空間が自律的な知的生命活動をする知的生命空間となっていくように思われる。もちろんその他、たくさんの要素が関わっていると思う。

この機能によって、我々の生活はよほど安らぐに違いない。生きるということが、自らの生活空間であるこの全体空間と一つに結ばれるのである。自分を脅かす対立物ではなくなる。それは限りなく広く自由な創造空間になるのである。そして当然ながら、自律統合は全体空間の統合能力が高度なものとなる。様々な問題に対する対応能力が高まる。統合をする人間もまた自信がつき、やりがいを得る。

リ-ダ-の位置にいる人は、不具合によく気が付き、仕事の組み立てがよく、なかなか良い仕事をする。これは責任感が強く、優秀な能力を持っているからではなさそうである。そのひとまとまりの仕事について、どのぐらいのできでよいのか、その他全体状況について自ら判断するための材料、つまり情報が入っていることが大きな要素であるように思う。また自ら決定権があって、ほとんどの仕事をだめにされることがないことも大きい。問題は下につく人である。細切れの情報で振り回され、気を回した準備が不要となり、結局空白に近い頭で指示待ちばかりをするようになる。だが、もし生活空間が知的統合空間として働く空間段階の文化であれば、本人とその場の個性のままに発展していくことができる。

(3)相互保障

そしてこの統合体と統合空間は、一つのものとしてともに発展するものである。これは体験上からも容易に察することができる。一仕事を通して何かを作ったとき、それによってこちらも作られる。人は船を作り、船は人を作ると言われるとおりである。ともに成長発展する。振り返れば、有機的統合体としての人類も、有機的統合空間の発展の上に出現が可能になったと思われる。我々の命も、この豊かな自然の発展とともにある。文化という知的統合空間も同じである。創造の主体である人間の、統合活動による知的統合空間の安定(例えば平和)は、この中で統合活動をする人間の安定した知的統合活動にかかっている。この世界の変化に対して、秩序もまた創造していくものである。相互保障の関係にある。人間の自律的な統合活動が、空間全体の自律的な能力となる。千変万化に対応する、この絶え間のない自律的統合活動の、この動きが空間の揺るぎない安定性を支える。空間全体の自律性が高ければ高いほど、能力があればあるほど揺るぎないものとなる。つまり、創造の主体である人間の、自律的な知的生命活動を保証する空間段階の文化の開発は、空間の安定と高能力を生み出すのである。空間の安定性と、創造の主体である人間の独立自由性は一つのものである。

(4)統合体から統合空間へ

つまり、我々の命というものはこの空間の中にある。統合体の命は統合作用あってのことであり、創造の主体とはこの統合空間という全なるものに繋がっている。だから、生活空間の自律的な創造が空間の全体性、つまり全なるものを身に付けていくことに繋がる。成長とともに続ける生活空間の創造を通じて、全体空間とも自然に一つになる。

問題は現在の統合体段階の文化である。統合体段階の文化は、発展するほどに自由な空間をなくしていく。細部までガッチリと統合体に組み込まれ、身動きがとれなくなり、自律性を奪われていく。自由な空間を欲すれば領土を広げるしかなかろう。だが、最初は希望に満ちて出発しても、結局は人間性を失うことを本質に持っている。

この統合体段階の文化は、空間段階にまで進んで一応の完成を見るのではないか。人間の成長においも、自ら統合した統合体としての私が、その融通の利かない固定的な性格で創造の主体である私を牛耳り、内外ともに対立して混迷を深めたとき、その解決策は主従を逆転して本来の姿に戻り、この世界を統合空間として捉えることにするというのは前に見た通りである。つまり、自らが創造の主体であることを取り戻すのである。

文化の成長



個人の成長においても、また文化の成長というものでも、統合体を統合することから始まってこれを拡大発展させる。若いときの友人との初めての長期旅行や、登山、航海における余裕のない場面でのひどいあつれきは、この統合体ゆえのことではないかと思われる。この異質で固いものが一つになるのであるから、これが起こることは避けがたい。そして文化の成長というものの方は、この統合体を何回も作り替えて民主的というところまできた。統合体段階の文化としては最後部であり、空間段階の文化までもう一歩のところまで来ているのではないか。

確かに、知的統合体が極めて有効な力を発揮することは、その一つである様々な道具によって理解することができる。また烏合の衆は、隊形をとっただけでも大変な力を発揮する。このことによって、易々と勝利を収めることになる。だから、文化という包括的な器も、統合体的なものになっているのもうなずける。そして現在、統合体的なものを核に持つ文化のほうが、変化してやまない現実への対応力が優れ、次々と手を打って新しい知的統合体を生み出すという、先進性を表していることも理由のあることと思える。空間的、無形的なものを核に持つ文化、例えば日本もその一つだと思われるが、突貫工事、白兵戦といった人海戦術が得意であり、大きな統合体といっても、小さな生活空間を組み立てていったものになっていて、基本的にはこの小さな生活空間でものごとに対処しているということも、思えばいたしかたの無いことである。つまり大きな空間開発はこれからのことであると思われるから。

また聖と俗の関係は、統合体段階の文化の高度な発展によって俗化が進んだのであるから、空間段階の文化においては、聖と俗を越えて統合空間として一つのものに捉えられるのであろう。つまり、聖とは捉え切れぬ空間を見ていたものと思われるのである。

