ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

インド洋へ

▼第一章 命空間を求めて
[2]自然と文化を訪ねる航海へ

12 インド洋へ

(1)成長

インド洋での航海は、5時間ほど船尾からロープを入れただけで、その他は概ね強風でも帆走可能な、安定した天候に恵まれた。南緯40度の航海が終り、オ-ストラリアの手前で北寄りに針路を取って南緯30度まで北上し、そこで大凪ぎに会うまでは記録的な速度で走った。この35日間のデイランの平均は124マイル(約230km)を越えた。これは平均で5ノットを越えるのであるから、相当の速さである。天気の変化に伴う凪ぎや微風を考えるとこの5ノットという数字は大変良い成績である。もちろんこれは天気次第で、弱すぎても強すぎても距離は伸びない。荒天の多かった北太平洋では、平均のデイランが80マイル台、南太平洋からパタゴニア沖では100マイル、その間のカリフォルニア沖を含むポリネシアまでの穏やかなコ-ス、そして転覆事故を起こした南大西洋ではともに90マイル台であった。日本からの順番で行くと80、90、100、90、124(インドネシアまでの全航程では117マイルになった。)と、スピ-ドが増している結果になっている。また、今回は一日の航走距離に202マイル(374km)という、これまでの最高記録が出た。これは平均で8.4ノットにもなる。ケ-プタウンを出帆して6日目の12月20日、海面は荒れていて風はほとんど真追って、アルゼンチンで作った菱形の小さな横帆を一枚上げ、後半では少し風が落ちたのでスト-ムジブセイルとステ-スルの、いわゆるツインステ-スルにした。2ポイントリ-フのメインセ-ル(半分の面積になる。)ではヘルムが強く出てしまい、このようにしたのである。ジブセ-ルは上げ下ろしが極めて簡単であり、初めからツインステ-スルを用意すべきであったように思う。非常に良く快走したと思った日より距離が出たのは、たぶん海流も特に強かったのだろうし、強風の吹続時間も長かったためだろうと思う。当然間違いではないかと考え、何度も天測による位置を確かめた。前日に走った分が入り込んでいる可能性がある。しかし問題となるような点は見つからなかった。速度ということでは、貿易風帯を西に走ったら大記録が出るだろうという感触を、ここを縦断する度に思ったのだが、もちろん実際のところはそうも行かないかも知れない。

さて平均速度の上昇を、自分の船乗りとしての成長に結びつけることは出来るだろうか。海の複雑な要素が、簡単に比較することを出来なくしている。荒天の多い地域は風の弱いことも多い。反対に、安定した風力2のところをジェノアジブで走れば相当な記録になる。しかし、それらを越えて人間的な要素だけが飛び抜けていれば、つまり初心者に過ぎた場合は目に見えて成果が上がるだろう。確かに自分なりの型が出来上がってきた。今航程では、嵐への対処の仕方はもう考える必要は無かった。小さなタイヤを付けたロープを船尾から80~100m流し、これに自動操舵を加えて真追手で逃げる。この時、すでに菱形の横帆は上がっているだろう。(この菱形の横帆の有効性は、十分に確かめたとはいい難い。無くても船尾への波の崩れは避けられたし、速度がどれだけ増したかもはっきりしない。)これで波がコックピットに崩れてくることは無いだろうし、二重の安全装置が働いていることになる。もしこれまでに無い状況に出会ったらどうするか。例えば進路と反対方向の風波の時はどうするか。これは一航程で一回か二回の嵐の話であり、逆戻りに流されることにしよう。リ-ショアで突然襲われたらどうするか。この時は総力戦で戦わねばならない。このためには、船をアホウドリやマグロのように研ぎ澄ましてしておかねばならない。このような場合、人間は疲れやすく、調子を落としていることも多いので、特に必要なことである。また各方向の風の強弱や、波の大小によって変化させる、帆の展開の仕方も決まってきた。これまで大分いじってきたが、最適なところの確信が持てなかったのである。風上に向かう上りでは、乗り心地の面から帆は追手に比べると小さめで、縮帆の最後は2ポイントリーフのメインセ-ル一枚になる。2ポイントリーフのメインセールは面積が半分になり、これはステースルとほぼ同じで、とても小さなものである。これにストームジブを加えると速度が出すぎて荒々しくなるので、ほとんどの場合ストームジブは使わない。追手では、観音開きにすれば相当安定した走りになるが、縮帆の最後はスト-ムジブセ-ルの一枚にする。もちろんベアポールがこの後に来る。縮帆は針路を変えずにしたが、帆がばたつかずに済むのでいつもこの方法を取った。またジェノアジブセ-ルとステ-スルは、面積が3倍も違う。この間を補う、フライングジブセ-ルがあればずっと豊かな帆走が出来たように思う。しかし仕事や装備が増えるので、直ちに望ましいとはいいにくい。ステ-スルがもう一枚あればツインステ-スルにも出来た。しかしメインセ-ルとステースルの二枚だけでも航海は出来るし、この簡単な帆装でも良かったかもしれない。とにかく私の場合は、お金を貯めて立派な装備にするより、やはり標準的なもので出帆したほうが正解だったと思う。

帆走の型が出来上がっていくとともに、生活の型も出来上がってきた。特に夜間の睡眠の取り方が決まった。夕日の中で夕食を取った後、まだすっかり暗くならないうちに、一段帆を小さくする。ジブセ-ルがジェノアの時にはステ-スルへ、ステ-スルの時にはメインセ-ルを1ポイントリ-フする。これは寝ぼけた状態でカッパまでを身に付けねばならない身にとっては、船の速度よりも利益が大きい。それに経験から、一日の航走距離(ディラン)に大した差の出ないことが解かった。そして夕食後はすぐに休み、一から二時間ごと、目が覚めたときに周りの様子を確かめる。そして午前0時からの4時間は上着も脱いで本格的に寝る。起きたらコ-ヒ-を入れ、海が白み始めたら帆を広げ、そして日の出を待つ。

