ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

アフリカで

▼第一章 命空間を求めて
[2]自然と文化を訪ねる航海へ

11 アフリカ

(1)復旧工事

ここは気持ちの良いところであった。ブイを拾うところでハ-バ-マスタ-の乗ったボ-トがやってきて、RCYC(ローヤルケープヨットクラブ)のクラブハウスの前にあるバ-スに手際良く入れてくれた。入国手続きはすぐにやってきた係官によって、極めて短時間で済んでしまった。受付の女性、そしてハ-バ-マスタ-はともに気持ちの良い人々であり、私の事情を良く理解してくれ、様々な便宜を約束してくれた。私はこれによってすっかっり安心することができ、まず船内の大掃除、次にマストの修理にかかることにした。

折れたマストを繋ぐためには、倉庫に保管してある古い木製ブ-ムの一部をいただいた。そしてこの木をカンナで削っているところに、ほっそりした若いアフリカ系の男性が現れた。ヨットクラブには、仕事をさがしに良く来ているらしい。しばらく考えた末、彼に仕事をしてもらうことにした。それは、一言でいうとお裾分けということだった。つまり、私はこのヨットクラブから十分な援助を受けている。滞在費は無料、それに様々なサ-ビスも受けられ、この木もいただいたもの、これらはこれからも増えるだろう。本来支払うべきものの一部をお返しする、そんな気持ちだった。それに彼に払うお金はとても僅かなものだったので、実際上これが可能になった。それでこのジムという青年は、他に仕事が見つからないときは私のところに来て、声がかかるとこっちの仕事を中止して走っていった。このようなやり方を決めたのである。

一緒に仕事をするうちに、大麻について話をしてくれた。それは殻付きのピ-ナッツぐらいの大きさで、新聞紙に包まれていた。どうしてこれが悪いのか解からないと訴えているようだった。煙草は体に悪いし、ウィスキ-を飲む人間は乱暴をして事件を起こす。これはイギリス人のことだ。とにかく、ここではアフリカ系イギリス系そしてその他とけっこう愛好家がいるらしく、彼と仕事をするようになってからは彼らが隠れてやっているのが良く見えるようになった。彼は起きがけにまず一服やって、意識をシャ-プにさせるらしい。やらずに出てきたらいい仕事はできない、そうもいった。私も勧められて試したが少しもシャープにならないので、すぐやめた。陽気なフランスのヨット乗りが、一カ月近くもいるのにまだ手に入らないとぼやくのを聞いたので、紹介した。ここはブラジルに比べるとかなり安いということだった。この若いヨット乗りは軍隊に入っていて、一年間の休暇を取って一人でクル-ジングに出たという。話によると、戻って二年間働けば、次のクル-ジング休暇も、職場のボスとの間に約束されているということであった。そして次の休暇は二年間といっていた。そういえばアルゼンチンでもフランスのヨットにあった。二人の子供連れでへこんだ鋼鉄製の船底を修理していたこのヨットは、南極越冬からの帰りであったし、フレンチポリネシアでも家族連れのフランスのヨットが目立った。どうも相当クル-ジングが盛んらしい。教育は船上で両親がすればよく、そのシステムがあるらしい。ところで彼はある日レストランで吸い始めたが、中に種が入っていたと見え、はじけて音を立てた。彼は周囲の客が顔を向けても、少しも動じるけはいを見せなかった。

またアルゼンチンでも一緒になった同じ日本のヨット乗り、そして厳しい南極に行ってきた片岡佳哉さん(青海号)がすでに入港していた。

■片岡さん 彼についてのメモを無くした。南極に行くための船の改造や航海記は雑誌「舵」にあり。

ジムとマストの修理をしているころ、青年のような、そして優しい目を持った人が訪ねてきた。コリンという名で、夕食に来ないかということだった。夕方、まだ明るいうちに彼は来て、車で家に向かった。そして我々の夕食は、台所での夕食を作るところから始まった。奥さんのパメラはいろいろ台所や家の説明をしてくれたが、それは気さくな人柄ですぐに気持ちがほぐれた。高校生姉妹の部屋も見せてくれたが、上のエリザベスはもう見せたくないといったふうだった。まあ当然だろう。コオロギの鳴いたのは電話のベルだった。以前のは少しうるさい感じだったのでこれに変わったのだという。前のも虫か鳥の名だったが忘れてしまった。