さらに、空間段階の文化では各部分もまた同じ統合空間であり、その全なる空間に対応した全的な人間が生きることになる。この人間は、統合体段階の人間が、身分的、限定的な専門性を持って頭となり、手足となって各部分を担うのとは違い、全的な上に専門性を身に付けているのであるから、空間全体への自在な対応の可能性がある。そしてこの空間全体の姿は、正にこの自然のようなものと思われる。また、身近な生活空間が全体空間と一つのものとなるのであるが、それは点や線ではなく、それらを含めた面的な生活空間となるともいえる。

そして、空間段階の文化における自律統合は、各自の個性的な能力を驚くほど育て上げるに違いない、今はこの自律統合、すなわち創造力をほとんど無駄遣いにしているのであるから、未開発エネルギ-といってもよいのかもしれない。空間段階の文化は、この創造力エネルギ-によって動くものであり、そして統合体段階の文化とは一味違った、この空間特有の個性的な豊かさを築いていくものと思える。

(5)統合空間の構造

さて、空間段階の文化が統合空間として機能するには、高度情報機能が不可欠である。そしてこのことは、空間は空間として技術的に運営するものであるということである。空間を無秩序なまま放置しても空間とはならない。無秩序な創造作用に振り回されるばかりである。言わば負の統合がなされてしまう。このようなこと、つまり空間の機能が不十分なままで存在が許されるのは、有機的統合空間の上に、つまり自然に支えられているからである。そして現在まで、我々はこの発展しつつある知的統合空間に対して、統合体段階の文化による秩序でこれに対応してきたわけである。しかし現在の統合体段階の文化では、事実上の空間に対して全面的に対応できないために、相当に無理が生じていると思われる。つまり歪みにいつも悩まされる。空間には空間で対処しなければならないと思う。

さて、空間というものは絶え間なく創造発展しているものであり、そこには常にそのときの個性的な課題がある。その内容には、空間の拡大期や統合期といった周期性から来るものもある。そして創造の主体である総ての人間が直接間接にこれに関わる。なぜならば、この課題とは自らの生活空間の、発展そのもののことなのである。そして、空間は一つのものであり、そこにその全体からくる課題があるということは、様々なものを越えた共通の課題の、存在の絶対性があるということである。

このことに不自由な感じを持つ人はたくさんいると思われる。だが空間が一つのものであることが独立自由性を保証していることは、前に見たとおりである。分断された空間の中での自由は、本当の自由とは言い難い。我々の自由の一つは、統合空間からくる課題を、自らの個性を発揮しつつ、変幻自在の対応をして創造することそのためにあり、そこにやりがいも出てくると思われる。ここから離れた自由は空虚なものになる恐れがある。知的統合、つまり知的生命活動が、この自由な限りなく広い空間のなかで発展していくことができずに、空しい自己回転といったものになってしまう。創造の主体である自分を見失い、苦悩を深めてしまう。

さて、共通の課題があるとうことは、いずれもが個性的な人と人、同じく様々な文化と文化を越えるものがあるということである。さらにそこには、文化の内容物である政治、経済、宗教も科学も、その他一切のものを越えるものがあるということである。よって、常に個性的な課題、そして共通の課題を持つ、この包括的な空間こそが主人公である。主従を取り違えてはならない。空間を空間として認めること、そして創造していくことが様々の厚い壁を取り去ることができる。そしてこの統合体段階の文化の限界を越えることができる。

以上によって、部分や専門を越えた統合空間としてこそ捉えるべきである。だから、大きな組織的な仕事も、もともと全体空間における創造活動なのであるから、その細部の仕事であっても、その小さな空間の個性を捉え、個性的に達成するものである。創造空間は、いつでもどこでも個性的なものであり、個性的であるということ、すなわち全体的な組織としての要求に添い、課題の達成の好成績につながるものである。

(6)空間を捉える

創造性の世界は、不断の統合作用を続ける千変万化の動的世界である。統合体も統合空間も変らぬものはない。我々人間も自ら変化しつつ千変万化の対応をしていく。成長とともに、自らの知的統合空間を拡大統合しつつ、全体空間の創造に関わっていく。この時、我々はこの変化してやまぬ、自らも含めたこの統合空間を捉えねばならない。この状況を捉えてこそ的を射た手が打てる。捉えることができなければ、判断を誤り、あるいは後手にまわり、大きな犠牲を払ってもまだ課題は解決されず、疲労困憊して途方に暮れるということにもなる。

これまでは、法則や真理といったことを見いだすことによって、これに対処することが主流を占めたようである。また統合体段階の文化では、この統合体に合わせるべく、誰にでも当てはまる理想的な目標や方法が用意してあるということになる。それに向かって努力する。しかし、この近代化にはいった空間は、その規模、変化する速度、その複雑さからいって、この古典的な方法だけでやっていけるものだろうか。またやってよいものだろうか。

状況を捉えるということは個性を捉えるということでもある。創造性の世界は、何もかもが個性的なものである。一つとして同じものはない。このことは、現場の、対象こそが主人公ということである。対象そのままに捉えねばならない。それは渾沌とした状況そのまま、その全体をそっくり捉えねばならないということである。そうであるならば、この渾沌とした状況というものは、何物にもまして最も信頼すべきものである。そこには総てがある。そこには、あらゆる部分、専門を越えた全なるものがある。まさに渾沌をして語らしめることは創造の始めであると思う。よって空間が空間となるには、この渾沌とした状況を捉える統合法が不可欠である。文化というこの知的統合空間には、これら一揃いの道具や方法技術がなくてはならないものである。我々は、この文化の創造をしているのだと思う。
-終り-
1993 2月 19日
日生港 (岡山県)
佐藤 正志


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