ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

アルゼンチンで

▼第一章 命空間を求めて
[2]自然と文化を訪ねる航海へ

アルゼンチンで

アルゼンチンには感謝しなければならない。一年半もの長い滞在になったのだが、これを温かく許してくれた。ちょうど時間の必要な時でもあったし、本当にありがたかった。また一カ所は長逗留するという願いの一つもかなえられた。

(1)文化について4

港から街並を見ても、これは別世界つまり違う文化の中に入っていくのだなということがわかる。色使いも形も違うし、もちろん内部構造も違うだろう。その中に住む人々は思考が違い、行動様式も違う。社会も別なシステムで動いているだろう。これはいったいこの我々の生きる世界の、何を意味しているのだろうか。違う文化があるということは、個人のレベルでも同じことのようである。つまり一つの文化の中においては、その中に住む各個人もまたそれぞれ違う文化を持っているように見える。同じ職業であってもそのやり方が人によって違い、更には生き方のところまで違う。つまりこのことは、同じであるということと共に、違うこと自体もまたこの世界の基本であることを現わしているのではないか。ではこの違うということに対して、文化としてはどんなことを解決策として用意しているだろうか。つまりどのようにこれを認め、また広く実現しているのだろうか。まず、同じものが違うものを支えていると考える事ができる。同じ言葉、制度、方法、価値、それら共通の土俵によって違うものを認め活かしている。多数の異文化間には、この自然がまず共通の土俵であると考えられる。同じように、各個人には自然の生物としての共通の土俵がある。また様々な物質には共通の元素とかがあり、更に共通の原理で様々なデザインがされているということがある。動物においても、例えばアリとゾウの体の設計は共通の原理の上に立っていると聞いたことがある。それにこの自然の歴史には、より高度な土俵を作りながら、違ったもの(数え切れないほど多種多様な生物)を生み出してきたということがあるのではないか。つまり人間のような高等生物は、生物界の長い労苦による相当なレベルになって始めて出現が可能になったのではないか。もしそうならば、違う文化というのは自然が豊かに高度になればなるほど違うものを生み出すという、分化の流れの上に乗っているゆえのことではないか。つまり違うということに対する解決策は、この自然と同等に高度な普遍性をもった同じもの、それが文化に求められているのではいか。山を見ていると、たくさんの種類の木々がその山を覆っているのを見ることができる。それらは大変うまく混じり合っているようで感心する。我々の文化はここまでの能力があるだろうか。違うことの解決、それは自由とか民主といったものと大変密接に関係していると思うのであるが、それは同じものの高度化、共通の土俵の高度化という問題を解決することによって得られるのではないか。つまり高度化によって、より広範囲より多様な異質のものの創造、あるいは認識の可能性がでるのではないか。

さてニンジンはニンジン、ダイコンはダイコンとして認めるとき、同じものと違うものを同時に認めている。つまり同じことと違うことは一つのことということができ、同じものを求めるときには違うものも認めているのである。だから違いを認められないときの同じものは、非常に不安定な心情的なものになる。また同じものを求めない違うものも似たようなものである。また違いを認めるときは相対的になるが、認められないときにはどうしても絶対的なものに傾く。よって文化の能力が高度になればなるほど、このどちらにも傾かず、互いに補い創造的な関係になると考えられる。しかし我々は、赤くて小さい変わったダイコンあるいは色の無い水脹れの変わったニンジンといった評価を、容易にしてしまう。例えば、理想を追い求めるといったとき、それぞれの違いといったことを捉えなければ、この落とし穴に簡単にはまってしまう。このことから考えるに、もしかしたら我々の文化は、この違ったものと同じものを捉える能力が思ったより低いレベルにあるのではないだろうか。また文化というときには、違いを尊重する気持ちだけでなく、ニンジンをニンジンとして捉える方法が必要であり、さらにその方法で動く社会システムが必要である。そうでなければ容易にその気持ちを見失う。なぜならば色眼鏡を外すといったことは、ダイコンをダイコンと見る方法が無ければ簡単な事ではないと考えられる。この色眼鏡というものは、非常にしっかりしたもの揺るぎないもののように思える。もちろん揺らいでも困るし、危険がともなうだろう。

