ヨットの自作そして自然と文化を訪ねる航海で見つけたもの、空間段階の文化による文化の生命化で新しい世界を開く。

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「空間段階の文化を作りましょう 2017」

まえがき

文化人類学者だと私は思っている、KJ法を作った川喜多二郎さんが書いた本のどこかで、「文化は逆に身を縛るものにもなり、文明化すればするほど身動きが取れなくなる」といった意味の文章を読み、よく理解しないまま重要なものとして記憶しました。あれから本当に長い時を経て、この文化あるいは文明化の呪縛から完全に逆転、新しい世界を開くものとして、統合体段階の文化から空間段階の文化へ移行することを提案するところまで来ました。日常生活の不便、軋轢、対立、そして付きまとう不安、格差と失望、大きくは再び世界的な戦争、地球規模の環境破壊、足元で起きている種の絶滅など、あらゆる難問を吹き飛ばすほどの根源的なもの、それを皆が理解し納得できる、科学的なものとしてここに提案します。

統合空間と統合体、これがここで考えるたった二つの、そしてとても重要な言葉です。もちろん一つの世界、そして一番単純な見方です。この二つの関係は、宇宙も自然も、そして我々の社会を成り立たせている文化も同じだと考えています。しかし我々の社会はまだこれをはっきりと捉えきれず、翻弄され続けていると私は考えています。

Ⅰ 圧倒的な性能を発揮した逆流線形のアメリカ号

 150年ほど前、ロンドン博覧会で行われたヨットレースで、一位となったアメリカ号は、圧倒的な性能でイギリス艇群を引き離し、観戦していたビクトリア女王の2番はの問いに、あとに続く船影を見ることのできなかった見張りの者は、2番はありませんと報告せざるをえませんでした。世界第一の工業力を誇り、第一回の博覧会を開いたイギリス国民に、衝撃が走ったのはいうまでもありません。
 後日、アメリカ号が作る波を、終日観察していた造船技師は、我々は何世紀もの間、後ろ向きに走っていたのかと嘆息したということです。理想とされた伝統的な流線型の船から、アメリカ号の逆流線型へ、造船学の進歩は新しい時代を開くことになりました。

 さて私は、様々な問題を抱える社会、そこで生きる同じように問題が多い我々の心について、大脳による知的な生命活動というものをよく理解しておらず、あの時のイギリスの船のように、流体に沿わない形、つまり脳の働きに沿わない形で、同じように後ろ向きに進んでいるのではないか、若いころからの掴めそうでつかめないこの問題について、ずっと考え続けてきました。

Ⅱ 知的な生命活動

1 発明発見の輝かしい歴史

 生物の進化は大脳化を実現し、その大脳によって、我々は非常に高度な、知的生命活動を始めました。船を作り、その前後を入れ替えたように、様々な発見をし、性能も上げてきました。また地球は平らではなく丸いということになったのも、これも知的な生命活動の成果です。もし地球は平らでいいということであれば、現在の便利で豊かな生活は無かったでしょう。数え切れないほどの多種多様な道具、ほんとうに便利で役に立つ貨幣や紙そして文字、そして様々な制度に思想、社会を一変させた自動車、テレビ、電話、そして宇宙という新しい世界を開こうとしているロケット、本当に無数の発明をしてきました。そしてこれらの発明発見による、社会の変化にも対応し、新たな時代を開いてきました。しかし、まだまだ分からないことの方が多い、ということも聞きます。

2 誰もが知的な生命活動で生きる

 この発明発見の輝かしい歴史とは別に、この知的な生命活動は、我々にとってごく身近な日常的なものでもあります。誰もがこの大脳を持っていることから分かるように、生きて行く上で、誰にとっても例外なく、極めて重要な働きをしています。

 生まれた場所の自然を知り、言葉を覚え、親子や社会における人間関係を作り、仕組みを理解し、日々の仕事をこなして生活を成り立たせているのは、みな大脳の働きによります。また歩く食べるという行為や、美味しい美しい、そして好き嫌いという本当に微妙な感覚や感情にも働いています。
 一生を通じ様々な難しい出来事にも対処し、その時々の異なる課題も、この働きで乗り越えねばなりません。私としての成長をし、健全な老いと死を迎えるにも大事な働きです。
 また寝ている間も、あるいは無意識の世界でも働いていて、意識的な世界の偏りを避け、心の全体性を維持しようとする働きもするといわれています。これらの大仕事を、自らも周りも変化してやまないところでやり遂げねばなりません。しかも、地球は平らではなく丸いかもしれないという、自分のことも世界のことも、まだまだ分からないところがある中でのことです。

