ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

ホーン岬へ

▼第一章 命空間を求めて
[2]自然と文化を訪ねる航海へ

7 ホ-ン岬へ

(1)出帆(1985/12/17)

私の気力は再び日本の出帆当時まで回復し、腕が鳴っていた。更なる広がりを見せようとしていたこの世界との関係に立去りがたいものは感じたが、私にはやはり獲物を追うしかないと思った。後で思えば、私には全ての世界との新しい関係こそが求められていたのであり、これこそが解決すべき仕事であった。獲物はこれを可能にする非常に基礎的な原理であり、時間や空間を越え全ての世界の、あらゆる要素の中に潜んでいるように思えた。そうでなければ、どうして遠い?宇宙のことなどが気になるだろうか。

1985年12月17日昼少し前、帆を上げブイのもやいを解いた。足船用に借りたアレンのウィンドサ-フボ-ドを、夜のうちにロ-プが切れて流してしまったが、彼は出帆を進めてくれた。近くの浜に打ち上げられていればいいのだが。

航海は順調に進んだ。ライアテアのヨットハ-バ-での、モワテッシェからのアドバイスはたいへん役だった。それはセキスタントの望遠鏡を外し、肉眼で直接水平線を見る方法で、実に具合がよく星だけでなく太陽でも、また凪ぎの日でも望遠鏡を使うことはなくなった。

■モワテッシェ 有名なフランスのヨット乗り。著書は「Cape Horn:The Logical Route」Bernard Moitessier GRANADA

南下を続けて一週間目、太陽の南側へ出た。太陽は北へ向い、私はさらに南下を続ける。南下のコ-スの途中、オ-ストラリア方面からやってくると思われる低気圧で、三日間の雨と強風があった。これは最初のしけになったが、帆走可能なものだったので縮帆して距離をのばした。すでにパパイアはうまく黄色にならなくなったが、大きな房のバナナは一生懸命食べねばならなくなった。それで、ココナッツミルクを絞り、これとたっぷりのバナナを入れたパンを焼いてみた。これは大成功だった。パンを焼くには無水鍋を使った。南太平洋の偏西風帯は極めて安定していた。西風のクォ-タ-リ-では、気持ち良くサ-フィングした。こんな走りは初めてだ。2ポイントのメインセ-ル(2段目まで縮帆、面積は半分になり荒天用)とステ-スルだが、いい波が来るとうまく乗った。だが、自分の帆走スタイルがまだ出来ていないことを感じていた。今も考えながらやっている。このようなとき、この帆でこんな具合にというのがまだない。

南太平洋(南半球)では一つの嵐だけだった。一カ月も過ぎた頃、北西よりの風と霧雨で始まった。この頃の船内温度は、朝が9℃ぐらいで日中は12℃ぐらいまでになった。外は寒く、冬支度とした。船内は水滴でビショビショになり、寝袋の下から濡らし始めた。モワテッシェがいうように、この嵐による海面は三方からの波が交じり、その交差点に波頭の崩れが出来やすいようだ。西風による波に、北西と南西方向のうねりが交じっている。これは北太平洋で経験したものとは海面の様相が大分違うが、少し小規模なせいか鋭さは劣っていた。この荒れた海面によって、左右からの攻撃を受けることになった。ほとんど横倒しになるほどのパンチを数回受けた。しかし船内は、胡椒の小ビンなどの小物が飛ぶだけで、全ての扉は閉じたままに保たれていた。船内に閉じ込もっている人間に比べて、アホウドリだろう数羽が悠々と飛んでいる。ロープを船尾から流して二日目の昼少し前、私はコックピットに出て装備の点検をしていた。このとき私の耳に、後方から聞き慣れない異様な音が入った。振り返ると、どれだけ離れていたろうか真っ白な帯を目にした。圧倒的なパワ-を背後に感じながら慌てて船内に逃げ込み、ハッチを閉めアクリルガラス製の窓が付いている嵐用の落し戸から成りゆきを見守った。波は先程よりは小さめになったかと思われた。そしてそれが近づき後方で盛り上がると、百鬼丸はいつもと変わらず迫る波の斜面を滑り、覆い被さるように崩れてくる波頭を易々と逃れた。ロ-プが張って船尾を押さえると、そこに力のない泡がたくさん押し寄せてきた。自動操舵もどうというこうとはなかった。それにしても素早い逃げ込みかただった。実際はそう慌てる必要はないだろう。