同じものと違うもの、そのどちらをも認めなければ、どちらも危ういものになるように思う。

さて、ここアルゼンチンも我々の文化とは大変に違っていた。数をかぞえるときには、いったん握った指を一本づつ開いていく。つり銭は小銭から返してくれるのだが、これは我々が引き算をするのと違い足し算をしているからだという。例えば、客が千円払って555円の買物をした場合、つり銭の小銭を返しながら560円、570円と足していき千円とするのである。我々の場合は引き算で答えを出してからにするので、どうしても大きいものから返すことになる。この反対さかげんは味覚にもあるのかどうか、パンは皮を食べ、中の白く柔らかいところは犬にやるのを幾度となく見た。実際に食べてみると、彼らがいうように確かに皮は美味しい。しかしこれは、私がチ-ズも豆腐も固い耳のところが好きだということがあるので、あまり参考にはならないかも知れない。しかし、パンの国はパンの美味しさを知っているということはあるだろう。煎餅のような固焼きのパンは、素材だけの味といったものだったが大変美味しかった。さて鉄道の駅では改札が無く、乗ってからになる。交通信号は赤でもどんどん渡る。見ていると、車のほうは人間を蹴散らすような真似はせず、スピ-ドを落とした。つまり、車は青で渡り人間のほうはいつでも渡るのであるが、それは車どうしでは危険で自由がきかないが、人間のほうは小回りが利く上に危害を加えることがないところから来ているように思われる。確かに人間と馬車ぐらいのときには、信号は無かったと思う。気をつけ、遠慮すべきはいつでも車の方であるようだ。あるとき、貨物船のキャプテンをしているドイツ系の人から、二家族での週末パ-ティに招待された。そのとき、女性軍の頭領となった彼の奥さんと、男性軍の彼の友人が激しい討論をした。もちろんそれは何の心配もない雰囲気のものであったが、私は女性軍の奮戦ぶりにすっかり感心した。またこのキャプテンには二十歳少し前の二人の娘がいたのだが、彼の家には夕食などでよく招待してくれた。これも日本では考えられないだろう。男同士でも激論が交わされるのに同席した。これは傍にいるのがつらかった。我々の世界なら、これはケンカに取られるだろう。このときは、私の入港以来の友人ル-ベンが、中古の船外機の品定めに来たのである。結構長い時間やりあったが、終われば双方が笑顔になり、穏やかに話しもする。いったいどんな中身だったのだろうか。

アルゼンチンは、日本人からするととんでもない世界に写るらしい。確かに、警察の評判はいたって悪く、それに郵便はいつも開封されて配達されて来た。小包の場合は大分問題が出るらしい。約束も平気で破るらしいが、これはついては悪気が無いようだ。約束の言葉の後には、必ず神の思し召しがあればという言葉が付いているのだという。しかしわが友ル-ベンは一度も約束を破ったことは無かったし、このことについては嫌ってもいた。また物がそこに置いてあれば、取らないほうがどうかしているらしい。私は大した被害を受けることもなく、また受けるようなものを持っていなかったこともあって、その反面の居心地の良さを受け取った。

確かにここは、我々が見習うべきようなものもたくさん持っていたのである。例えば、バスは個人経営の運転手が皆かなり飛ばすのだが、老人や赤ん坊を抱えた婦人などが乗ってくるとすぐに誰かが席を立ち、私が見た限りそれは100%で確保された。電車での無賃乗車は、車掌が来たらドア-のところへ行き、次の駅で降りればそれで良いらしい。私も何回かそれらしいところを見たが、車掌はとがめたりしないようであった。またここはセ-リングの盛んなところで、土日にはラプラタ川に帆の花が咲く。ヴィト・ドマス(Vito Dumas1942~3 31フィートケッチでほえる40度を世界一周。保存されている船を見に行ったがたくさんの人が訪れていた。)もいるし、セ-リングスポ-ツは今も世界的に活躍している。しかし一方では、木造の古いヨットもたくさん現役で活躍している。ヨットクラブの工場にはFRPの船とともに、それら古船が修理されているのを見ることができる。外板が張り替えられ、船首材の悪い部分が切り取られて、そこに新しい部材が入れられるのを見た。これはアメリカでも同じような傾向があったようで、木造の船は捨てられていなかった。ここには、何か私に安らぎを与えるものが漂っていた。もちろんこの国も天国でないことは誰の目にも明らかなことである。私の関心の的は、人間が生きるのに必要な要素であり、それが知りたいのである。行き過ぎや偏りは、苦しみや弱点となる。そういえば日本でも、何ともいえないほど感じの良い所があった。そしてそこは、聖でも俗でもないといったところであった。しかしその感じの良いところも、結局留まるわけにはいかないのが人間のようでもある。文化は、全ての要素を備え、しかもその中を自由に往来できなければならない。文化は、生命活動にこそふさわしいものが必要とされているのではないか。

さて、結局は違いを通して自分を知りたいのであり、それは自分の所属する文化を知りたいのである。それは最初の問題点、違いをそのまま活かすための土俵の高度化、さらには私のこの航海計画を生み出したところの根本的な課題、自然とこれに対立するような文化があるのはなぜか、それらに対する解決策、打つ手を知りたいからである。我々の文化もまた一つの違う文化なら、その違いにあった打つ手があるはずと思う。牛には牛の、羊には羊の生き方があり、その世界があると思う。

ここでは時に非常に接近した距離に立ち、相手の目をじっと見て話すことがある。、我々には異常接近であり、戸惑ってしまう。本当に大事な約束などはこうやってやるのだろうか。女性が愛の真意を確かめるときにも、瞳の奥深くを見つめるようだ。またこの異常接近に関連がありそうなのだが、我々には無い大変違ったものを見た。それはあるヨットクラブと、また別のヨットクラブのレストランでの二回観察することができた。私が知らない人間で、しかも警戒に値する理由(私自身が何らかの電磁波を出していたのかも知れない。確かにそういわれたこともある。)があったからと思われたが、そのときそこにいる人々はみな各自の鎧の奥深く隠れてしまった。顔から表情といえるものが消え、目はカ-テンを閉めたように焦点が無くなり、体を真っ直ぐにして正面を向き、そして全員が身動き一つしなくなった。周りの空気はピ-ンと張りつめ、まるで高周波の電磁波?が張り廻らされたように、音もなく小さく震えているように感じた。彼らはこの高周波によって細大漏らさずどんな情報でも見逃すまいとし、そして私が何者で何をしようとしているのか、どう対処したらよいのか判断しようとしていると思えた。