コリンによると、数年前、私とほぼ同海域で12mほどのスイスのヨットが転覆し、やはりケ-プタウンに入ってきたという。そのとき二人の乗組員は、転覆した船内に45分間入っていて、海水は胸の高さにまで達したということであった。ヨットの場合は、あるところまで水が入ると負の復元力が無くなり、再びひっくり返って元の状態に戻るようだ。その後、新しいマストはスイスから運ばれたが、インド洋に面した港からは二つに切って貨車に乗せねばならなかった。コリンはこれら一切の仕事を手伝っていたのである。

また私の、海水につかったまま放って置いたマキタの電池ドリルは、彼の友人が修理してくれ、充電式電池もそのままで使えるようになった。

コリンはもちろんヨット乗りであり、大西洋も渡ったことがある。今も全長12m鋼製ヨットの自作中である。日本とは違い、鋼製ヨットの建造が盛んで、ここにはレ-サ-もあった。また同じ曲面に曲げた鋼板から部材を切り出し、丸形の船体を作っているのも見ることが出来た。また人種差別政策に対抗して、ブラジルが南アフリカからのヨットレ-スの受け入れを拒否するまでは、レ-スの終ったヨットを船積みする仕事もした。コリンは10隻ものヨットを引いて港の貨物船まで向かい、パメラは二人の赤ちゃんを抱えて走り貨物船のはしごを上り、もやいを取った話をしてくれた。

夕食後にエリザベスとバ-ジニアがギタ-とピアノで、合唱を聞かせてくれた。さらにバ-ジニアが弾いてくれたピアノ曲(ベートーベンの月光?)は心に残った。ずっと心の奥、普段は意識しないところ、しかしその内容を捉まえることは出来なかった。

(2)トランスガイ

復旧工事が一段落した頃、私はジムとともに彼の故郷へ旅をすることにした。そこはバスで30時間、1000Km以上離れたトランスガイというところだ。国であって国でないような、白人が都合良くやるためのものと聞いた。私の書類にはケ-プタウンから離れてはならないと書いてあったらしいが、そのトランスガイ領事館といったところではゆっくりと目を通した後、無言でスタンプを押してくれた。

出発前日、彼の母と妹が船に遊びに来た。彼の母はどうしてあんな所に行く気になるのか、理解できないといっている。妹のほうは、写真を取ってくれというのでカメラを向けると、我々には考えられない大胆なポ-ズを取った。目を輝かせ、腕を上げ、体をねじってまったく全身で表現する。これは今まで目にしたことの無い種類のものである。彼らの文化という大樹の、一枚の葉を見た思いだった。後日、彼の村で子供たちを撮ったとき、一人残らず目をキラッとさせるのを見てこれを確信した。ジムといえば、これも見慣れない格好をしている。シャツの裾をズボンの中に入れたことが無く、上着の下からカマキリの羽のように出している。そういえば、ディスコで見たアフリカ系の人の踊りは、何やらあの世へ行こうとしている風があって、そこでも異質なものを感じた。あの世にいくにも、いろいろなやり方があることは聞いていた。しかしあれは、我々のものとは大分違うように思う。それにしても、自分自身でありたいし自分を越えたいというのは、どんな文化でも同じようである。これは生命とか、文化というものの本質、核心部に直接関わっている問題ではないか。この二重構造の持つ意味、危険をよく知らなければならないように思う。たぶん一つのものとして、どちらにも偏らずデザインすることが出来たらいいのだろう。