また自動操舵の使い方もだいぶ高度になり、そしてそのやり方も決まってきた。1988/1月/1日、今航海19日目は南西の強風に2ポイントリ-フのメインセ-ルにステ-スルの観音開きで、数メ-トルの波をクォ-タ-リ-で下っていた。またこの波は風向と少しずれがあり、西よりの方向だった。私としてはここを、波に対して少し斜めになる東微南で走りたかった。目的地の方向と安全快適に走る方向とが一致したところである。それで一般的には船体中心線上を左右に動いているティラ-を、中心線を越えないよう右舷側だけで動くようにした。こうすると大きな角度(約30度)で素早く当て舵が出来るとともに舵が中央部までしか戻らないために、蛇行が押さえられる。当て舵が終わった後に、舵が中心線以上に戻らなくすることは、蛇行を無くす上では特に重要なようである。このとき、風向はワイルドジャイブをさせる際まで来るが、この後は自然に発生するヘルムに任せておけば良い。そしてこれが少し船を風上に回したところで、次の当て舵をすることになる。このようなとき、私のシステムでは伝達ロ-プに適当な遊びを作ることも重要であることが解かった。また波による風向の変化も味方した。これは蛇行を減らし、より安全な舵取りを可能にした。風は、波を越えるときに波頭のところで方向を変え、直角にひょいと乗り越える。船尾方向、波の前斜面を見ていると、突風の黒い影が真っ直ぐあるいはそれ以上に方向を変えて走ってくるのを見ることが出来る。これによって、波の前斜面そして波頭が後に迫ったときには、波に対して直角近くまで針路を修正して横波の危険を避けることができた。船が波頭をやり過ごすと再び針路を変え、波に対して少し斜めになった。しかしこの日の午後、左舷後方で特に大きな波が大量の水を逆落としにした。これには気を重くした。この快走はやめたくないし、あの波と衝突もしたくない。一切の見張りなしで帆走するには、スピ-ドは落ちるが真追手にして外さなければならない。夕方までこの状況なら、夜はそうすることにしよう。でも今の走り方であの波をかわせるかどうか、それも試したい。経験と理屈の上ではかわせる。もし成功したら、もっと大きな波でも試すことになるのだろうか。

ところで大型のアホウドリも、よく波による風乗りをする。波の前面に位置して、波とともに真っ直ぐ飛んでいく。またイルカも水中で波に乗るようだ。波の前斜面に逆さまになって、波とともに前進してくるのを見たことがある。波に体を持ち上げられたとき、波に乗るために体を小刻みに動かしていた。サーフィンのように波に対して斜めに走るのは見ていない。

また大型のアホウドリは、その体の大きさのせいかまるで誰かが操縦しているように見える。つまり翼の動きが良く見え、鳥としてはぎこちないような感じがある。近くに着水し、体のどこかが開いて、「やあ、こんにちは」と小さな人間みたいのが出てきてもおかしくない。そうしてみると、彼のほうではこっちをそう見ているのかも知れない。私は、そっちも素晴らしい出来だが、こっちも素晴らしい出来だろうと問いかけずにはおれなかった。またこの大型のアホウドリは、他のアホウドリと違いマグロのアラを争って奪い合うようなことは無かった。一定の距離を置き、めったなことでは近付かなかった。

さて型の完成は、南緯40度線の航海が終わり30度線まで北上したときの大凪ぎで、さらに確かめられた。この凪ぎを完全に受け入れることが出来たのである。特に北太平洋では、凪ぎには嵐の前の静けさということもあるので、緊張が解けずほとんど何もできなかった。寝ることもままならなかったのである。今はこの凪ぎが、好ましいものとして感じられた。ゆったりとうねる海面、初夏のような太陽、私はこの気持ちの良い汗ばみをを感じさせる空気の中、くつろいだ気分で多くの仕事を片づけた。艤装の点検、改装工作、船内の整理、作戦の点検、そして体もすっかり洗って気持ちも新たにし、特別料理もした。アルゼンチンで大好きになったパパフリタス、それはじゃが芋の千切りを油で揚げたものであるが、余りに美味しくて7個分ぜんぶ平らげた。

水面に何か動くものがあるので覗き込むと、アメンボのようなものがせわしなく動き回っている。(ミズグモ?)それにしてもこのような生物が、大洋の真中で生活しているとは知らなかった。さらにその下の真っ青な海中には、円形のものや串型のものなど、植物プランクトンと思われるものがゆっくりと流れていた。このインド洋では少し前に、海牛もデッキに上がった。その色は、緑灰青色といったうえに、貝の内側にあるような輝きも少し含んでいた。形はトカゲのようで、その手足に当たるところは、まるでヤツデの葉のようになっていた。後に図鑑で調べると、アオミノウミウシが最も似た種類だった。これは魚と違って、デッキの上でも長く生きていた。また海蛇が浮いていたこともあった。色は黄色が主なものだったようだし、またとぐろを巻いていたように見えた。これは大洋上で生活をする海蛇がいるということだろう。本当に、海は魚のものだけではない。一度は相当に大きな生き物と衝突したが、灰色の大きなヒレが後方でパタパタしているのを見ただけで、何かは解からなかった。

さて南アフリカの紅茶(たぶんルイボスティー?)はたいへん美味しく、コ-ヒ-党の私もこれには満足した。ティ-パックは大きな箱に裸のまま入っていて、特に密封されてもいなかった。これはス-パ-マ-ケットで買ったものだが、特別なものではないと思う。もちろん徹底的に探すようなことをしたわけではないが、日本に帰ってからは同じものを飲むことが出来なかった。