人間は自分の身体を仮面や鎧、あるいは城壁にし、さらには高度な情報の受発信機、それは大変高度で多機能なものと思われるが、それらの能力を持っている。つまり文化によってそれらをそれぞれの形、それぞれの方向に磨き上げているものと思われる。それではいったい私自身は、日本文化の中でどんなものを身につけて来たのだろうか。それに、どうしても身につけねばならないものなら、それは仮面ではなく確かに私自身である。それは本当の顔であり姿であろう。そういえば私の航海は、私自身の本当の顔ほんとうの姿を捜しに来たのではあった。同じものでも自分を捕えるものなら仮面、一つの能力なら本当の顔といえるのだろうか。仮面が肉になり、本当の顔を見失うような不思議なことが起きるのは、この文化のあり方に何か問題があり、さらには文化というものが何かということを知らないことから来ているのではないか。日常的な生活に深く関わり、しかも自ら内面化し、よって逃れることも出来ない、この文化とはいったい何だろうか。

さてもう少し続けたい。日本では出来ることでもできませんというが、ここではほんの少ししか出来なくてもできますというらしい。これで、日系人の経営者は頭を悩ませているようだ。例えば日本では、多くの人が英語は出来ませんという。しかし我々の実力ならここでは全ての人ができますということができる。数も数えることが出来るし、名前やちょっとしたことなら私にもいえる。これに関係していると思うが、日系人は学校の成績が非常に優秀であるにもかかわらず、大きな仕事はあまりしないらしい。つまり能力があるのだから、いろんな分野に勇気をもって挑戦して欲しいと政府の高官がいったと、日系の新聞で読んだ。しかしこれには、文化から来る個人の性格もあると思うがバックアップということにも関係しているように思う。これについてはNHK取材班南米編の本に、国レベルの移民政策の違いについての記事がある。スペインやイタリアの植民政策と、棄民政策の違いのように記憶している。つまり、日系人は力を蓄えるのに今でも苦労しているのかも知れない。

またここでは、人生は楽しむためにあると考えるらしい。確かに、バカンスはもちろん取るのであるが、日々の暮らしを見てもそれらしいことはうかがえる。夜遅く、レストランでは満席になった客が大いに楽しんでいるのを見ることができる。ここのレストランは、午後9時ではまだ準備中のようであった。そういえば、アメリカでは、人生は愛するためにあると考えるらしい。確かにそのようで、カップルで動いているように感じた。もちろん、もっと広い意味での愛を捕えているのだろう。(キリスト教では神の愛から人間の愛に移って来た歴史があると後で聞いた。)それではいったい、我々の文化においては、人生は何のためにあるといっているのだろうか。子供や家族のためか、それとも会社のためか、少し前ならお国のためだったろうか。まあよく解からないが、自分というものから離れていることは確かなようだ。全体主義とも違うのだろうが、自分のためではパワ-が出ない精神構造になっているのではないか。もちろん欲も我もある、しかし表だっては誰かのためとしておかなくてはならない。それに無心とか、無我とか、そんなものが尊ばれている。たぶん、我々の精神構造にはこれが必要なのかも知れない。これらと関係ありそうなのだが、道を求めることも盛んで割と新しいスポ-ツでも道をつけて呼ぶことがある。

さて無心が求められているということは、逆にいうと我々の有心は、それほど発達させられてはいないと考えることができるのではないか。つまり、十分に信頼に足るほどの有心は持っていない。そういえば、我々の持つ感性的思考の限界を本で読んだことがある。またある本では、たぶん経営技術の通信講座の教科書だったと思うが、我々には経営技術として突貫工事といったものしか見るべきものがないとあった。まあそれでも、成績優秀のものが人海戦術をやれば、かなりの成績は上げられるだろう。だが有心の発達した世界での高度な経営技術は、我々に多大な利益を与えている。無心からこのようなものを生み出すことはできないだろうか。学習は得意だが創造は不得意なのか。私にはそう思えないが、一般論として無を形にするのは大変難しいような気がする。それに無心を求める我々は、これを自然の生物としての段階で止めているのではないだろうか。有心ならいざ知らず、当たり前といえばそうである。しかしせっかく持っている大脳を、あたかもなるべく使わないようにしているとも受け取れる。もちろん、いわゆる無心というからには、高度な脳あるいは心の働きであり立派な文化ということもできる。だから私の疑問は、このような立派な無心の文化があってもさらにこの先があるはずであり、それが求められているのではないかということになる。さてこのようなことから考えると、我々の文化は最初から、無心で代表されるところのその方向に進むべき文化として出発したのではないだろうかと思う。確かにこの行き方は、これまで見てきたような限界がある。現実に必要とされる、十分に大きな広さでこの世界を捉え切れないでいるようだし、自発的先発的なものを要求される変化にも弱いといわれている。十分に時間が無いときに、特に弱いといっていいかも知れない。しかしこの辺は、我々には柔軟性とか包容力があり、十分にその力(無心の先を開くこと)は持っているという見方もあると思われる。まあそれで、ここのところは、学習と創造の違いといった内容の異なる問題があり、また視点の違いということでいったん済ませておきたい。