(2)内界

北太平洋のときにも聞こえたと思うのだが、たまに小声でささやくような人間の声がする。外から聞こえるのかそれとも船内か、探しまわっても突き止めることができない。後でこれを船守(ふなもり)ということを聞いた。

また、今度の航海では海坊主とも出会った。夕方、星が見え始まるぐらい、灰色の薄暗さの中で、夜に備えるためにデッキで作業中ふと顔を上げると、波間からじっと私を見つめていた。私はしっかり見届けようと気合いを込めて再び見たが、それはすでに消えていた。私が見たものは、今まで聞き知っていたものとまったく同じもののようであった。丸い頭に一つ目で、毛は無かった。頭に毛が無いというのは、人間では生まれる前と死んだ後である。大きな一つ目で見える世界は、この世とは少し違った風景だろう。片目をつぶってみれば少しは感じがつかめる。丸い頭は全なるものといった意味があるのだろうか。彼が現れた海にも意味を感じる。それに夕方という時間は、我々の意識が弱まり始めるときだろう。思えば、この世にあるあの世を見たのだろうか。私の船が海に浮いているように、あの世にこの世が浮いている。それに、意識も大きな無意識に浮いている。彼は獲物を追う私の案内人か、それとも私自身で案内人で獲物ということはあるだろうか。

今回は心に余裕があるのか、本がいくらでも読める。一カ月も過ぎると、港が恋しくなるのか入港日の計算を始めるが、そんな計算やお茶が済むと再び本に戻った。例えばそれは「沖縄」(著者不明、今は本もメモも無い。)、「人類の進化と未来」今西錦司著、といったものである。そしてホ-ン岬の十日ほど前から、「私の山、谷川岳」杉本著、を読み始めた。海についての漠然とした考えをまとめようと、その反対あるいは私の行かない山の本を読んで見たくなったのである。山を登る人々は山をどう考えているのか、それを知りたかったのである。それに私の師といえる人々、私の計画の大部分それは骨格といってもいいと思うが、それを支えているのは山に登る人々である。「KJ法」の川喜多二郎さんも山の方である。もの心がついて最初に手にした本、「冒険と日本人」の本田勝一さんも山の方だ。もちろん全く山に引かれたことがないという訳ではない。小学校も高学年になった頃と思うが、遠くに見える蔵王山とその近くの山々が雲の上に浮かび、壮大な光景が広がったことがある。私がそのように見たのか、その後あの山々はいくら探しても見当たらず、蔵王山も雲の下に小さくおさまっている。ところで、山には崇高、理想といったイメ-ジがあるように思うが、これが海では自由そして希望となるだろうか。海が好きといった好みの問題とこのようなイメ-ジは、心理的に関係があるかも知れない。しかしよく分からない。また海へいく山に登るという行為は一つのものとして考えることができる。つまりその場は違っても人間の生命活動としては、極めて自然なことである。これらの行為に対して、ひろく社会に否定的な疑問が起こるのは、その文化が生命活動そのものをまだ十分に取り扱えないでいるということではないか。もちろん一般的な生活のための理由、あるいは明らかにどうかしていることは除外して考える。文化的な能力として見ると、よく理解できそうな気がするしその難しさも解かる。生命活動をさらにもう一歩進んで扱うことができるには、どんな装置が必要なのだろうか。その開発の方向は、そしてその核はどんなものだろうか。この航海で見いだすことができるのだろうか。ところでこの本の後半部には、一度ならず遺体収容の場面が、それも詳しく出てきた。これにはすっかり暗くなり、しまいには気持ちが崩れそうになった。これはいかんと奥歯を噛んで気を締め、突っ込め~と号令をかけた。