 しかし個々の人間にとっても、社会という規模においても、知的な生命活動そのものを対象とした、その働きに沿った仕組みがありません。。発明発見をする優秀な人間、社会を維持発展させる人間を育てるための教育の仕組みはあっても、誰にとっても極めて重要な、この生命活動そのものといえるものを対象にした仕組み、視点、そして文化がありません。この活動は、生まれてからずっと休み無く行われているにもかかわらず、社会の基礎的な仕組みとすることができないでいる。私の中で、時として浮かんでくるジャングル、あるいは寂しい感じのする草原のイメージは、何かこれらの問題と関係があると思えて仕方がない。

 それにしても、大脳による知的な生命活動を支える文化がないというのは、あまりにも大きな問題ではないか。身体の生命活動がうまくいかなければ、すぐに健康を損ないますし、放っておけば病そして死に至ります。一方、知的な生命活動を放っておくことは、別種類の病を引き起こしているのではないか、それがどれだけ大きなものか、想像もできない大きな損失にもなっているのではないか。つまり心の健康を損なっているばかりか、経済や社会というところでの大問題も引き起こしている。

Ⅲ 伝統的な文化

1 理想とした流線型の船のように

 船として理想的な形であると考えられた流線型は、流体の性質がまだよく分からなかったころに、自然を観察した結果、理想の形として見出され、これを船型に取り入れたものではないか。そして時を経て、更なる水の流れを観察した結果、逆流線形という形にたどり着きアメリカ号は生まれた。
 一方、我々がごく当たり前のものとしている伝統的な文化(時代が移り、生活が変わっても続いているごく基礎的な部分)も、理想とされた流線型の船と同じように、この世界を観察し、考えられる理想の形、仕組み、秩序を見出してきたものではないか。しかし、流体の性質を捉え逆流線型としたアメリカ号のようには行かず、いまだに大脳の働きである知的な生命活動の流れを捉えていない。

 また、文化の発展の法則には、何か順序といったものがあるのかもしれない。つまり発明発見の輝かしい歴史というのは、あるいは創造の歴史というのは、ごく簡単なものから、あるいは目に見える、捉えやすいものから始まったと思えるので、流線型から逆流線形の船へという流れは一般的な手順を踏んでいるともいえる。これは秩序や社会の仕組みに関しても同じではないか。烏合の衆は、簡単な隊形を取るだけでも、整然と大きな仕事を成し遂げる。ライオンも狩りをする時に使うという、割と簡単な、このようなものから作り始めているのではないか。
 そして長い時をかけて、高度に発展させてきたこの伝統的な文化は、結局、いまだ大脳の働きを捉えるに至っていない。つまり大脳による知的な生命活動というものがどれだけ大事なものであるかを、はっきりと理解できないでいる。

 大脳の知的な生命活動は、非常に複雑高度で広範囲に及ぶものであり、その働きで伝統的な文化も作ってきた。この伝統的な文化でこれからも時代の変化を乗り越え、更なる創造と発展を目指す、というもののように思われます。しかし船の前後を入れ替え、地球は平らから丸くなり、りんごが落ちるではなく引かれていると変化してきたように、我々はこの世界そして我々自身のことを、この大事な大脳の働きのことを無視するわけにはいきません。想像もつかないほどの大きな可能性があるのに活かしていないのではないか。アメリカ号が水の流れに沿って逆流線型にしたように、大脳の働きに沿う文化、知的な生命活動の自律的な流れに沿う文化を、開発しなければならないのではないか。そうすれば、これまでの伝統的な文化の、理想的な形、仕組み、秩序に、大脳の働きを無理に沿わせることによって発生する、大きなそして深刻な障害を乗り越えることができるのではないか。

 次に、誰もが苦労していると思われるその障害を、少しだけ、ごく一般的な生活の中からあげて見たいと思います。

2 伝統的な文化における仕組みと問題点

 理想的な形、しかし流体に沿わない流線型の船、同じように理想的な形、しかし大脳による知的な生命活動の流れに沿わない伝統的な文化、本当に様々な問題が発生している思われますが、その中のごく一部、身近な問題で考えてみます。よって視点が限られていると不満を感じる人もいるかもしれませんが、ここでのテーマ、 大脳の働きと伝統的な文化の関係を考える、入り口にはなると思います。