バスは満員で、私意外は全てアフリカ系の人々だった。ジムは、食事にパンと鶏の唐揚げをたくさん買ってきた。バスが街を出る頃には、若者が三人中央の通路で歌い踊り始めた。手には大きな鶏の、股の唐揚げを持っている。この唐揚げはかなり美味しいものである。私はといえば、街並や風景を見るのに心を奪われた。そして途中、心に残る光景を見た。ケ-プタウンを出てどれくらい走ったところだろうか、ブッシュの広がっている地帯の中に、切り開かれた大変に美しい畑が広がっていた。小麦だろうか、黄金のじゅうたんでも敷いたようだ。つまりここには、荒れ地を美しい畑に変える力を持っている人々がいる。一方、彼の故郷に近づくにつれ、今度はどこまで続いているものやら、広大な草原が現れた。しかし土地は相当な起伏があり、草原というよりなだらかな線の山々が草で覆われているという感じだ。こちらもまた限りなく美しい。そして自然が作ってきたものである。ここには50~60戸ぐらいずつの部落が、あっちにもこっちにも点在しているのが良く見える。小さな円形の土壁に円錐形のわら(種類は解からず)の屋根、ほとんどみな同じ形のものを作る。まるで絵本の中に出てくる、おとぎの国の世界だ。しかしここには夢が無いといい、都会へ向かう。たくさんいた牛も減り続けているらしい。この荒れ地を切り開いた美しい畑と、美しい自然に恵まれながら夢のない故郷、帰りも同じ思いに取り付かれた。

円い家

円形の土の家は居心地が良かった。床には牛の糞を敷きつめてあり、それには全く匂いは無い。家の中には、この糞を溜めた桶が置いてあるが、鼻先を近づけても匂いは無かった。ジムはこの緑色がとても気に入っており、最高だという。一家族が二つから三つの家を並べて建て、二人ぐらいずつ暮らす。建築は女性が受け持っているらしく、修理しているところも見た。若者はまあかなりいたように思う。毎日、午前中から彼の友人が数人、多いと10人ぐらいが集まった。そして大麻になる。これをジムの母や妹は好ましく思っていなかった。私は最初みんなが遊んで暮らしているのかと思ったが、そうではなく、早朝暗いうちから起き、一仕事を済ませて来るということだった。笑いが好きらしく、彼らにとっては誰のものでもある形の良い真っ白な歯を見せて腹の底から笑う。ときどき、身をよじらせて息も絶え絶えになる。死にそうになるほど笑うなんて、私にとっては小学生も低学年で終っていることだ。彼らは一日中といっていいほどこれをやるのだから、大変な体力であると思う。時々議論もしていた。一度はキリスト教の神についてだった。サッカ-のチ-ムを持ち、これを維持するのが大変だといっていた牧師の息子が、苦しい応戦をしている。もちろん決着はしない。ジムが日本はどうかと聞くので、神はたくさんいるといったら、それは面白いとみんなの顔が輝いた。ジムの考えでは、神は風であるということだった。私がここの元々からある神はどんなものか、みんなが帰ってから聞いたが、あるにはあるといった気の無い返事をした。また地球はほんとうに丸いのかと聞かれたので、私は東へ向かってアフリカに着き、再び東へ航海して日本に着くといったら、やはりとうなずいた。何しろ持っている本といえば、聖書が一冊置いてあるだけだった。

女性も連れだってやって来た。彼のお婆さんは女性が来ることだけを認め、男どもが来ると時には大変に怒った。これは部屋、つまり家が独立して建っているので少し救われた。しかしなぜこんなにも怒るのか、推測だが解かるような気もした。つまり彼女が生きてきた人生を、断片ながらジムから聞いていたのでそこから推し測った。それによると彼女は長い間白人のメイドをしていた。それは人種差別の中でのことであり、その怒りがふがいの無い男どもに向けられたのではないか。彼女は私にも怒りを向けたことがあったが、収まると私のベッドを直してから、自分の部屋(小屋)に戻っていった。

洗濯と風呂は家の下のほうにある小川に行った。女性の場所は100mほど上流にある。太陽が出ていたせいか気持ちが良かった。水もそんなに冷たくない。いつものことであるが、もっと長く居たいと思う。