ところで無心のところを狙っているということは、考えてみると前に取り上げた同じもの高度化、共通の土俵の高度化に深く関連しているのではないだろうか。最も高度化した、文化としての共通の土俵といったものではないが、この世界の本質的なものでの共通の土俵を捉えているのではないか。そしてそれは、何かの要素ではなく、何もかもを含んで動くいわゆる空間というものではないか。そして現在、能力が小さく見えるところがあるのは、それが極めて複雑であり、十分に開発されないでいるからではないか。またその目差すものの特性から来る結果として、我々の同じものとしての共通の土俵は、ニンジンやダイコンにならないことを差し当たっての方法としている。またそれは、極めて小さな空間を目標としたといえる。これに合わせて、母性的なそして私をはっきりさせない感性的な心を持った。これらは、赤ん坊の育て方から始まって、この我々の文化そのものに、それは制度や建築といったものばかりでなく、衣類や化粧の仕方にまで及ぶ広範囲なものから発見できると思う。

このことから考えると、我々の創造性は、この小さな空間に向けられ添うものになったということであって、無いのではない。つまり大いに能力はあるのだが、目差す方向での困難さゆえに十分な成果を上げられず、それがそのまま低い評価に結びついている。この考え方が少しでも真実性があるとしたら、きっと大きな空間といえるものを創造するに違いない。

(2)決戦

今航海の疲れは、軽いものだった。それにここアルゼンチンの、何ともいえないおおらかともいえる空気もよかった。それに料理もおいしく、急速に体重を増やした。
そして最初の冬を越し、春になると長距離バスや汽車で何度かアンデス方面に旅に出た。冬にはル-ベンの田舎にも一週間ほどの旅をしていたが、今度は一人旅だ。途中汽車を降り、三日ほど歩くこともあった。ここでは水や食料を持っていたほうがいい。ずっと家の無いことがあり、車も来ない。野宿もしたが、安い相部屋のホテルにも泊まった。遺跡や何かを見に行くというようなことではなく、ただ当てもなく歩いた。放し飼いの馬(野生?)がいて、よく彼らのそばで休んだ。いつか、川原で若い馬が食べていたのはクレソンだったようだ。私はこの時、この野菜をよく知らなかったのでパンだけかじった。歩き疲れ、小さな小屋といった感じのところに水を貰いに行ったことがあったが、インディオのおばさんは少し暖か味のあるミルクを持ってきた。そして彼女の静かな笑顔にほっと一息ついた。

だが、このどこまでもつづく平原の風景は、何かしら私には合わないものがあった。寂しさが漂っている。私はどうしても生気がムンムンするような風景に強く引かれる。同じ頃、ブエノスアイレスの美術館に行ったが、そこではもっとはっきりと自分の傾向を感じた。ほとんどの作品は平原の風景のように合わなかったが、たった一つだけは違った。それはたぶん「笑う兄弟」という題の、中国製の焼物であった。ふたりの兄弟は、肩を組んでいたように思う。いつもの癖で、何が私を捉えたのかそれを考え続けた。これには、東洋的な何かというのは当たらないように思う。私はピカソやマイヨ-ルに非常に強く引かれていたので、その系統かも知れない。マイヨールの地中海、そして特に東京の美術館で見たピカソの絵(ダンボールに描いてあったと記憶している。)には完全に釘付けになった。

ところで、魂が捉えられる、あるいは奪われるというのはどういうことだろうか。たぶん生命そのもののところに関係しているのではないか。生命には生命としてのあるべき姿があり、生きていればいいというものではない。生命活動は生命の持つ性質やル-ルに添わなければならない。そしてその活動は非常に複雑であり、思いのほか広大である。そしてその生命そのもの、このように表現するところのものを我々は意識の上でも感じることができる。それを魂と呼んでいるのではないか。

さて、駅では夜の12時を過ぎるまで、女性等がカゴに食べ物を入れて売りに来た。子供たちも一緒についてきて結構にぎやかになる。しかし、夜は寒くなるので少しつらいようにも思う。カゴの中には餃子を揚げたようなものが入っていた。ここも北米と同じで、インディオは土地を取り上げられたと聞いたが、そのことが今も生きているということか。そういえばル-ベンの実家にいったとき、そこの広大な敷地の中には、映画の中で見るような立派な大きな屋敷が、今は住む人もなく建っていた。地主たちのほとんどは、ブエノスアイレスに居を移したと聞いた。

どうかしているような旅をいくつかすると、ようやく新たな力が湧いてきた。ここに来る前に一度付けた心身(今航海の疲れは軽かったので心だけ?)の力を、再び失っていたのである。ここはちょうど日本の反対側で折り返し点のようであり、出帆すれば帰航といった雰囲気もあった。しかし私はこのとき、ほとんど何も、問題の核心部に触れるような確かなものを掴んではいなかった。ここまでは来たものの、私のテ-マは以前として霧に包まれていた。ヨット乗りとしての課題のほうは、ホップ(北太平洋)、ステップ(南太平洋)、ジャンプ(ホ-ン岬)とひとまず一区切りがついたような気がした。そしてこちらも、この先の航海について新たな目標が思い浮かばずにいた。つまり中心的な課題のほうも、航海のほうも行きづまっていた。ここは一つ、中心的な課題のほうに取りかからねばならない。そのためにいろんなものを見て、考え、情報も集めてきたし、とにかくここで網を打ち漁をしなければならない。