またキャベツと人参は、これまでになく新鮮さを保っていた。16日目でも張りがあった。しかし、こんなに丈夫とは思わなかったので、いつもと同じ量しか買ってこなかった。一方、玉ネギのほうは外皮が白いものしか見つからず、これは弱かった。一方、アルゼンチンで買った玉ネギは茶色の皮を三枚は被っており、転覆時に海水を被ったものをまだ持っていたが、これは少しも痛んでいる様子がない。

モヤシ製造器をパメラがプレゼントしてくれ、大豆で何回も試した。大きさはジャムを入れるビンぐらいで、蓋の部分が網になっている。水に濡らして逆さにし、暗いところに置いておくだけでよい。食べる前に太陽に当てれば、緑色も付いた。大豆のモヤシの味は格別だったが、けっこう痛むことも多かった。温度が暖かすぎたのだろうか。夏の南緯40度線では、最低18℃から最高20℃が平均的な気温だった。

1988/1月8日、26日目に海草を見、あのペンギンのような太っちょの鳥(海ガラスだろうか)も現れた。オットセイか何かも、船尾の後方に頭だけ見せた。どぼんと音がしたので、表に出てみた時である。この日の夕方には、一羽の羽ばたいて飛ぶ鳥が、東北東から西南西に向かって飛んでいった。北東方向には一日ちょっとで行ける距離に、セントポ-ルとアムステルダムの二つの無人島がある。国際的な保護地域にも指定されているらしい。今回も横目で眺めて通り過ぎてしまうことについて、考えてしまった。島から島へと航海していくにはそれなりのデザインがあり、今回の航海とは趣が違ってくる。私のシ-マンシップも島用のものが必要になる。良い入り江が無ければ錨泊が大変だろうし、島の風下側に回れば良いというものでもない。どうしても行きたいという強い要求が無い今回は、通り過ぎることにしよう。

ところでもしこの大洋の真中で位置を知る道具を無くし、さらに食料や水も無くなったところであの海草を発見した場合、経験上確かに近くに島があるのだから、ここに上陸しない手はない。ではそこに到達する何か良い方法はあるのだろうか。あの羽ばたく鳥の、前後どちらに島があるか解からない。太陽の出没時や星によって、現在地の当たりはつけられるかも知れない。また探し回ったときの位置の記録を付けられるかも知れない。しかしここから東西南北どちらに走るにせよ、どのような走り方をすれば、目的の島を見つけだすのに最善のコ-スになるだろうか。島にかける網の大きさは、どれくらいが適当だろうか。やはり二日ぐらいの距離が良いだろうか。島の標高が高ければ発見の可能性は高まり、見通しの良い天候ならばこの高さを利用しなければならない。しかしモヤが続けば、すぐ近くでも見えない。その時の様々な条件のもと、網の外枠を決めることが出来たとして、この内部はどのように走ったら、つまりどのような線を描いて走ったら確実に早く捕らえることが出来るだろうか。このような思考演習は貴重だと思う。なるべくたくさんの要素を入れ、複雑なものにしたほうがいいだろう。チ-ムで動く場合は、簡単な仕事でもやっておいた方が良い。我々は簡単なことで言い争いをする。簡単なことでもやっておけば、共有できる思考の基盤が少しずつ育ち、非常に複雑でしかも突発的な事態に対処する力が付くだろう。

オ-ストラリア大陸に一番近付いた日で、大陸の北西350マイル(650km)のところを北北東に走っていた日の朝、キャビンから顔を出したとき風に微かな匂いを感じた。わらのような匂いだった。午後になると、今度は南から北へと蝶のような小さな虫が飛んでいった。

この辺はすでに南東貿易風帯に入り、連日帆をいっぱいに広げて突進していた。大洋航海の醍醐味といったものを感じる。天気は晴れ、積雲が浮かび、海は穏やかで何の心配も要らなかった。私は航海を船に任せ、コリンが作ってくれた測深儀の鉛を船底から取り出し、細いロ-プに色の付いた短いロ-プを編み込んで印を入れ、これを結んだ。これで水深が即座に読める。すでに、ただ食べて寝てそして航海する、ただそれだけのことが何物にも替えがたいものであることを実感していた。社会の中で同じことは可能だろうか。私の答えは可である。それは、私の結論である生命活動そのことを文化にしえたら可能性がある。好きなことをしたり遊んでばかりいたら社会の秩序はどうなる、そして発展は。これは何も考えていない人の言葉である。秩序は与えられるものではなく自律的なものが望ましく、発展は物を作ることにのみ求められるのではない。生命にとってその対象はは非常に広範で未踏のものさえある。

それにしても貿易風帯は天国のようだ。そよ風が連日吹き続け、暖かでひとりでに警戒心が解ける。デイランは驚くほど伸びる。

(2)雲の城壁

貿易風帯を4日間で縦断し、再び風が柔らかくなった。そしてウィリ-ウィリ-と呼ばれる、熱帯性低気圧の生まれ育つところに通りかかった。しかし何のそれらしき兆候を見ることもなく、パイロットチャ-トに記録されたウィリ-ウィリ-の通過帯の下をくぐった。しかしウィリ-ウィリ-の子供のようにも思える、あるいは先日の大凪ぎに続くいわば第二の城壁ともいえるものに行き当たった。行く手には巨大な積雲が海面から直接立ち上がり、それが左右に広がって城壁のようになっていた。遠く視認したときから落雷があり、そこここで頻発していた。そしてついに直前まで来てしまった。どこをどのように通ろうか思い悩んでいるうちに、一時方向に小さなトンネルを見つけた。その穴の向こう側は明るい。このトンネル以外に向こう側の見えるところはなさそうだし、左右のどこまで行ったらこの雲の壁が無くなるか、見当も付かなかった。それで、このトンネルを通ることをすぐに決めた。トンネルのすぐ右側は最も激しく落雷している。雲も濃い灰色で、もうもうと煙が立ち込めている、そんなふうだった。城壁といったが、生物のようにも思えてくる。始めこの中から怪物が現れるのを想像したが、これが怪物そのものと思い直した。トンネルを通るにしても、風が弱いのでこちらの動きは鈍い。トンネルにかかってから少し寄って来られたら、一巻の終わりではないか。まず雲に巻かれて何も見えなくなる。次にすぐ真上から、続け様に何発も電気を見舞われる。恐ろしいことだ。本当はこんなところを通るべきではないのかも知れない。知らないから出来るのだろうか。しかし微風でゆっくりと通る間、相手は少しも動かなかった。そしていつものことだが、マストが引っかかると思ったトンネルの天井は、実際はずっと高かった。雲の下は風向が変わり易く、コックピットに張り付いていた。そして抜け切るころに、夕日がこの生物のような雲を鮮やかに染め始めた。海の激しくも美しい営み、その光景は何か我々の原始のころに思いを誘った。