さて、ここの文化とはいったいどんなものだろうか。一つの文化は、その中の何もかもがバラバラではない、一つの繋がりを持っていると考えていい。何でもその文化らしさを持っている。我々の家の構造は襖で仕切られ、ヨ-ロッパ人は自分の部屋を持っているといわれる。しかしここではその部屋が独立し、家になっている。しかし個室ではないようだ。そしてそれらは、みな同じ大きさと形に統一されているようだ。この形式は、私には好ましいものに感じられた。この家は女性が建てると聞いたし、川での入浴場は女性のほうが上流であった。妻のかせいだお金は誰が管理するのか聞かなかったが、男は自分のかせいだお金は自分の自由にする。どれだけ稼いだか金額をいう必要もないし、そんなばかなことはしない。財布を妻に渡すぐらいなら死んだほうがましだと、財布を握る日本の女性のような反応を示した。また同じ草原でも、これだけ起伏があると、アルゼンチンで感じた寂しい風景とは違ってくる。向こうの山の斜面にも、こっちの丘にもといった具合に、同じ形をした家が集まった幾つもの部落が見え、一つの大きな空間を感じることが出来る。歌は、私を引きつけてやまないそよ風に木々が揺れるような和音で、これはどこか南太平洋でも聞くことが出来る。恐ろしい通過儀礼は今もあり、私の滞在中16歳の少年が申し出て、儀式が始まったと聞いた。30いくつかになるまで申し出なければ、強制執行されるということだ。ジムはまだ受けていないが大変恐ろしがっており、この遅くまで受けないというのは彼らの全般的な傾向と聞いた。子供の頃の、みんなを集めて年長組のものがさせる喧嘩では、石を持つことはル-ル違反ではない。これは相当骨が丈夫なところから来るらしい。カメラの前では、大胆なポ-ズで自分を表現する。ディスコではあの世に行きたいように踊っていたが、それは明らかに白人とも違うし、この田舎の青年らの踊りもみな内的な雰囲気を持っていた。確かにこれは独創的な文化である。この文化は何を意味しているのだろうか。この文化の中に、このアフリカに産するダイヤモンドがあるに違いないのだが、私には見る目が無い。

あまり元気とはいえない、そして物思いに沈む気分で帰路についた。バス停では、シャ-マンと思われるやさしそうな二人の女性を見た。足には幾つもの輪をはめ、ゆっくりと歩いていった。途中、私が検問に引っかかった時に別れわかれになった荷物は、一緒に乗った隣村の男性が、次の駅で保管し待っていてくれた。検問所からそこまでは相当な距離があり、この初対面の人がバスを一便遅らせなければ、私たちは会えず半分以上諦めていたのである。私のほうは、ケ-プタウンに帰ったら一度関係する事務所に出向くということで、一時間半ぐらい引き止められた後、ジムとともにこの日の最終便に乗ることが出来たのである。そういえばトランスガイに入るには検問が無かった。

(3)RCYC

RCYCの人々は、勤めが終った後、夕方からのヨットレ-スに出ていった。一日おきに三回、日曜も入れるから四回あるいはもっとヨットレ-スを楽しんでいた。そのうちの一つは、土曜の夜にスタ-トし日曜日に帰ってくるものだったが、相当大きな低気圧の真っ只中に80隻ほどのヨットが出ていった。ハ-バ-の中にいた私の船も大きく揺れて、沖のほうがどんなになっているか容易に想像できる様なものだった。65隻が何らかのトラブルでリタイアした。翌日上架された全長9mほどのバンデスタット設計の合板製クル-ザ-は、船体を覆っているFRPを両舷の中央部分で剥がしてしまい、合板の地肌が丸見えになっていた。スピンラン(追風用のスピンネーカーで走る。)で大波に突っ込んだ時に、船体が変形したためであろうということだった。つまり私のマストの表面にヒビが入っように、表面のFRPが割れて、圧力のある水流で剥がされたのである。またレ-スの前日に見せてもらった、全長70フィ-トのまるで貨物船のような巨大クル-ザ-には、25歳の若い船長が乗っていたが、一着で帰ってきた。ヨットクラブのバ-で、ずいぶん若いのにどうしてこの仕事をやれるのか聞いてみた。まず経験という点では問題ない、すでに十分に積んでいるということだった。それは確かに聞くほうがどうかしているという内容に思えた。なにしろ、ここはRCYCである。