こんなときに海に追い出されては遭難に行くようなものだし、落ち着いて一仕事をする、十分な時間の保証が必要だった。ここの法律のシステムはよく解からないが、ヨット乗りなどにはより簡単な手続きになっていたようだ。最初は一般旅行者がビザの延長のために行く、移民局のような所にも行った。しかし窓口では受け付けてくれない。上の方の人は、好きなだけいたらいいといった口振りであった。私の書類には三カ月と書いてあるのだが、それはもうとっくの昔に過ぎていた。ヨットクラブに相談すると、何か港に関係ありそうな小さな事務所を紹介してくれて、そこで書類を作ってくれた。川に面した通りにあったのだが、ここまではクラブのメンバ-が連れていってくれた。ここで、書類を定期的に更新した。何回か更新した後、顔見知りのパブロさんにこの間の事情を話す機会があった。このとき、彼はヨット乗りであるが港長でもあることがわかり、今度は彼が書類を作ってくれることになった。また彼は自分の管理している港に来るように盛んに進めてくれたが、私はついに行くことは出来なかった。市街より郊外の港のほうが好きだったのと、居心地が良くなっていたのである。とにかく書類のほうは、海賊の頭領といった風貌の彼に乗り換えた。

求める相手は名前も姿形も解らない。本当に捕まえられるものなのか、とにかくこの時点で整理をしなくてはならない。ややもすると、追いかけることさえ取留めがなくなり、無駄なことをしているのではないかと思えてくる。こんな、気持ちが塞いできたときには、「アムンゼン」の本の、はじめにを読み返して気を取り戻した。

「文明の曙光期、フェニキアの船乗りが地中海に漕ぎ出してから今日まで、探検家は未知の海や暗い森の道を切り開いてきた。その歩みは遅々として、時には何世紀もの中断があったが、アメリカ新大陸の発見や世界一周などの大冒険は、地球を覆っていた無知や偏見を一時に吹き払うほどの大きな進歩をもたらした・・・・・(全集の一冊、メモを無くし出版社名はまだ解からず。) また同じように、ヨットと同じ10代中ごろに出会った、本多勝一著「冒険と日本人」も消えそうになる火を守ってくれた。

さて仕事は、二番目に世話になった小さなヨットクラブ(多分Panathlonという名)に移って、すぐに始めた。そのヨットクラブは、ラプラタ川支流のさらに中に入った、狭い水路を利用して作られていた。そしてそこは木々に囲まれた、たいへん感じが良い気持ちの落ち着けるところだった。アルゼンチンは私が滞在していた当時、借金で国が危ないとさえいわれていたが、ヨットは盛んで新しいハ-バ-ができるとすぐいっぱいになっていた。それに週休は二日、夏は一カ月のバカンスがある。ヨットを楽しまない手はない。日系二世の宮城さんは、日本では小麦などを買うといっているのに、この国の人は港まで荷を集めたためしがないと憤慨していた。確かに、食べ物がたくさんあれば楽しむのが一番かも知れない。

仕事はまず船内でタンケンネットを作り、そこからもれ落ちのないように、気になることは何でもラベル化した。もちろん方法はKJ法で、これは日本でやってきたものを受けた第二ラウンドにあたるものである。ラベルの枚数は700枚にもなった。これが私の追うものの正体を突き止める、何やら気になる情報である。この先の作業は広い場所が必要なので、日系人の経営する語学学校の好意により、一室を借りた。滞在が半年も過ぎた頃、少しもスペイン語が話せるようにならないので、ここに通っていたのである。ル-ベンの家も借りた。彼は若いのにすでに家を持っていた。彼が普通なのかどうか解からないが、働きものであることは確かである。最初会ったときは、ボ-トと車の修理屋をやっていたようだ。次に、閉店していたアイスクリ-ム店を借りて、これを開店した。次に日本では海上保安部といったところに勤めたが、電話がひまなしにかかってくるというので、ここをやめた。大体彼自身を含めて、この国の人はおしゃべりではないか。次に木製食器のセ-ルス。私の出帆時は、建築の設計にかかわる仕事に着いた。話は変わるが、彼のアイスクリ-ム店で日本の見合いについてのスペシャル番組を見た。彼自身の場合は恋人の家が裕福であり、その格差が大きいために彼女の親に反対されていた。見合いと恋愛は、違うようで何か同じものを引きずってはいないだろうか。問題は同じでも、やはり自分で決めるほうが世の流れか。さて何日もかけて、ラベルのいわんとするところにに従って700枚のラベルを数個まで統合した。つまり700の文章、意味が内蔵された数個の文章になった。700枚のラベルはその数個のラベルの下に輪ゴムやクリップで束ねてある。数個のラベルまで統合するには何日もかけて統合の作業を繰り返し続ける。そしてこれを広げ図解を描いた。そして統合された数個の島にシンボルマークを入れる。これによって、漠然としたものがなるほどと思えるところまで見えてくる。このようにバラバラのデ-タ、情報から、それらの示すところによって未知のものを描くのである。大小の発想が得られた。さらにこれを文章化した。文章化はこれまでになく苦難に満ちたものになった。感性的ともいえる図解から、より論理的なものを求められる文章化に進むには、限りないほどの発想とさらなる理解を否応なく必要とした。このための基礎が貧弱なことを痛感させられたが、とにかく今はこの時点での言葉を絞り出さなければならない。なにしろ今やっていることは、形のない見えないものとの戦いであり、気を弛めればこちらがやられる。この時点での創造、達成がなければ、生命の維持が危うくなる。この作業は生命活動そのものであり、しかも節目に当たるものである。とにかく脳に圧力をかけ続けた。