トンネルを抜けて圏外に出たと思ったが、そうではなかった。真横で稲光がし、その雲が急にこっちに流れてきた。雄大積雲がたくさん浮いているのだが、それらの間の風がそれぞれの方向で吹いていて、うっかりすると針路が変わっている。風力は2~3ぐらいまで強まり、あっという間に雲に近付く。前後左右で稲光がする。雲の真下にだけは行きたくなかった。一晩中、落雷は止みそうになく、引き続き夜も警戒態勢を取った。

仮眠を取ったものの、やや疲労ぎみの朝を向かえた。あの巨大な城壁は、まだ後方すぐ近くにあった。その城壁に連なる雄大積雲の連峰を見ていたら、その純白の山の一部が崩れ始めた。そしてそれは大崩落になり、真っ直ぐ下に落ちていった。こんなに遠くから見ていても迫力があったのだから、相当大規模であったに違いない。もしあそこにいたら、どんなことになるのだろうか。飛行機なら何百メートル(あるいはもっと?)も落とされる。他の単独で浮いているものは、何かしら皆しぼんでしまったように見える。この辺の積雲や積乱雲の形は、柱のように背が高い。日中は急激に伸び夜は萎んでしまうのだろうか。

(3)鳥山

弱い風がさらに弱くなり、雲も形がだんだん小さくなって、静かなそして暑い海域に入っていった。外にいたければ、海水をかぶると2、3分はさわやかになれる。それより、太陽の直射を逃れて船内にいるのが一番よい。割りと楽で、果物や蜜豆の缶詰めがあれば天国に近い。この海域に入った日の午後3時ごろ、前方に鳥山を発見した。昨日はネッタイチョウの仲間がマストの上に来て、キィキィ何度も鳴くのでキャビンから顔を出してみた。その後さらに何度か鳴いて、まるで何かをいおうとしているように思えた。まさか知らせに来た訳でもあるまいが。しかし、そうでないともいえない。だがこのネッタイチョウは、私が鳥山に追いついたとき、ここにはいなかった。この鳥山には4種の鳥が集まっていたが、カツオドリの仲間は昨日も来てキャビンの中を覗き込むようにして飛んでいった。今日は目が会うと向こうへ行ったが、再び近付いて来たときに手を振ったら、ずっとこっちを見ていた。また昨日は、夕方にイルカの小さな群れも来たが、遊んでいく積もりはなく急いで行ってしまった。とくかく、客の多い日ではあった。

太陽

天気は晴、さざ波が一部に見えるだけでうねりもほとんどない。鳥山は余り動かなかった。風力1の風でどんどん近付いて行った。入域すると、後方で大きな魚が小魚を追ってガバガバ音を立てて現れた。私も一匹と思い、とりあえず千切れて原形を留めていない、そんな頼りない擬似餌の付いた縄を入れた。その瞬間、船尾のすぐ後で数匹のマグロがいっせいに食いついてきた。彼らは速度を上げ、興奮状態に見えた。私の漁はあっという間に終わってしまい、釣り上げたのは小型のキハダマグロだった。鳥山の中心部のある右舷側で、イワシぐらいの小魚が右そして左へと急旋回しながら水面に飛びだし、最後にはバランスを失って横っ飛びになった。すぐ後を追っていた小型のマグロは、それ以上の機敏な小回りを見せたが、バランスを失わなかった。船の右舷前方から、特大のトビウオが素晴らしい飛行を見せて飛んできた。しかし上空で待ち構えていたカツオドリの仲間がス-ッと下りてきて、後方からトビウオよりやや速い速度で距離を詰め、滑らかな動作で口にくわえた。静かな見事な漁だった。一方、灰色をした鳩ぐらいの大きさの鳥、たぶんアホウドリの仲間の漁は、あまり見栄えのいいものではなかった。水面に魚が浮かび波立つと、サッとそこに着水してバタバタやる。どうもあれは数センチの小物を探しているのではないかと思われる。一番高いところにいるグンカン鳥は、胴体が動くほど翼をバフバフやって下を見ているが、ついにこれといって漁をするところを見せなかった。私は早めの夕食を取ることにして、ご飯を炊き始めた。鉄火どんぶりにする積もりだ。彼らは日没まで一緒に移動し、それからゆっくりと離れていった。