自作も盛んなようで、コリンも12mの鋼製ヨットの船体をほぼ完成させていた。ワイン工場のオ-ナ-の半自作といったヨットも見せてもらったが、実に良くできていた。航海に出たくて仕方のない若いカップルの、やはり鋼製の自作ヨットを見せてもらったが、内も外もそして床板の下も少しの錆も出ていなかった。彼らの話によると、今はよいペイントがあるので問題ないということだった。我々と違って、彼らは様々の材料を認めている。たぶんそれは、様々の乗り方を選択しえるからのように思う。素材にも個性があり、それらは個性的な乗手や航海に合わせて選ばれるべきのように思われる。また自分で何かを作るといったことは、これを支える社会的なシステムといったものも必要である。いろいろ連れていってもらった中では、ゴム製の部品ばかりの店もあった。かなりの大きさの店であったが、全くうらやましい限りだ。ワイン工場のオ-ナ-は、私の船がひっくり返ったのを知り、古いプラスチックパイプを利用して海図入れを作ってきた。そのパイプの両端には軽く防水の利く蓋が付いていた。つまりこの簡単な蓋さえ買えば、好きな長さの入れ物が作れるのである。またその社会システムは、個人が何かをするのを進めるものにもなっているようだ。例えば、セ-リングはヨットクラブばかりでなく、海軍あるいはコ-ストガ-ドといったところでも教えているようで、二本マストの少し大きめのヨットを使い、その訓練生が整備をしているのを見た。。航海術についての疑問があったのでコリンに相談すると、さっそく海軍の門をくぐり、ある50代の男性のところに連れていってくれた。

ヨットクラブの会長は女性であった。コリンはある日、私を彼女の部屋に連れていったことがあったが、とても和やかな雰囲気だった。この会長が女性であることは、コリンの所属する湖にあるヨットクラブも同じだった。コリンによれば、彼女はお金を集めたりとか経営の能力があるということであった。しかしこの能力ということについては受付の女性にも当てはまる。ハ-バ-マスタ-が居なくてはどうにもならないということはなく、彼女には知識もあり、話はスム-スに進んだ。そして確実にハーバーマスターに伝えられ、彼は解決策を持って私の前に現れた。これは彼らの持つ、長年の間に培った運営システムが力になっているのではないだろうか。

(4)コリンの家族と

海からホテルのように見えた海岸の白い建物(10階建てぐらい)は、ほとんどがアパ-トだった。コリンの育ったところもここにあり、今も両親が住んでいる。そこは岩場の海岸であり、アパ-トのすぐ下では大きなイセエビ(ニシキエビ?)がたくさんいる。少年の頃、捕まえては家に持ち帰ったが、両親は臭いといってあまり歓迎しなかったという。それにしても眺めの良い素晴らしい所だ。泳ぐ機会があったが、海水は寒流で非常に冷たかった。海の中をのぞきたいと思っていた私は、インド洋に面した海岸までドライブに連れていってもらったとき、シュノ-ケルを持っていった。砂浜だったが海の中には岩場があり、非常に豊かな感じを持った。大きな海老も見た。コリンは何か取ったらどうだと進めてくれたが、眺めるだけにしておいた。そして冷え切った体をみんなでこすって暖めてもらった。

このドライブの帰り道、ごく小さな港で全長5mのセ-リングクル-ザ-を見せてもらった。50歳を過ぎた船大工さんが作ったものである。彼はこれでオ-ストラリアに行くといっているが、コリンは心配そうにしている。もちろん船を心配しているのではない。船のほうは素晴らしい出来だし、船内の配置などは全くうまく考えられていた。この船に比べれば、私の船など全く考えていないかのようだ。空間の使い方には、どうしても質の違うものを感じざるを得ない。頭の中での、イメ-ジの仕方が違うのかも知れない。そういえば様々な舞台においても、彼らのは奥行きがあるといわれ、我々のは平面的であるといわれているのを思い出した。同じ空間でも、我々のいう空間とは全く別の空間、つまり我々のいう営みとしての空間と彼らのいう物質的な空間の違いがあるように思える。