(3)ホ-ン岬

積雲

1986年、1月25日、航海40日目にホ-ン岬周辺の海図に船位を記入することになった。また、昨日一昨日とシャチが現れ、私の船と同じ方向へと走り去った。イルカと違いこちらには何の愛想もないが、彼らはまるで遊びながら旅をしている。昨日は高飛び比べをしていた。

1月27日早朝、左舷に島々を認めた。山々の白いのは万年雪か。戦闘体制をしいた初日の昨夜は、満月が北の空に昇り、海やデッキを明るく照らしてくれた。この月で夜も三回の天測をし、船位が得られた。今朝は、空青く澄み渡り、太陽の光が降りそそぐ素晴らしい天気になった。海の水は今までにない色になった。緑でも青でもなく、緑に金を交ぜた色といったらいいか。そして昨日と同じ、雄大積雲の大軍団の真只中に入った。背の高い巨大な柱のような雲が船上に来るたびに、猛烈な突風が襲った。これには帆とマストがみんな持って行かれそうな気がし、雲に追いつかれるたびに2ポイントリ-フのメインセ-ルだけ残し、観音開きにしているステ-スルを素早く下ろした。これは一分とかからぬ何のことはない仕事だった。ジブシ-ト(前帆を引くロープ)をゆるめハリヤ-ド(帆を上下するロープ)を離すと、ウィスカポ-ル(張り出し棒)は前方のインナーフォアステ-まで回転した後、バウパルピット(船首手すり)に設けた受けの上に落ちる。後はそこに行って固定用のゴムを一カ所引っかけるだけで済んだ。時折、猛烈なサ-フィングを始めるが、私の立っているキャビン入口の階段の下、そこの床板から、船底と水がぶつかる衝撃が足の裏に直に伝わってきた。この時にはどうなることかと胃の周りが熱くなり、何かしっかりしたものを両手で掴まずにはおれない。以前の経験では、サ-フィングを始めるとスピ-ドが増すので風の入射角が変わり、進路を風下へ回すように自動操舵は働いたが、今日はさらに風が強いので船の傾きがこれを押さえて直進し、ゆっくりと風上に船首を回して終わった。もちろんランニングからクォ-タ-リ-の範囲でのラフである。自分で舵を取れば、もっと長い距離をサ-フィングさせることができるかと思ったが、少しも成績が上がらずすぐやめた。波高は5~6mぐらいだろうか。やがてこの雄大積雲の大軍団も後ろになり、午後には西の方から高層雲に覆われてきた。そしてゆっくりと風はおさまり、ちょうどホ-ン岬の前ですっかり凪ぎとなった。青空は遠くに去り、ほんとうに陰気になってしまった。海水は墨のように真黒なので、手を入れて確かめずにはおられなかった。たぶん海底の岩石などが黒いのかも知れない。ホ-ン岬全体も黒々としているが、これも陰気な天気のせいばかりではないだろう。私は波も風もない静けさの中で、一休みをした。ほどよい長さのお茶の時が過ぎた後、日が傾くとともに微風が起こった。潮の流れが速いのか、船は思いのほか急速に岬を離れた。ホ-ン岬を回ってからは強い潮の流れを常に感じ、危険な海域であることを再識認した。しかしロスエスタドス島を回って大西洋に出るまで、波とうねりのほとんどない内海のような海面だった。潮の流れは2ノット以上、これによって実際の進路と船の針路との差は15度から30度の間になった。これは少しの油断もならないものである。また、夜にはこの地方特有の激しい風も吹いてきたが、こちらのほうは船の位置が広い海面であり問題は無かった。その風の吹き始まったとき、かなり近い位置を二つの大きな灯火を持った船が一隻、追い抜いていった。