(4)白嵐

風力1の風は三日ほど続いた。そしてそれも止まり、すっかり凪いでしまった。再び別な海域の入口に立ったのである。4時間後、柔らかな南からの風が吹き始め、それが少しずつ西寄りに変わっていった。この風に運ばれて、モヤがかった白い世界に入っていった。積雲とも層積雲ともつかぬものが、輪郭もはっきりさせないまま、やんわりとモヤの中に浮いている。もうすぐそこにジャワ島があり、その南岸にそって吹く強い西風が現れるはずだ。先人の教えに従い、目的地に対して風上位置を取れるよう、針路を西寄りの北西にした。それは現在吹いている風が後から横に回るので相対的に風速が高まり、微風でも帆がしっかりと風を受け膨らむようになるので、この点でも良かった。進むにしたがい、何でも無いように見えたこの目の前の雲が、何やら巨大な積雲の裾の部分であるらしく、その後方に控えている一部が認められた。しかし全貌は掴めない。何もかも白く、ぼんやりと霞んでいるのである。後で知ったのだが、これが白嵐といわれているものではないか。もちろん確かではない。ラプラタ川で見たパンペロのように、真黒い無気味な姿で現れるものとは、だいぶ趣が違う。風は夕方から力を増し、夜には雨交じりの西風が思いっきり吹いた。ただし、これは追手で帆走可能なものだった。夜明けには風力4ぐらいまで落ち、この朝のさわやかな空気の中に、雄大な山々を戴いたジャワ島がすぐそこに現れた。この3000mを越える山々の光景はこれまでに見たことの無いものであり、圧倒的な力を持ってそびえていた。

自分の天測には自信を持つべきである。目的地のベノアや隣の島の高さは200mから500mで、それは遠く海の方から見れば平地のようなものだった。それで私は、山を求めてはるかに高い方の山に針路を変えた。だが近付くにつれ、針路の変更が誤りであることが見えてきた。海から陸地の判断は難しい。よほどの特徴が無ければ、はっきりさせることが出来ない。夜明け前に灯台を見て、その灯質によって位置を確認するのが簡単だ。

島に近づくとものすごいゴミの海が現れた。大変な幅で川のように帯状になって流れている。日本でもこれほどのものは、まだ見たことが無い。ところで、こんなふうに世界中がゴミでいっぱいになったら、いったいどうなるのだろう。やはり馴れるのだろうか。余りの量に感心しながら、アジアに戻ってきたことをも確認した。

13 インドネシア

(1)文化について 6 日本の文化

1988/2月4日、バリ島の曲がりくねった水道を、素晴らしい順風に乗ってタッキングしながら入っていった。しかし、ここの入口は解かりにくく真っ直ぐに近づくことはできなかった。またタッキングで上って行く途中、一度乗り上げた。これには一番大きなジブセイルであるジェノアを広げて、砂泥のような海底から引き出した。そしてここまで来ると、ずっと沖の方から聞こえていた騒音は、なんと日本語であることが解かった。ホテルの前の海岸で、水上バイクやパラセ-ルを楽しんでいるのだが、マイクで右だ左だと切れ目なくがなり散らしている。これは紛れもなく日本の文化ではないかと感じた。嫌だけど、我々はこのような形で情報の伝達をしている。静かにうまくこなす良い道具、やり方を持っていないからだと思う。このような共通の道具が無いということは、もちろん私にとっても悩みの種である。複数でのセ-リングや仕事において、情報が理解されずあるいは行き違いになったとき、互いに理解しあうための道具として、互いに認めあった基礎的な文化といったものが見つからず、途方にくれどうしたものかと考えてしまうことがある。職場や家庭では、こんなに連続的に大声を出すことはないだろうが、似たようなことは常に起きているように思う。あるいはまた、伝達が困難なので避けてしまうこともあるだろう。前にも書いたように思うが、経営技術では突貫工事、戦争では白兵戦といった人海戦術が我々の得意な分野といわれている。私の実感でも、例えば多数で取りかかる仕事、あるいは流動性の激しい現場においても、いわゆるマネ-ジメントやチ-ムワ-クといったものを、今までこれといって見たことが無い。かえって否定するような雰囲気がある。これは、これとはまた別の既存のやり方でやっているからと考えることができる。だがそこには必ず大声や反目がある。これはやはりまずい。たぶんこの辺の共通の道具、文化が無ければ、これを補うために他の方面が強化される。そして、一応それで秩序が保たれ成果も上がる。しかし、反対に歪みも生まれ、これに誰もが苦しむことになるのだと思う。これを解決するのに、異文化からの借物でも限界がある。この問題は、文化の中でも非常に基礎的な、血肉に近い、日常的な、そして極めて独自性の高いものに感ずる。やはり、元々の日本の文化から、その発展した形で、開発されてくるのが望ましいと思う。

もう少しこのことを考えて見たい。例えば和船の造船技術は、誰もがやれるようなものではないといわれる。図面も無いに等しく言葉で説明もしがたい。どうも我々の世界では、それぞれの分野で、誰もがやれない熟練の必要な専門家になっていくのではないか。このことは、太平洋戦争中に日本がゼロ戦の出来を悪くしていったのに対し、アメリカではグラマンの精度を少しも落とさなかったということからも伺える。どちらも女性が作っていたと聞いた。つまり誰もがやれないこの専門家によって社会が秩序づけられ、全体が出来る。この世界を、誰もが使える共通の道具を主に形作るのではなく、それらの道具を身に付けた人間が主になって形作る。それらを理解しにくい伝えにくい形で人間の血肉にし、その人間が一つの文化の全体空間を作る。この専門家の中には、全体を秩序づけているその仕事にたずさわっている者も、もちろんいるということになる。船の事を専門家に任せたように、社会の事は彼らに任せる空気が自然と強くなるだろう。また、当然それぞれの専門家は他の分野に対して自信が無い。それほどでもない仕事を、やったことが無いということで尻込みすることは多い。日本人が皆出来ないやれないといい、その簡単な仕事を引き受ける者がいないので、外国から人を呼んだ話を日本で働いているヨ-ロッパ系の白人に聞いたことがある。実際、彼らの持つ文化のシステムと違うので、当然我々にはその能力を培う場は用意されていない。もちろん、このシステムそのものが悪く、いいところが無いといっているのではない。そのようなことは考えることができない。問題は、今そしてこれからも、これでいいのだろうかということである。誰もが出来ない名人芸を、誰もが出来るところまで引き上げる必要があるのではないか。そうでなければ、その名人芸が今のレベルで留まらざるを得ないのではないか。そしてもしこれを引き上げるのならば、それぞれの職業としての専門能力といったことではなく、一人の人間として持つべき専門能力、人間としての考えられる専門能力を身に付けることが必要ではないか。つまりこれが共通の道具である。これがあれば、右、左と大声を上げずとも、一本の指の動きで10の意味を伝えることも出来るだろう。この人間としての専門能力(一般的には文化の基礎的能力というのかも知れないが?)の高度化は、当然、さらにそれぞれの専門的な能力の高度化につながるものと思われる。