途中、都会へと出てきたアフリカ系の人々の一時的な集落を見た。ここは中心部から大分離れた郊外であったが、もっとずっと近いところ、ケ-プタウンの圏内の外回りといった所には、もっと広大で一つの街ぐらいのスラムがあった。こっちのほうは他日ジムに連れられていったのだが、拾った板切れで作ったまるで犬小屋のような家が、見渡す限りの広さで建っていた。この時はとても良い天気だったが、雨が降ったら大変だ。屋根からばかりでなく壁からも雨は吹き込んで、中は水浸しになるだろう。最初この光景を見たとき、これはすごいといった感覚に捕われた。ここより更に近くの、電車で行けるところにある多分ジムの親せきの住んでいる所は、さすがにこちらは人間らしいものだった。日本なら市営住宅とか文化住宅と同じぐらい、あるいはそれより上になっていた。

この日のドライブは、夕暮れにかけてケ-プタウンに戻ってきた。市内の高架橋にかかったとき、このまま家に行くか船に帰るか訪ねられたので、船に戻ると答えた。だがヨットクラブで別れるとき、パメラは悲しそうな顔をし、バ-ジニアは怒った顔になった。私は週に三回ほど家に行くようになっていたし、ヨットクラブでもよく会っていた。テ-ルランプが角を曲がっていくのを見ながら、失敗したなと思わずにはいられなかった。遠慮深いというのは、私の場合は非常に消極的な意味合いが濃い。この社会に望まれて生まれたのか、それとも望まれない客なのかその確信を得ることが出来ないでいる。本当のところの核心部を掴みたくて出た航海ではあるが、身についた不信が常に心を牛耳ってしまう。しかしこの問題を、個人的なものとしてではなく、人間が生命活動をする場としての、文化というレベルで捉えたい気持ちが強い。個人的なこととしてばかりではなく、文化のレベルで考えることは誰でも取りかかってよいのであり、それは子供であってもかまわない。なぜなら、その場でこの不信が創造されたのであり、自分自身を考えることは人間という生物そしてその生物が創造してきたこの場について考えることでもあり、それらは一つのことである。気持ちを切り替えて前向きに生きる、これはあまりに単純でなければそうありたい。

女性らが夏のバカンスで小さなキャンピングカ-を引いてキャンプ場に行った後、コリンと二人だけで、夕食を作りながらテレビを見ていた。コリンが行かないのは、パメラがその一カ月あまりの間、本の世界の中に没入したいからということだ。もしそれを邪魔したら、パメラはおかしくなる。それには、子供たちも協力するのかも知れない。キャンプ地といってもプ-ルもあり、子供たちにとっても楽しみらしい。また彼女は、私の大好きな詩の作者であるジョ-・メ-スフィ-ルドの本を持っていた。その中には”どうしても海へ行かねばならない”という私の魂を捉えたものがある。この詩に出会ったのは、イギリス人のヨット乗りサー・フランシス・チチェスターの航海記(または旅行記?)である。また彼女は、文房具つまりペンや紙などが大好きであり、それらに囲まれて暮らしたい。学校の先生をしているのも、そのせいかも知れない。彼女の学校は日本ではなかなか見られないもので、学校らしくない幾つかの建物が木々に囲まれていて、かなり歴史のあるところと見えた。エリザベスとバ-ジニアの通う高校は、もうほとんど我々の知っているものと同じふうだ。彼女の受持ちは6歳ぐらいの子供たちだった。しかし全体のシステムは日本とはだいぶ違うようだし、よく解からない。時には非常に忙しい仕事があるらしく、それが終ってその帰りに招待されたときには、流しにたまったナイフとフォ-クの山を見せてくれた。他の誰かが洗わないのかといったことより、こんなにもたくさん持っているものかと驚いた。そう、我々が箸をたくさん用意しているように、やはり彼らも持っている。