2-1 理想的な人間がモデル

 例えば、伝統的な文化における社会では、性格のよい、あるいは優秀な人間が評価され、その価値観で育てられます。これはあまりにも当たり前、なぜ問題になるのか、そう思う人が多いかもしれません。しかし、もしこれらの評価に反発あるいは気に留めずに、自らの個性(たとえば強い興味や自律的な思考から来るもの)に関わっていれば、社会の求める予定された工程から外れそうになります。さらに範囲を超えて、個性的で自由なな人生を求めれば、多くの場合、その人の生活は困ったことになります。

 また、優秀とはいえない障害者などは、最初から一段も二段も、あるいはそれ以上に低く見られています。よって障害者も生活に困ることになります。また、女性の場合も一人前には見られていません。しかし普通の、健全と思っている我々も、適切な評価を受けることがないところで生きているのは同じです。

 つまり誰もが生きるうえで極めて重要な、そして人それぞれが違う性質と能力の、大脳にによる知的な生命活動は最初からほとんど取り扱われず、役に立つ好ましい優秀な人間が、割と単純に評価されています。しかし、まあこれも現実の要請に沿わなければならないということで、ほとんどの人にとっては仕方がないとして、受け入れることになります。伝統的な文化による社会がまずあって、その形に沿って生きることに、大脳の働きが合わせているわけです。自らが生きる社会が割りと単純な仕組みであれば、問題処理能力、解決能力が限られていると考えられますので、そこで生きる苦労も大きくなる。

 ほんとうは、健全と思っている我々も、障害者も、理想的な人間像から離れて、それぞれの知的な生命活動をする個性的なごく普通の人間として出発することができれば、伝統的な文化のもとでの人生とはぜんぜん違う人生がある、そう思われます。それにしても、我々が生きる上で極めて重要な、生きることそのものともいえる知的な生命活動が従属的な位置にあるというのは、あまりにも大きな問題が取り残されていると思わざるを得ません。

 もちろんのこと、伝統的な文化においても、個性の問題をまったく無視するわけにはいかないので、個性の尊重ということにはなっています。しかし宇宙や自然の世界では、個性は基礎単位と考えられます。この世界に同じものは一つも無い、同じものと見えても時間も場所もすでに違っています。尊重というあやふやなことでは、つまり大事にされたり無視されたりでは、この自然、そして生物の世界は崩れてしまうのではないか。

2-2 能力、性格に左右される、人間を置く仕組み

 また、我々が生活している伝統的な社会の仕組みは、その役目や働きに応じてそこに人間を置きます。それに、就職すれば我々もその一人になります。これもあまりにも普通のことで、何が問題なのかと怒られそうです。しかしアメリカ号は、理想的な流線型の船の中に、逆流線形で登場し、圧倒的な性能で皆に衝撃を与えました。

 さて、そこに置かれる人間の、能力、性格、経験などは、伝統的な文化における同じ理想的な目標はあるものの、当然のこととしてその成果は一様ではありません。よって、なかなか皆が納得できる人間が置かれるというわけには行きません。能力や経験不足から、様々な不満が出て士気の低下に繋がります。特にひどい場合、下に付く者はやってられないということになります。つまり本当にいるのかどうか分からない優秀で好ましい人間ではなく、我々普通の人間が専門の教育と訓練が十分になされないままそこに置かれる。ちょっと極端に聞こえるかもしれませんが、よく目にすることです。そして何か事件や事故がおきると、専門家がいない、あるいは十分な経験が無ければ最新の機器も宝の持ち腐れという報道や解説もなくなりません。

 我々はこの方式を、子供のころから親や先生を通して学んできました。誰が親になるか、誰が先生になるか、それで日々のあり様が大きく変わってしまう。このような当たり外れのない社会、文化というものはないものか、どうしてもアメリカ号がその鍵を握っているような気がしてなりません。もちろん、そのような親、先生から引き離すという問題ではありません。