(2)文化について 7 インドネシアの文化

さて、ここインドネシアの文化もまた、これまでになく変わったものだった。港の人々は感じが良く、錨を入れたすぐとなりの船の青年は、私のために心からの歓迎をしてくれた。彼は学生で、この船に漁業の実習に来ていたのである。しかし、私の50日を越える長い航海後の休養に、この社会のシステムは全く関心が無かった。正確には貧乏人にはというべきか、お金が必要だったのである。これまでの国では私に替わって誰かが払っていたのだが、ここでは本人が払わなければならない、そうもいえる。私には、最初の三カ月の、滞在許可のための300ドルを払う余裕はすでに無く、一時滞在の10日間のみとなった。プレゼントの要求、何ヶ所にも行かなければならない煩雑な手続き、すぐ近くに体を休める快適なところがあり、村人は来るように進めるのに移動は不可、不便な上に太陽の直射をあびる所に投錨したままだった。海水は雨のためか薄茶色に濁り、しかも余りにも海蛇が多いので、大丈夫とはいっても泳ぐことさえ出来なかった。最初は知らずに船底掃除などをしようと海に入ったが、手の届く近くで黒いものがひっきりなしに浮いてくるので何かなと思っていた。

やはりオ-ストラリアではなく、こちらに来て良かったと思う。向こうに行っていたら、ヨットハ-バ-で快適に過ごすことになっていたに違いない。それにこの様なところでの、少しでも快適にする対策をもっと研究しておくことも必要だろう。しかしそれはそれとして、色々な文化のどんな方式にせよ、毛細血管や神経系の十分な発展が必要に思う。意地悪や冷たい仕打ちは、何も無理にする必要は無いのだし、やる気でやっているとも思えない。たぶんそれは一般的には出来ないのであり、その文化の能力や性能といった問題であるように思われる。いずれにせよ文化は、最終的にはそれぞれの生命にふさわしいものこそ求められているものと思う。

滞在は短時間であったが、あちこち見て回った。生気に満ちたここの自然には、強く引かれた。また朝もやの中、草や木の中で人々が群れ動くのは生気そのものを感ずる。またここは標高が高く(3142m)、しばらく登っていくととても涼しくなる。南緯8度にあり、熱帯サバナ気候に入るのだが、港に近い村の果物屋には、バナナやマンゴ-に交じって実に立派な大粒のリンゴが盛られている。一方、標高の低い所では刈り取られた田や途中まで育ったもの、そして苗の植えつけられたばかりのものなど、色々見ることが出来る。米は年中、好きなときに種を蒔くことが出来るのだろうか。もしそうなら、いつも新鮮な米が食べられる。品物の間を縫って歩くような市場は、たくさんの品物が天井のほうまで積まれていて、珍しく実に楽しいものに思えた。ここではコ-ヒ-の豆を進められて買った。しかしこれは失敗だったようだ。ヨットに帰ってフライパンで煎ったのだが、初めてのことでたいした味は出せなかった。村で売っている亀の串焼きはたいへん美味しく、安かったのでたくさん食べた。バナナの皮で包んだ餅菓子といったものも美味しかった。伝統的なガムラン音楽はなじめなかった。また有名な、木彫刻をしているところにも行ったが、長身というより長い人間にもなじめなかった。これは伝統的なものだろうか、それとも世界的な流行といったものによるのだろうか。だが建築は気に入った。大空に伸びていく屋根の線は、私の中にあるものと通じている。ここでは西洋的な個人主義は、悪魔の教えと考えられていると本で読んだが、これも実際のことは何も伺い知ることは出来なかった。

出帆の日はすぐ来た。追い出されるような感じもするが、再び来たいと思う。インドネシアには、数え切れないほどの島々があるし、その周囲にはたくさんの国がある。全部見て回りたい。出帆日、何ヶ所も走り回って出港手続きをした。最後にちょっとしたプレゼントの要求があった。私には少しなじめないものだが、心を入れ替えて、こちらから進んでやるべきかもしれない。この辺の配慮がもともと私は苦手だ。文化としては我々の文化と近い関係のように思える。手続きが煩雑というか形式的というか、そんなことも似ている。一方、入港したときからいろいろ心配してくれた実習性が、海に飛び込んで泳いできた。彼の友人の分も入っているといって持ってきた袋には、インスタントラ-メン、コンデンスミルクの缶が入っていた。やっぱり私も、プレゼントされるのはうれしい。

14 モルッカ海峡から太平洋へ

(1)インドネシアの海

1988/2月15日の午前10時ごろ、陸寄りの追い風に乗って出帆した。この季節は雨季にあたるので、一時は100隻ばかりいたというヨットは、一隻も残っていなかった。しかし連日風力4~5の風が吹いていて、私にはそれほど悪くもないように思えた。また雨も多くはなかった。しかしこの風も、フロレス海に入るとすっかり止んでしまった。そしてこの平らな海は、太平洋に出るまで続いた。暑さもこれまでになく高まり、ジュ-スと果物は太平洋に出る以前に全部消費した。しかし、キャビンの中にいて太陽光線に当たらなければ、そう大変なこともない。デッキに日陰を作れば、弱くても風があるし申し分ないだろう。