脳味噌を絞って、語学学校の部屋を行きつ戻りつしていると、「五月広場の母親たち」のデモ行進のざわめきが聞こえてきた。共産主義者と見られる人々が三万人も殺されたり行方不明になった。この時、学生も相当犠牲になったのである。ラプラタ川にも死体がたくさん浮いたらしい。私が今の船を自作する、数年前の出来事である。

そんなある日、ヨットクラブと教室の間を通う帰りの電車の中で、ある考えに取り付かれた。我々はこの世界に対して、とんでもない誤った考えを持っているのではないか。我々はごく自然に、どうしても自分を中心にしてこの世界を考える。それは、そのように働く回路を内部に持っているからと考えられる。そしてその回路は、我々の社会、この文化によって育てられる。そして我々の文化は、その主なる骨格の部分が、動きのない固定的な形で成り立ち、そこから激しく移り変わるこの世界、森羅万象を見ている。つまり天動説といったものになっている、そう思った。これは自分自身の心の動きを見るとよく解かる。もちろん地動説といえる考え方もあると思うし、相手や広く外界のことも考えて生きてはいる。しかしそれは、あくまで一要素として従にとどまると思われる。またそれは余りにも文化としてどのようなものか取留めがなく、主に心の問題として取り扱われるぐらいであろう。ただそこでは、揺るぎない実感を持って捉えられているようにも思う。何しろそれこそが、我々の文化をも超えた基層のところで働いているようであるから。では内的なものとしてだけではなく、外的つまり文化として様々な方面で、制度、思考、方法、システム、技術などで具体的な形となった、いわば地動説の文化といえるものの可能性はあるのだろうか。確かに人間としては自分を中心にこの世界を考えたい。しかし生命としてそれは不自然であり、苦悩の源のように思える。自分自身を捕える罠にもなっているようだ。地動説の文化として、最初からこの世界の動きそのものを文化とする、この世界と同じように動きながら秩序を創造していく、動くものとしての文化があるのではないか。この宇宙や自然の空間そのものを文化としてデザイン出来ないだろうか。もしできたら、それは確かに地動説の文化といえるのではないか。私の乗っているこの船(洋船)においても、その前後を入れ替えたのは、つまり流線型から逆流線型にしたのは百年と少し前のことだったように記憶しているが、文化においても同じように逆向きになっているのではないか。そして私は、無心といったことを望む東洋的なもの、仏教の生まれたインドそしてもっと広く見れば世界中の文化の中に、これを解く鍵があるように思う。それら形の見えにくいもの従なるものを、外的な形に出来るまで捉えることは不可能だろうか。これを可能にすると思われる、文化の基本原素といったものは何だろうか。

さて1987年6月初め、建造開始から5年後、この仕事は終わった。確かにいくつかの門をくぐり抜け、核心部に近づいた感触を持った。今はこれで十分な成果だろう。これでこの航海の最優先課題は終わった。

(3)出帆(1987/07/19)

季節は夏から秋に向かっていた。そして私はさらに郊外の、果物の港として知られる、名前もそのままの果物港(プエルト・デ・フル-タス)に移動した。このあたりは大小の水路が縦横に巡り、多数の島々があった。もちろんそれらの島はほとんど高さのない、平らなものだ。少し休養し力の回復してきた私は、久しぶりにクル-ジングをしたいと思った。これは以前から計画されていたもので、ラプラタ川本流を横切り対岸のウルグアイまで、乗組員はセ-リング教室で勉強中のアイ-ダと水先案内人として医者のアルベルトが乗った。夜に出発したが港の外は予想外の風があり、岸近くで底が引っかかり、そのまま吹き寄せられて動かなくなった。カイで押しても動かない。私もだめだし、年のいったアルベルトにもそんな力はなかった。ところがアイ-ダはともの方から押し、これが以外にも利いた。私は風のことを気にして、舵が船の回転の障害になっていることをおろそかにした。風も以外なほど味方をして、我々は一転して自由を得た。ところが今度は雨交じりの風がやってきて、ラプラタ本流に出たときには風力5ほどになった。そしてまもなく、クロ-ズホ-ルドの帆走で沈船に引っかかった。これは4、5回下から突き上げられる衝撃を受けたが、これもカイで押し離すことができた。水先案内人のアルベルトが、ここは大丈夫といった矢先だった。彼は乗る前に、ラプラタ川は庭のようなものといっていたのである。まあとにかく、沈船が多く危ないところであることは、私も知っていた。あの押すときに伝わってきた平たい感じは、たくさん沈んでいるといわれている砂運搬船だったようだ。この地方特有の小規模だが激しい低気圧、パンペロによって沈められるらしい。一度このパンペロがヨットクラブいるときに襲ってきたことがあった。あたりは真っ暗になり、台風のような風が吹いて木々を折った。私はこれ以上走るのを中止して錨を入れ、朝まで寝ることにした。翌朝はすっかり凪ぎになって動けず、結局この航海はここまでで終わった。