 よってこのような状況、文化のもとでは上意下達は無くてはならないもの、ということができます。とにかく秩序は保たねばならない。 

 またこのような状況の中で、とにかく仕事をうまくやり遂げるために、情報の共有もいわれます。しかしこの情報の共有というのは、どれだけいわれても、どれだけ高度情報化社会を支える機器が発達しても、なかなか思うように行きません。つまり、情報の共有といっても、大脳による自律的な活動の無いところに、共有の積極的な意思が働く可能性は低い。さらに、情報の共有などでは追いつかないほど現実は多種多様な要素が関わって流動的であり、伝統的な文化、社会の能力を超えています。そもそも我々は情報の共有化について、その教育と訓練がなされていない可能性があります。

 さらに、仕方がないとはいえ、上意下達といったものが社会全体を覆っているということは、ある意味で大脳の自律的な働きがいらないということにもなってしまい、理想的なものとしての伝統的な文化それ自身が、生命を否定することにもつながっている、ということになります。もちろん否定するつもりで上意下達の仕組みを取り入れているわけではないでしょう。さらに、自分で考えろ、余計なことは考えるな、ともいわれますので、普通の人間にとってはますます困難な世界になっている。

 よって一丸となってと声をかけても、基本的にばらばらになっていくことになります。無理やり一つにする圧力をかけることもあります。あるいは和、協調性を求めることも一般的ですが、これは前述の理想的な人間としての好ましい性格、規範ということになります。

 結論として、優秀な能力と好ましい性格の人間を評価し、それを元に仕組みを作り苦労するか、それとも大脳の複雑で広範な働きとその個性を受けて、その自律的な知的生命活動を支援する、その仕組みを社会の基礎として作り、高い理想を求めず、普通の人間として、皆それぞれに自らの内なるものから発した目標に向かって(あるいはそんなに気張らずに流れに乗るだけの)、充実した人生を送るかということになります。これも、普通の人間が普通に生きることで高い性能を発揮する、文化としてのアメリカ号が決着を付けてくれることでしょう。

 ちなみに、適応という言葉がありますが、まさに伝統的な文化における見方、評価ということになります。最初に何かあってそれに自らを合わせる、これでは我々が創造の主体であることを忘れていることになります。平らと考えていた地球と同じように、人間を(平らと)考えている。このように考えてくると、伝統的な文化というものは、大脳による知的な生命活動というものを捉えていない、ゆえに上意下達、情報の共有、和、協調性、個性の尊重、適応…ということになってしまう。
 また、適応という言葉とともによく出てくる弱肉強食、優勝劣敗などは、我々の理想とされる伝統的な文化のあり方、見方に深く関わっていると思います。つまり、こうであるという色眼鏡で見ている。

2-3 人間も組織も社会も、それぞれが違う回路を描く

 アメリカ号は、流体に沿うという、多くの人がが認めることのできる、科学的な知識で設計され、作られたものです。伝統的な文化で動く社会では、アメリカ号の流体に沿うこと、あるいは大脳による知的な生命活動に沿うことではなく、理想とされた伝統的な流線型の船のように、まだまだこうであろうと信ずるところに従って人間も生き、制度、秩序、仕組みも作られています。つまり誰もが認めることができる、たとえば科学的な物差しで考えられている、設計されている、ということではありません。

 よって個々の人間も、集団や組織も、同じ社会あるいは同じ文化の中で育っても、それぞれにずいぶん違う個性的な思考回路、統合回路といったものを育て発展させることになります。よって、一時は気持ちが通じ合うと思われても、時が経つにつれてその違いが表面化し、やり取りさえもできなくなる。もちろん人間は高度な知的能力を持っていますので、それぞれが違う回路を持っていたとしても、かなりの対応力はあります。よって違うところを見ているから違うともいえますが、この違いが大きな問題を引き起こしているとなれば一応見て置かなければなりません。

 この違ったものを、アメリカ号のように何か確かな自然の法則で作っているということではありませんので、つまり流体に沿うという共通の知識というものはないので、様々な形の船が作られるのと同じ状況になります。

 船を流線型にするか逆流線形にするかという選択肢もない状況では、その形、枠組みについては本当に十人十色のものができあがってくる。そしてそれは個々の人間、組織が社会生活をする上での、他とのやり取りに使われる回路、あるいは思考回路、統合回路というものでもあり、この違いによって、ほんとうに様々な問題が起きる。