風力1でも弱い方になると、自動操舵はほとんど利かなくなる。それでウインドベ-ンの上に鳥の羽根を三枚付けてみた。しかし決定的な改良にはならなかった。この様なとき、船そのものに保針性があるということは実にありがたい。比較的保針の難しい追手のときでも、キャビンでの寝る位置を決め、船の傾きを一定にしておけば真っ直ぐ走った。こんな風でも、デイランが最低40マイル(74km)以上でるから驚く。まあそれでも、スピ-ドになおすと平均1.7ノット(時速3km)であるから、やはりそれだけの距離は走るのだろう。

ここの海では、漁や輸送にも帆を使っていた。明らかにヨットの帆とは違う、大きめで広い帆を時々遠くに見ることが出来る。風のあったバリ島近くでは、美術品でもあるアウトリガ-(浮力船体を張り出し棒を使って装備している船)の小さな船が、それぞれ一人ずつ乗って引き釣りをしていた。輸送用のダウ船と思われる方は、遠くに帆影をじっとさせていた。

この海域の航海は、これまでにない要素が入った。強い潮流は何か不規則に流れており、その上に多数の島を縫って行かねばならない。中には非常に低い島もあり、これは通常より気の入った見張りを欠かせなかった。その島は目の前で現れたが、お茶を沸かしに下に降りている間にも座礁してしまうような近さだった。またフロレス海では稲光がしょっちゅう見られた。バンダ海に入ったあたりでは、波高50cmほどの波の帯に何度か出くわした。帯の広いのは1kmほどもあったが、他のものはずっと狭いものであった。北から南へ進んでいったようにも見えたし、その場で起きているのかも知れない。潮の流れによるものとしたら、きれいに出来すぎていると思う。またこの海に入ってから、朝夕の星による船位と、正中緯度に30マイルほどのずれが出た。例えば、二日間の両者のそれぞれを結ぶと、二本の平行線が出来た。島のすぐ側にいる場合は確かめられるのだが、正しいと思えたり怪しくなったりで、ついに真相は解からなかった。そういえばラプラタ川では、河口に入ってからの天測位置が、朝の星測では25マイルの大三角形になり、太陽による位置はさらに大きくといったことがあった。

さて漁は申し分のないものだった。この海は魚であふれているようで、鳥山も良く見ることができ、シイラ、マグロ、それに名前の解からない長い魚が釣れた。

(2)フィリピン沖

出帆して20日目、完全に太平洋に出たことを確認した。外洋に出ることは、陸上の一般常識とは違って、ほっと一息つくときである。外洋は危険な所ではなく、座礁の心配の無い安全な所なのである。

この日の午後二時ごろ、騒々しい物音とともに白いどちらかというと大型の部類に入る鳥が舞い降りてきた。そしてコックピットコ-ミングにとまった。私を恐れる様子もない。疲れていてどうしようもなかったのかも知れない。マブタが上がってきてしようがないのである。マブタは下がるのではなく、上がるのである。しばらく羽繕いをすると、首を後に倒して寝てしまった。頭の後の羽が少し抜けており、どこか子供のようにも見える。船の揺れに体を合わせ、落ちる様子もない。一度タッキングをしたが、ちょっと頭を持ち上げただけで再び寝てしまった。翌朝、8時近くまでたっぷりと寝たこの鳥は、南西つまり私が来た方角へ飛び去った。だが飛び去りがたいように、船を一周してはメインシ-トに止まり、また回っては止まり、三回ほど回ってから去っていった。

またこの日は、弱い光の北極星を見た。北緯4度半ぐらいの所である。

ここから、スコ-ルの多い、風の極めて不安定な所を通った後、素晴らしい天気と東寄りの風の吹くところに入った。フィリピンの東、北東貿易風帯の西の端だ。ここにはカツオがたくさんいて、毎日好きな時間に釣れた。船の前方には数匹が横一列の隊型を取り、獲物を見つけると素早く飛んでいき、そして戻るのも素早かった。上から見ていると、胸ビレをナイフのように出したり引っ込めたり、常にやっている。いつも左右の両方を出すが、あれは体の前後、あるいは上下、それとも左右のいずれの制御をしているのだろうか。

この海域は、本船の他に白く塗った漁船でにぎやかになってきた。北上する方向からすると、台湾の船だろうか、それとも韓国や日本か。ゴミのほうもにぎやかで、30分置きに発泡スチロ-ルを見ることができた。また冬から春の台風は、この辺を通過するのであるが、その兆しは少しも無かった。

(3)帰港

この好天も、台湾と同緯度まで達したあたりで終わった。前方には稲光の絶えない雄大積雲の峰々が現われ、一旦風が弱くなった所を走った後、真夜中その下に入った。そしてその後ずっと、青空を見ることは無くなった。その間、北方を低気圧が通った。風は東から始まって南から西と時計回りに変化していき、北東の風と雨の1988年3月26日の早朝、室戸岬が灰色に霞んで浮かび上がってきた。見通しは4~5マイルか、あるいはもう少しあるか。その後霧が出て陸地は見えなくなり、本船が現れては消えていった。海面は今までになく悪くなり、近くに岩礁でもあるのではないかと思うほど逆巻いた。おもてのデッキで、こんなにしっかりライフライン(船を取り巻く手摺に当たるもので、ビニ-ル引きのワイヤ-製)を握るのは初めてのことだった。ここまでの船位は、薄雲を通してほんの一瞬見える太陽を捕らえるなどして出した。また昨夜の9時14分からは、室戸岬の灯を見ることもできた。