ところでこの二日間アイ-ダは一人前の働きをしていたが、ここのセ-リング教室は半年間のプログラムが組まれていて、組織は市のスポ-ツ教室といったものであると後で日系二世の新里さんに聞いた。また無料ではないかということだ。

私の船の座礁は、支流でのように衝撃のないものを含めずに数えると、今航海で二回目である。感じとして木造船は、太いキ-ル(龍骨)がフィンキ-ルから伝わってくる力を集中せずに受けるので、大したことにならずに済むのではないか。FRPの船が座礁したり沈んだりしたのを見聞したが、それは船内にフィンキ-ルが突き抜けてきたり、根元で折れたりしていた。もちろんそれぞれの事故が、どれだけの衝撃を受けたものか、どんな状況であったのかは、デ-タがないので比べようがないのではあるが。

今度の航海は、さらに長距離にすることを新たな課題とした。今は海にどっぷりと浸りたい欲求があった。それに、ずっと異文化ではあったが常にヨ-ロッパ人が前面にあり、その社会を牛耳っていた。それでアフリカを飛び越え、オ-ストラリアも避けてインドネシアに入ることにした。日数は約100日になる。それに大西洋を北上することももうあまり気が乗らないものとなった。今航海の一番の課題を終えた今、早く日本に帰って次の段階に取かかりたかった。

そろそろ出航準備と思っていた矢先、背の高く笑顔が何とも良い、ハロルドさんが現れた。彼のマリ-ナは目の前にあったのだが、私の船のところからは、道路に面したかわり映えのしない塀といつも閉じられている小さな入口が見えるだけで気がつかなかった。彼は会ってすぐに、私のマリーナで出航準備をするようにといってくれたのである。彼のマリ-ナで働いている人々も温かく迎えてくれた。多分イタリア系のミゲルさんは、ホ-ン岬やマゼラン海峡方面に向かう船に乗っていたことがあり、何もいうな俺はみんな解かっているといって、激しい荒天にひどい船酔い、そしてあまりの恐怖のために首を吊った仲間の話をしてくれた。彼はたいへんな役者で、つい皆がが引き込まれた。この暖かな雰囲気の中、日本出帆以来の大がかりな整備をした。

ガフリグはマストの表面が硬くないと、ガフジョ-やソ-フェルといったものが当たるので痛みが激しい。それで表面を薄手のクロス(ガラス繊維の布でその一種。)を白色のエポキシペイントで固め、覆うことにした。これは成功だったようで、ずっと問題は起きていない。また予備のジブハリヤ-ドなど前回試みたものをやめ、さらにランニングバックステ-のテ-クルの、滑車数を減らすなど全体的に動索類を軽装にした。また今回からは帆のバテンを使用することにして、ポケットに入れた後しっかりと縫いつけた。前回手作りのもので実験をした、荒天時にへさきに上げる菱形の横帆は、さらに面積を増やし今度はセ-ル屋で新調することにした。またキャノピ-も前回の固定式をやめ、折たたみ式にした。材料は白いテント生地に、カ-ニャと呼ばれていた穴の無い竹を骨組みに採用した。この小さな果物港には、このカ-ニャで家具を作る工場もたくさん並んでいた。私は、最初にもやいを取った場所の前にある、マリアノさん一家の工場に出入りしているうちにこの材料に目を付けたのである。彼らはこの材料で主にベッド、テ-ブル、イスなどを作っていて、デザインは豊富だった。バ-ナ-であぶって曲げ、軽く焦がして色も付ける。釘を打ってもひび割れは入らなかった。

■ソ-フェル メインセ-ルの前縁とマストを繋ぐもの、私のはステンレス製、以前は木で輪っかを作った。アルゼンチンで、女性ソロセーラーの7mほどの木造ヨットで、木製のソーフェルを見た。
■テークル ランニングバックステ-はマストを後ろから支える可動式の索具。テ-クルはロ-プと滑車を使い、小さな力で大きな力を得るもの。
■バテン 帆の後部を平面にするための細長い板状のもの

ところでこのマリアノさんは恐ろしく元気な人で、72歳だというのに立ったりしゃがんだりの相当な重労働と思われるこの仕事を、本当によくこなしていた。それに、彼には35歳の奥さんがいた。奥さんが19歳の時に結婚したそうである。小学3年生の娘がいるが、彼女の夢は早く結婚して子供を作りたいということであった。まあそれにしても、よくあれだけ働けるものと思う。一度、彼の製作したものを町や村に売りに行くのに、同行しないかと誘われた。二泊三日ぐらいの旅だそうで、2トンほどのトラックにはどうやって積んだのかと思われるほど高く積み上げていた。もちろん私は行きたかったが、出航準備は忙しさを増しており、あきらめざるを得なかった。しかし行くべきだったと後悔した。これまでもそうだったが、私は出帆したいとなると自分のことだけを考える。マリアノさんも私の助けを必要としていたことに後で気がついた。こういう時は、本当に自分がいやになる。

カ-ニャでのキャノピ-製作は、うまくいった。工作法は手伝いながら基礎訓練されていたし、通っているうちに目で覚えた。軽くて強く、基礎になる最初の立ち上がり部分は、全体重をかけても耐えられる十分な強さを持たせることができた。