 我々は、互いのちょっと違った回路で描かれた方法手順さえ受け入れがたいもので、自分の回路からのものでなければ気がすまない、ということがあります。また一生かみ合わない、かみ合わすことなく一つ屋根の下で生きることも少しも珍しくないようにも見受けられます。会話を例に取れば、もうほんとうに成り立たない、これではいけないと追求すれば、嫌われてお仕舞いになると思わねばなりません。もちろん人間は高い知的能力がありますので、このような状況を乗り越えることができる人もいるでしょう。しかし我々普通の人間にとっては、相手を理解しようという気持ちはあっても、もともとの慣れた自分の回路に戻らざるを得ない。自分が育て発展させてきたものを捨てて、相手の方式、基準、様式、で生きることになれば、それはもう生きた心地がしない、生きる意味も失いかねないことになる。また当然のことながら、無理強いすれば相当大きな争いになることもある。国の単位では戦争です。

 もちろん我々人類はこのような争いの体験を元に、よりよい仕組み、制度を作ることができる。しかし人間の描いた回路は、どんなに優秀なものでも、実際の世界の大きな流動性を描くことができない。また伝統的な社会において作られた私というものは、大脳による知的な生命活動による流動的で膨大な知的統合がされる実際の世界を反映しない、この実態に対応できない形で作られてしまう。

 これが世の中というもの人生だというのでは、アメリカ号は生まれません。それに我々の身体の方はどれだけうまくできているか、その驚くべき仕組みを考えると、大脳による知的な生命活動ということにおいて、なかなか解決できないでいるというのは、その難しさもあるとは思いますが、やはり想像もできないほどの可能性を埋もれたままにしている、と思わざるを得ません。

2-4 魂の叫び

 このような状況のもとでは、魂の叫びといったことも発生している。我々の生命そのものと思われる大脳の知的な生命活動、その自律的な統合活動が一向に改善されない状態を、大脳は魂の叫びとして感じることができる。放っておけば病にならないとも限らない状態に我々は置かれている。生命は自律的な生命活動があって初めて生命を得る。終われば死です。よって実際は多くの人が病にかかっている状態にある。病でなくとも心の歪みとなって行動に現れる。特に多感な青春時代には、このような状況の下での死にたいとの魂の叫びは、当然かもしれません。もちろん解消するもの、歪みを正すものはいろいろ用意されてはいるでしょう。自然の中に身を置いて、人間のもともとの自然の状態を取り戻すというのも、その一つかも知れません。酒の効用もあるでしょう、正気を取り戻そうと飲まずにはいられない。しかしそうはいっても、この歪みによってごく普通の人が見せるぎょっとするような心、これを根本から解決するのは本当に難しい。また内面に悩み苦しみを持ちながら、それでも立派に社会生活を送るのは大変なことだと思います、しかし何とかやっていかなければならない。

 それにしても本来の知的な生命活動というのはどういうものか、もっともっと活発なものではないのか、われわれは時折そういうものを見ているようにも思います。私の中にジャングルのイメージで浮かび上がってくるのはそういうことではないか。今はどこでも活性化が叫ばれていますが、一時の盛り上がりではなく、持続的なそして想像もできないほどの活性化、その手がかりは、流体に沿い新しい時代を開いたアメリカ号の逆流線形にあるのではないか、そう思われてなりません。

 また永遠の魂という言葉も聞きます。どうして魂は永遠と結びついているのか。大脳の働きである知的な生命活動は、その生命という個としてはとても頼りない存在にかかわらず、この自然や宇宙に連なるもの、同じものとして働いています。つまりそもそも永遠なものとして働いているのですが、理想的なものとしての伝統的な文化のもとでは、ごく小さな存在に分断されてしまう、そのようなことが生命に起きていることを大脳は感じ、永遠の魂として何とかするよう警告を発しているのだと思います。

 彷徨(ほうこう)する魂というのもあります。社会の大きな変化で、住むところも変わり、一緒に暮らしていた地域の人々とも別れて、知らない人々の中で生きる。人間として、日々の暮らしに必要な、細やかな感情も含んだ知的な生命活動が失われ、再構築もできないでさまよう。理想とされる伝統的な文化においては、この再構築する能力はとても低いと私は考えています。
 また、うつ病、さらには様々なコンプレックスも、伝統的な文化によってもたらされるのではないか、そのように感じます。

 さてこのような状況を乗り越えるには、大脳による知的な生命活動に沿った文化を開発すること、そうすればあの逆流線形のアメリカ号のように、圧倒的な性能で伝統的な流線型の船を置いてきぼりにできる。個々の生命も、水を得た魚のように活発になり、一人ぼっちという頼りない存在から、この世界に太く強い線で結ばれた存在として生きることができる。この世界で、私はいったい何をしたらという悩みも雲散霧消する。まさに生物としての自由と安定性を取り戻すことができる。