霧が晴れて見る景色は、雲(たぶん層積雲)が低く陸地を覆い隠し、全てが灰色の何とも陰気極まるものだった。特に北方の紀伊水道付近は、ほとんど海面に降りている感じで、身動きの取れないような濃い雲(これは霧だったのかも知れない。)の中に直接入り込んで行くように思えた。夜にかけて、とてもその中に入っていく気にもなれず、しかもいつ好天になるのか見当もつかなかったので、近くの日和佐港に入ることにした。夕方から北寄りの強風になり、夜は沖で流した。そして夜明けを待って港に近づき、弱い風雨の中、港内に入ったところで立ち往生した。そして定置網から戻る船に引かれて港の奥深いところにもやいを取った。

世話になった人と組織

(失った手帳もあり、すべての人を乗せることはできませんでした。)
長谷川正樹、長谷川正子、早坂忠雄、高橋雅文、我妻幸一、我妻千恵、佐藤正美、此村善明、桜井正、森田好幸、森庄助、 桜井俊一、綿晋、龍谷一彦、滝沢寿子、滝沢勝城、鈴木邦雄、佐藤照雄、佐藤養吉、桜井久吉、桜井紀美子、佐藤忠昭、小松幸一、黒須敏夫、菊池毅、菅沢義行、小野寺篤、大村幸一、関俊昭、 小野政男、 大槻元吉、遠藤博、遠藤要、 一宮喜愛、石井喜一、高橋茂、半場良一、半場みゆき、添田進、小畑貴代、加藤正彦、小西敏巳、八谷邦彦、佐東行雄、澤秀治郎、杉浦真也、原田善郎、安原壮吾、山城正幸、奥土孝之、青木洋、末広完二、田山雅彦、谷口次郎、 高木一臣、田上二丸、徳弘忠司、西田成博、尾崎晃平、樋口慶二、福田秀治郎、時田章男、西野一也、松本重樹、中井光男、松橋久一郎、松田昭教、袋谷一郎、寺口彰、上田孝、内田幸夫、家村憲司、家村千鶴、石井正徳、池川富雄、鶴背英司、内山良一、永井洋昭、竹田素啓、石塚義孝、池永薫、桜井哲郎、小西敏美巳、中辻初男、久保勝義、和田隆臣、山口羌一、坂井勤之助、河田嗣男、前田幸一、山本清継、向井達雄、織田早興、藤井司朗、浦誠二、杉山信義、多田茄介、浦、 堺克也、梅谷亮介、木下肇、清水健次、西王地敏介、川端市郎、久保忠義、井上弘、赤沢晴美、 土谷孝子、高橋英夫、仲井光男、竹内一博、大森出、八木宏、山城啓介、道沢康裕、高橋徹、米田至、山本恒嗣、鈴木寛行、大儀明、遠藤正男、片岡澄子、片岡晃、守誠、畑山繁夫、鍋島実、平田幸男、加藤尚巳、池田保、谷口亮一、福原昌二、西村重吉、丸鳩勝彦、丸鳩真知子、沢田輝男、松林繁美、福原俊昭、橋浦仁、新谷敬一、永山昭二、明楽富雄、大城宜彦、大城真喜、伊藤(宝洋丸)、オズヨットクラブ、泉大津ヨットクラブ、ロイヤル石津ヨットクラブ、 カメラのアサヒ、 ニコン、高橋紙器、セイル、マキタ電気製作所営業企画課、ソ-ラ-ハ-ト、昭和石油開発部、ハイランド電子工業、泉大津造船所、ヤマハ肥後橋店、ブエノスアイレス語学センタ-

Mike & Lindy=Knerr,Mark=Karuza, Pat=Allbin,Bob=Stafford,Gene=Wright,Chuck=Rhodes,Peter & Cricket=Evans,Dick & Joy=Catto,Jerry & Shirley=Clark,John=Frcdrikson,Ron=Upp,John=Yang,Jerry=Maicman,Maurice=Frye,Ron=Buck,Tom=Kunich,Eugene=Rick,Dick & Janet=Rau,Ted=Niiya,Ernest & Reiko=Niiya,Akaji & Eiko=Hirano,Leon=Aksionczyk,Michal & Maria=Aksionczyk,Mieko=Moulton,Mr & Mrs=K=Kuwada,
Dolores=Rylee,Julia=Nagamoto,Jyati=Shah,Peggy=William,Paul=Moore,Mr & Mrs=R=W=Morrs,Sheiley=Cummins,Kiyoko=Genereux,Ann=B=Diament,Marty=Ishihara,Gooding=Georges,Parker=Charley,Dominique =Devaux、Reiatua=Rupe,Ivan=Ducos,Ave & Alain,Seiko & Michel=Ventre, Bernard=Moitessier,Marcos=Sastre,Ruben=Verdugo,Victor=Centeno,Edgardo=A=Dell'=Elicine,Julia & Mariano=Segot,Alberto=Agostenelli,Gerardo=Favelukes,Pablo=Jorge=Arana,Paul=E=Ramos,Miguel=Buforn,Enriqiue=O=Galvan,A=J=Ellis,Gerhard=Paul,Stan=Pege,Jack=Hecto,Sinki=Osiro,Juan=Carlos=Honda,Maria=A=Cappelli,Yasuko=Mio,Mari=Miyagi,Silvia= Ashiya,Peter & Susan=Cosmann,Caxton=Mvokontshana,Colin & Pamela=S.R.Syndercombe & Elizabeth & Virginia,Raul=E.Ramos,
SanFrancisco Y.C. Oakland Y.C. Aeolian Y.C. Argentina Y.C. Elma Navegacion, Panathlon Culb Bs.As, Royal Cape Y.C.

1995 3月 20日
沖縄
佐藤 正志
(沖縄の、ほとんど誰もいない船も一隻だけの小さな港で、航海日誌やその他の記録、記憶を元にこれをまとめた。)



次は、 ▼第二章 統合体段階の文化から、空間段階の文化へ
[1] 創造性の世界 1993 です。

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