マリ-ナには工作場があり、そこには溶接機などもあって仕事は順調に進んだ。モ-タ-ボ-トを水面に浮かべる小さな昇降機は、私の船には少し無理かと思われたが、ハロルドさんは問題ないといって揚げてしまった。私はこれによって、船底ばかりか船体も塗装することにした。船体には、日本とアメリカのマリンペイントが交じったものに、量が少ないのでさらにアルゼンチンのマリンペイントを交ぜたものを塗った。これで船はピカピカに蘇ったが、これら長い期間をかけた毎日の仕事によって、私の体も健康を取り戻していった。

1987年7月19日、出航手続きは日本なら海上保安部といったところにいって済ませた。パブロさんの作った書類は有効で、手続きはすぐに終わった。以前の私の心配は無用だったようで、何をチェックするわけでもなく皆にこやかだった。確かに、このアルゼンチンでは私のような航海をするものに対して、その行為をそのまま評価できる下地を持っている文化であるように感じた。つまり帆走そして航海そのものが人間のやること、ごく自然な行為として認められているように思った。我々とは違って、大西洋そして世界中に乗り出した、大航海時代を経ているので仕方ないかとは思う。

一時はここに住もうかとさえ迷ったところだが、やはり出帆することになった。沖縄から移住した大城真喜さん一家には、入港以来ずっと世話になり続けた。田上二丸さんにはこの社会の上層部を少し見せてもらった。私に仕事場を提供してくれた語学学校の先生、シルビア・アシヤさん、マリ・ミヤギさんらが見送りに来てくれた。ル-ベンともお別れだ。ハロルドさんは自分の大きな木造のヨットに、家族や友人を乗せてしばらくついてきた。こんなとき、私は感謝の気持ちをうまく現わすことが出来ない。私は抑えられているものを感ずるのだが、これは簡単に解決しそうもない。私は翌日、ラプラタ川口のあたり、ウルグアイの首都モンテビデオの、その近くの小さな港に入る予定だ。この日は追手の軽風があり、川を下るには上々の日和だった。しかし陽がだいぶ傾いたころ、突然衝撃を受けた。飛び出して見ると、長さ8m、太さ40~50cmもあろうかと思われる丸太の真中を、直角に乗り越えていた。水面上には少ししか姿を見せない重い流木だ。最後に、このような力には一番弱いと思われるスケグの先端に当たったようだ。私の予知能力は完全に失われてしまっていたのである。そういえば陸の生活が余りにも長かった。

9 ウルグアイ

翌日、小さな港の大きなヨットクラブに入り、船を上架した。心配していたスケグや舵の部分は、跡が付いていただけで何ともなく、ステム(船首材)の水線部、キールが水面に現れ垂直に立ち上がる角のところが欠けていただけだった。これはエポキシパテで応急処置した。しかし美しい曲線は失われた。

ここに入港した重要な目的の一つは、調理用石油スト-ブのバ-ナ-部の各種部品を入手することだった。これらは肉厚が薄くなってしまい、穴が開くのでは思われた。しかし部品の入手はここでも難しかった。やはり時代は変わっており、調理用石油スト-ブはほとんど消えようとしていた。それでもイタリア製の部品が見つかった。ねじ山も同じ、使える。私のはオプティマス社製だが、もしかするとイタリア製があるのかも知れない。圧力をかける方式で二口のものを使用しているが、ときどき手入れをすれば非常に高性能なものである。石油つまり灯油は、どこででも簡単に手に入れることが出来ると思い、この方式を選んだ。今のところ、灯油を売る店は港の近くにあり苦労したことはない。

食料を少し買足すのにス-パ-マ-ケットに行ったとき、店内のガラス戸の中にあるピストルが目に止まった。アルゼンチンでは、100ドルでライフルが買えるので用意するように進められた。彼の友人は、東南アジアをヨットで航海中に襲われ、奥さんは殺されたというのである。その時は持たないで行こうと決定したのであるが、本物を見ると迷い始めた。たぶん私の船が襲われる可能性は低い。船は相対的に小さいし、着ているものからして貧乏そうに見えるはずだ。可能性が高まるのは、無差別のときと狙いを定められたときのように思う。どちらにしても予防行為と現場での対応によって助かる見込みはある。それに、我々はピストルといったものの使い方を、ソフトの面も含めて訓練されていない。かえって危ないと結論した。それに売ってくれるとは限らない。

ここでは、しばらく続いた好天を、スト-ブの部品を探すのに失い、準備が整ったときにはすっかり厚い雲で覆われ、悪天候が始まろうとしていた。おまけにヨットクラブのランチはエンジンの調子を落とし、私の船を引くことが出来ない。風は強く、私の船が自力で狭い船の間を縫って走り、広い海面に出る可能性は全くなくなった。しかし一時も早く海に出たい気持ちはおさまらず、入港時にも助けてくれた近くに住む若い漁師に引き船を頼んだ。強風のために出漁禁止であるとここの海上保安部の人々にいわれたのだが、彼はすぐ来てくれた。もちろんヨットクラブを離れれば港内にも帆走可能な海面はあり、私はそこまでで十分だった。彼の操船は実になれたものだったが、港口は荒れていて早々とロ-プを離した。そして南東に行くのに南東の風だった。すぐに船酔いが来て横になった。それでも港にいるよりはずっと良かった。出帆日1987/07/28。

■ランチ エンジン付きのボートで通船や引き舟もする。


次は、 10 南大西洋 です。

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