 もちろん旧式となった流線型の形も、魚などから学んだ人間の素晴らしい創造物であり、一時代を担ったことに間違いありません。これは伝統的な文化としての社会の仕組みも同じで、初めのころの素朴な仕組みから始まり、そして変化する世界に対処して様々なものを創造して来たものと思います。そして今では、文明といわれるほどの世界で我々は暮らしています。ちなみに、流線型そのものに罪はありませんので、これからもずっと様々なところで使われることでしょう。


Ⅳ 知的な生命活動の流れに沿う文化の開発(文化としてのアメリカ号)

 理想とされた伝統的な流線型の船から、圧倒的な性能を発揮したアメリカ号の、流体に沿った逆流線形へと時代は移ってきました。同じように、理想としての伝統的な文化から、大脳の知的な生命活動の流れに沿った文化の開発で、圧倒的な創造力を発揮して、新しい時代を開くことができる。

 個々の人間の行う、非常に広範な知的生命活動の内容から考えると、たった一人の人間でも、その活動の量、大きさは、はるかに想像を超えるものではないかと思います。長年の発明や発見の偉大な歴史によるばかりでなく、誰もが例外なく行う日常的な知的生命活動によって、宇宙や自然の上に、新たに、知的な統合活動をする空間といえるものを出現させているのではないか、つまり知的な生命活動とは、宇宙や自然に連なる知的な統合活動といえるのではないか。次にこの問題を考えてみます。


1 知的統合空間の存在

 まず、現在我々が生活のよりどころとしている伝統的な文化は、大脳の働きで創造して来たものです。伝統的な流線型の船も逆流線形のアメリカ号も同じです。一方、大脳は宇宙の活動や自然の進化によってもたらされたもの、宇宙や自然の創造物です。逆流線形でアメリカ号が沿った流体も宇宙の創造物です。

 そしてその働き、つまり大脳による知的な生命活動あるいは流体の流れそのものも我々は作ることができません。さらに個々の知的生命活動が集まる地球規模の知的生命活動の場、これも作ることはできません。その場は、まさに一時も休むことなく創造活動(=知的な生命活動)を続ける、形もその実態も捉えきれない世界です。人類の進化とともに作ってきたものです。我々ができることは、アメリカ号が流体に沿って逆流線形の形を取ったように、大脳による自律的な知的生命活動の働きに沿って、さまざまな道具、仕組み、つまり文化を作ることであると考えます。もちろん、この知的な生命活動は多岐にわたり、流動的で、本当に24時間そして一生に及ぶ、未知の世界を前にした、なかなか捉えることも難しい複雑なものです。しかもそれぞれにこの大脳の働きは個性的です。よってこの仕組みというもは、伝統的な文化とは反対に、無数の大脳が創造活動をする本当に大きな空間、これを管理し従わせるのではなく、あくまでもこれに沿うものになります。沿うということは、無数の大脳(現在は60億?)による膨大な創造活動をそのままに、その混沌の中から、まさに創造活動を創造活動で捉えていくことになると考えます。

 理想とされる伝統的な文化は、この大脳による知的な生命活動の流れを、結果としてせき止め、分断し、無理やり曲げるなどして様々な深刻な問題を発生させていると考えられます。

 さて我々が生まれ進化してきた、その土台になる宇宙も自然も、その創造活動する場として空間というものがあります。同じように大脳による知的な生命活動をしている場、実際は地球全体に人類が広まっていますので地球規模の知的生命活動の場、空間というものがあると考えることができます。そして宇宙を無機的統合空間、自然を有機的統合空間と呼ぶように、大脳による知的な生命活動をする場を知的統合空間と呼ぶことができます。(宇宙の無機的統合空間および自然の有機的統合空間という言葉については、今西錦司著、生物の世界より。

 人と人、人と物のやり取りを、知的な統合活動、その場を知的な統合空間と考えることができるというわけです。確かに、たった一人の中においても、非常に活発な、あるいは非常に広範囲の、どれだけ多種多様なことを考えているか分からないぐらいの、そしてそれぞれの要素がさらに大きな世界へと広がっているようです。このように考えると、我々人間の知的な生命活動も、宇宙や自然には及ばないかもしれないが、膨大な量の統合活動が行われていると考えることができます。大脳がどれほど働いているのか、それは想像もつかないほどのものではないのか。それが二人になれば、グループになれば、そして組織になれば、どれほど大きなものになるか。この働きを測ることはできないものだろうか。この大脳の働きを阻害するのではなく、支援し促す文化へ、そうすればどれだけ大きな創造力が生まれるか、これまでにない方向で、見たことも無い形で、このことを考えると一時も早くそうなることを願わずにいられません。