テレビではニュ-スをやっていた。そしてペチャンコになった小屋が写った。コリンによると、三人のアフリカ系の男女が銃を持って小屋に立てこもり、それを警察が装甲車で有無をいわさず引き潰したらしい。日本で、アパルトヘイトに関する映画を2本ほどテレビで見たことがある。あの中に自分が今いる。ここで黒人は、射撃クラブの標的にもされる。港内にあるコリンの小さな仕事場には、やはり港内にあるヒュ-ム管置場を家にしている青年がよく遊びに来ていた。彼はさんざん警官に殴られているのだが、まだ立ち退かずにがんばっているということだ。彼はボクシングのジムに通っていて、身なりも清潔にしていた。ただヒュ-ム管に寝ているのとは違うようだ。近くの島の監獄には後のマンデラ大統領がいる。

(5)文化について 5

さて私自身を含めて様々のことが目の前で起きている。この有り様を、私のテ-マから見たらどのように解けるのだろう。

歴史といったものを眺めると、それは文化の進化(進化は生物の歴史という言葉を本で読んだ。)を現しているように思う。そしてそれは、様々なレベルで発展してきたように受け取れる。社会といった大きな器は、民主主義といったところに来た。だがもっと生命に近いところの文化は、ずっとゆったりした動きのようである。つまり、千年前の日本人が現在の日本人と違うとはいっても、大筋では同じ日本人といえるだろう。言葉あるいはその他日常生活に関わるものは、民主主義などの制度的な面ほどには変わっていない。社会的な器が変わっても、思考の方法や人間関係の作り方といったものはさほど変わらないだろう。衣食住は変わったといえるのだろうか、それともほとんど変わっていないのだろうか。自分をあまり出さないということや同じようなものにするという傾向は、和服が洋服になっても続いてはいないだろうか。さらにもっと生命に近いところは、ほとんど変わっていないのかも知れない。脳さらには身体に近い部分が大きく変わるのは、特別なことでないかぎり考えられない。

つまり文化には生命レベルのものから、道具のレベル、そしてシステムのレベルまで、そこには構造的な様々なレベルがあり、それぞれ特色がある。これは自然の生物でも同じようで、例えば、草と木の間にも社会といったものを作っていると聞いたことがある。これは小さな地域的なものだが、水や大気の大循環、それを動かす太陽や月の運動とも関連して、生物界にも生物自身で行なっている大きな循環があり、個々の生命そしてそれぞれの持つ道具を越えたシステムレベルがあるということだ。生命レベルではどうなのだろう。あまりよく解からないが、哺乳類の時代も、恐竜の時代も、またずっとその前も生命としてはよく似た仕組みのままではないだろうか。我々の細胞は恐竜に比べて進化しているのだろうか。大脳を持った高等生物は、何を解決してその存在が可能になったのだろうか。