(4)パタゴニア沖

パタゴニア沖の鯨

パタゴニア沖では嵐の内に数えるものは無かったが、しかしこれまでにない強風域であるとの感じを持った。この中には、5~6mの波をベアポ-ル(マストだけで風下に走る。)で走ったこともある。またクローズホールドの走りが激しすぎるときには、ストームジブを下ろし2段縮帆メインセールのみでやわらかく走らせた。こうすればコーヒーも食事も楽しめる。風が治まった静かな海面には、蚊、蛾、ブヨ、バッタ、その他名も知らぬ黒い虫、一度は真新しいドラム缶もあったが、それらが無数にそして一面に浮くことがあった。またあるときには、それらの虫が多数デッキで休んでいるということもあった。そのような日、霧が出て風が止まり海面が油を流したようになっているときには、アホうドリも海面に下りていた。ときおり彼らの中には、首を羽の中に入れて寝ているものもいた。

またここは、豊かな海でもあった。よく船首が作る波の中に小魚がはじかれるのを見ることがある。マンボ-とはぶつかりそうになり、かなり大きな鮫は素早く泳ぎ去った。オットセイと思われる黒っぽい海獣は、毎日のようにそして日に何回も見ることができた。波間から顔を出すこともあるし、また海面で休んでいるものは多い。仰向けになって手足を海面から高く持ち上げ、その手足で輪を作っている。そして船が大分ちかづいてからさっと潜る。ところであの格好は、体を流木ぐらいに見せてサメやシャチから身を守っているのか。またクジラの群れにも数回出合った。時には群れを横断しそうになり、自動操舵を外して避けたこともあった。あるときマッコウクジラのあの大きな黒い頭が水中から飛びだした。そして大きなしぶきをあげて水面に突っ込んだ。そして再び黒い大きな頭が飛びだし、左舷側をすれ違うように突進してきた。その迫力は機関車が泳いでくるとでもいったらいいのか。しかしこの迫力ある泳ぎは一度しか見せてくれなかった。ある日3~4頭がもみあい、その中の一頭が尾で海水を掻き集めるような動きを見せた。海面が盛り上がる中、一匹のカツオかサバぐらいの魚がバランスを崩して飛んだ。上空にはこれまでにない大変な数のアホウドリが飛んでいた。この群れは、マユグロアホウドリの種類と思う。まるで目の所がアイシャドウを入れているようになっている。彼らも、例によってトロ-リング用の擬似餌をついばんでは遊ぶ。そしてその中の一羽は、引き釣り用の縄を使って水上スキ-をしたのである。海面は相当荒れているのに実にうまい。両足をしっかり広げ、相当な距離を滑ることができた。彼だけは何回やっても成功するが、他のものは駆け足をするばかりで、そのうち転んでしまい成功するものはいなかった。確か鳥類も新脳を持っていたはずである。しかし彼らのおかげで、この海域では一匹の魚も釣ることができなかった。白帯海ツバメと思われる小鳥は、荒れた海面を自在に飛び、つま先をタッチさせるのが得意らしい。船の後方でいくらでも見せてくれる。餌を取っているようにも見えない。

後に、このパタゴニア沖は、世界でも最後の残された漁場と聞いた。

(5)ラプラタ河口沖

夕暮れ

夕刻、アルゼンチンのブエノスアイレスに向かうラプラタ河口の南東沖で決断を迫られていた。ここから先、どのようにラプラタ河口に近づいていくか。風はすでに22時間吹き続けている南よりの激しい強風で、昨夜から昼過ぎまではベアポ-ル(マストだけで走る)で北上し、現在は2ポイントリ-フのメインセ-ルとステ-スルで快走していた。午後から快晴となり、今は大きな満月も昇った。太陽による天測位置は、夕方までに3点求めていた。それによると、強い北上流があるのか針路よりはるかに北方へ流されている。北上するフォ-クランド海流が昨日からの強風で、さらに強められているのかも知れない。ラプラタ川の流れと、満月による潮流も影響しているだろう。いつもの入港態勢なら正午位置と夕方の星測で済ませたが、今回は念を入れ、星測できない場合に備え太陽によって船位を追っていたのである。