我々のシステムレベルでは、国を越えた国際的なシステムレベルの創造が求められる時代になっている。その中でも、経済システムなどは非常に身近なものとして感じることが出来る。つまり国際的な文化の枠組みへの切実さは、景気といった生活に直接結びつくものによって誰もが感じるぐらいに高いといっていい。この枠組みが不備なゆえに戦争が起き、経済的な破綻が起こるということを本で読んだことがある。またル-ズベルト大統領の自伝のような本の中には、世界恐慌で失業者があふれたとき、彼らはボロを着て食べるものも無くなったが、倉庫には小麦と綿花が山と積まれていたことが書いてあった。ところでこの国際的なとか、異なる多数の民族の文化を越えた枠組みといった場合の、そのシステムレベルの文化の枠組みは、どんなことがその枠組みを作るための核になるのだろうか。これまで見てきた限りにおいては、一つの文化はその全体空間の中のありとあらゆるものがバラバラでない、一つの全体性を持ってデザインされているように思う。つまり国際的なシステムレベルの枠組みは、多数の文化にまたがった多数の文化としての全体性を解決しなければならない。しかし実際のところは、これは身近なところでも未解決なことが解かる。例えば男と女の間、小さなグル-プの間、さらには個人と個人も同じことで、所属する一つの文化のあり方は求められるが、その元々の違いはなかなか認められない。何とかやっていられるのは、文化として元々の違いを認めているからではなく、特別の場合を除けば武力などを使ってまで一挙手一投足の強制を受けたりすることがなく、反対に個人のところではその違いが生きて働いているので、消極的なまでも文化的な強制からはかなり守られているからと思う。この元々の違いを違いのままに認め、越えてなお全体性を持つものは何だろうか。様々な文化を眺めていると、基礎的なところ、それぞれの文化ではなくその文化を創造するその生命活動のところ、それはみな同じものの上に乗っているように見える。生命レベルの文化、あるいは文化以前の生命活動は、遡れば生物レベルでも同じものとして広がっている。それは生命の日常的な創造活動といえるものである。これこそがそれぞれの文化の前にあるもの、それらを乗せているものではないか。社会や生活を支えるだけでなく、生命の日常的な創造活動つまり生命活動を支える文化を創造しなければならないのではないか。それは例えば夢や関心事、思いを育てるものである。しかしそれは、単純に夢の実現を追い創造性を開発するものではなく、そのものによって自律的に育っていくものである。なにしろそれは、無数の、森羅万象でのことであるから。これならどんな文化のどんな人間にとっても、また全体的な大きなシステムレベルの文化、つまり国際的なとか多数の異文化を越えたものといったものでも、一つに捉えられる。さらに生物としても、そしてもっと基礎的な宇宙の活動とも矛盾がないと考えられる。

(6)出帆(1987/12/14)

出帆しなければならない日が近づいた。パメラは航海に持っていくケ-キを焼いて、目の前でコップ一杯のブランデ-をかけてくれた。これは私が、彼らの故郷であるイギリスのヨット乗り、ロビン・ノックスジョンストンの単独無寄港世界一周航海記で、たぶん叔母さんが焼いてくれたこのケ-キの入った密封した缶を、ある記念日に開けるところを話したことがあったからである。彼らからは、もうすぐ来るクリスマスまでいるように進められた。もちろんこれに遠慮はいらない。しかし私はどうしても行かなければならない。

■ロビン・ノックスジョンストン 1968~9年、全長32フィ-トのスハイリ号で、初めて無寄港単独世界一周を達成した。著書は、「A world of my own」 ROBIN KNOX-JOHNSTON CASSELL・ LONDON。

出帆当日は(1987/12/14)、テ-ブルマウンテンから強烈な吹き下ろしのある日だった。山の頂には、蒲団を乗せたような白い雲があり、それが崖から滝のように流れ落ちているのが良く見えた。この風では、自力でヨットクラブの桟橋から出るのはあまりに危険過ぎた。コリンの進めもあって、ヨットクラブのボ-トで港内の広いところに出してもらうことにした。ここでは、ボ-トは引かずに押してくれる。広くなったところで2ポイントリ-フのメインセ-ルを上げ、この一枚で走り出した。帆を上げてから、風下の港口に転針しようと船を回したとき、見送りのヨットが接近しすぎたので、私の船のバウスプリットが、その船のコックピットの上に突き刺さりながら回転した、とそう見えた。私の船は、その場で急旋回するような小回りは利かない。港内は白く波だっており、本当に手に汗を握った。港外に出ると、いつもヨットレースをしている海面から4、5隻追ってきたが、この強風ではこちらもかなりの速度があり、途中でフォ-ンを鳴らして引き返していった。ジムもいつも仕事をしているところからだまって見送ってくれた。

ケ-プタウンからは真っ直ぐ南へ三日間、2ポイントリ-フのメインセ-ルとスト-ムジブセ-ルで、向い風の中をクロ-ズホ-ルドで走らねばならない。そこまで行かないと、風と潮が後ろに回らないのである。それはいつもの船酔いの三日間であったが、今回は耳の後ろに張る薬のおかげで、時々見張りのために起きるのがとても楽だった。



次は、 12 インド洋へ です。

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