さて星測は3本のポジションラインが一点に集まり、極めて正確なものと思われた。同時に測った満月の一本のポジションラインは別のところを走った。星測による船位は太陽によるものとつながらず、まるで逆の方向へ流されたような位置にでた。お月さんは、太陽による船位とはきれいにつながらないまでも、さらに流されている方へ出た。この南風は少しずつ弱まっていることだし、このまま行けば北岸のウルグアイまで流され、大変な苦労をさせられるかも知れない。思い切って西に針路を取り、アルゼンチン側の南岸に接近したほうがいいだろうか。だが星を信じれば、現在の北西の針路でよい。西の針路は陸岸が迫り、帆走する海面はあまりない。陸地は山が無く、最初に見えるのは木か家であり、夜間には街が無ければ海岸線はほとんど見えないかも知れない。海底も平板で、測深儀で測っても海岸からの距離をはっきりさせることはできない。結局私は、一般には正しいはずの星を捨て、誤差の大きいといわれる月による船位を取った。つまり、まだ強いフォ-クランド海流の中にあって、北へ流され続けているということにしたのである。よって西に針路を取り、ここぞと思う推測位置で北西の針路に戻す。これは、結果的には南岸よりのほどよい位置を走っていることが、翌日確かめられた。星による船位を取った場合はどうだっただろうか。その時はラプラタ川の流れを考えて、針路は北よりに取る。これで南岸に異常接近するのは避けられるが、流れが逆の場合つまり北へ流れていた場合、河口中央部から沖にのびる、本船の入港用航路またはその沖にある広い浅瀬に到達するかも知れない。もちろんその浅瀬に灯火はある。しかし晴れた夜はごく近づかなければ見えないだろう。より安全に少しの間北西に針路を取り、それから北に向けるほうがさらに良いかも知れない。この針路を取った場合、翌朝何処にいるのか解からなくなる可能性がある。つまり、推測位置は広範囲を考えねばならなくなる。お月さんの船位をとった場合の予測の外れは、海岸に異常接近の危険があるが、ここに集中することができる。また満月による潮流は相当強かったと思われるが、潮汐についての知識は極めて限られたものだった。

後で考えると、私の決断は少し乱暴であり、高等な思考ではなかったように思う。フォ-クランド海流を考え、さらに星測によるラプラタ川からの流れ、強い潮汐流のどちらをも思考できるほうが高等であろう。お月さんによる位置も捨てる必要はなく、フォ-クランド海流を忘れるなという警報になる。ロスエスタドス島のすぐ近くでは、非常に強い流れを感じたが、数知れない遭難が解かるような気がする。あの2500m以上もある山を持つ島が、一休みしている間に水平線の陰に消えてしまい驚いたことがある。強い流れは誤差が大きくなりやすい。よってその誤差を、思考しやすいように一方向に集めておいたほうがいいかも知れない。そして、どちらの流れがあったとしても考えられる大掴みの推測位置を出し、その範囲を大きくしないようにしてその外縁が危険区域の外にあるように持っていく。これは方法論があるのではないだろうか。これは、様々な要素の一部を捨てたり、あるいは容易に決めつけたりしないために、さらには我々の感性的思考の限界を越えるために必要なものではないか。もし私がそのような方法を身に付けていれば、悠々とラプラタ川に入って行けたのである。

翌朝の星測では、3本のポジションラインによる三角形は25マイルもの大きなものになった。河口内部では大きな誤差を生む何かがあるのだろうか。昼前、陸地を現わすものを認めた。黒い木々と何か塔のようなものだった。それらは少しずつ長く連なっていった。すでに水の色はミルクコ-ヒ-のようになっていた。ラプラタ川と空の青、これはアルゼンチンの旗ではないか。午後になってから、鷲と思われる鳥が来て船を一周し、同じ森の方向へ戻っていった。ブエノスアイレスまではさらにもう一日、川を遡らなければならない。。夜になって再び横からの強風なって快走を始めたが、航路を示す浮き灯台の灯は弱く確認するのに手間取った。真夜中、使われなくなった無灯火の立標をかすめたとき、航路のわきで錨泊することに決めた。1メートルほどの波があった。投錨した位置からは、ブエノスアイレスの灯が見えていた。1986/02/12入港。


次は、アルゼンチンで です。

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