2 統合体段階の文化と空間段階の文化

 ここで理想とされる伝統的な文化と、大脳の知的な生命活動の流れに沿った文化を、文化の発展という視点から整理しておきます。

 我々の考えるどんなに理想的なものでも、あるいは高度で優秀なものでも、それは統合空間で統合された統合体となります。統合空間ではありません。よって人間が観察し考え創造した理想的とされる伝統的な文化の段階を、統合体段階の文化と呼ぶことができます。

 一方、より流体に沿った逆流線形のアメリカ号のように、大脳の知的な生命活動の働き、その流れに沿う段階の文化を、空間段階の文化と呼ぶことができると考えます。もちろん空間段階の文化もその仕組みは統合体であり、その発展とともにより優秀な統合体を作り続けていくことになります。統合空間は一時も休むことなく統合体を作り続けます。統合体段階の文化では、この統合体を作り続けることを、強く大きく理想とされた統合体によって、我々の統合活動が妨げられていることが問題であったわけです。

 さて統合体と統合空間では非常に大きな違い、飛躍があります。一時も休まず場の全体で統合活動(=創造活動)を繰り返し、常にその形を変化させる統合空間そのものは作ることができません。大脳による知的な生命活動によって常に変化しているものであり、捉えようとする先から変わって行きます。しかし、この働きに沿うことはできる、つまり逆流線形の船、アメリカ号が流体に沿って形を前後させたように、知的な統合活動という動き、働きに沿うことはできる。沿うことによって大脳の知的統合活動は活発になり、非常に大きな創造力も生まれ、知的統合空間はさらに大きく発展していくものと思います。

 また知的統合にも、流体力学に対応した統合力学というものがあるかもしれません。次にその力学に関連するかもしれない情報の機能化、つまり大脳の知的な生命活動に沿うための仕組み、その活動を支え促すことになる仕組みについて考えます。


3 空間段階の文化の開発

 どれか著しく強い統合体、これ以上にない理想的なもの、ではなく、それらすべての元になっている知的統合空間、それこそが我々の最も頼りにできるものであり、この空間の統合活動の流れに沿う文化の開発によって、統合活動の量、質、自由、隅々まで及ぶ一体性を高度に実現できるものと思います。


3-1高度情報機能化社会

 進化という、生物の世界の大きな流れを受け、新たな世界を開こうとしている大脳の知的な生命活動、そしてこの世に生を受けたすべての人間の大脳による知的統合空間、その活動を全面的に支え促す空間段階の文化は、伝統的な流線型の船を圧倒的な性能で置いてきぼりにしたあの逆流線形のアメリカ号が流体に沿ったように、知的統合の流れに沿い、この流れを質、量とも大幅に増大するものと思われます。つまり個々の人間も組織や社会も、空間段階の文化によってこれまでない知的な生命活動を始めることになります。それはまるで文化の生命化ともいえるもの、本当に人間が生きるにふさわしい、他の二つの統合空間と同等の、緻密な仕組みを持つものになるでしょう。

 さて、その知的統合とは、知の粒子による統合活動であり、知の粒子とは一つ一つの情報、そこから大脳の統合活動を支え促す高度な情報機能というものが考えられます。進化という生物の世界の大きな流れを受け、新たな世界を開こうとしている大脳の知的な生命活動に対して、また個々の人間の成長とその一生に対して、そしてこの個性的な人間による知的統合空間の課題の解決のために、誰もが自由に統合活動をできる仕組みを考えられるだけ用意する。しかも静的なものではなく、活動を支え促す動的なものになる。情報を持つものが得をする、勝ちを得るといった高度情報化社会をさらに進め、知的な生命活動をし、創造の主体である人間を、海のように誰彼無しに支える高度情報機能化社会へと、質的に飛躍させなければなりません。また統合体同士が対立する、統合体段階の文化のように、「由らしむべく知らしむべからず」といった考えは、もちろん論外です。

 もともと溢れんばかりの興味をこの世界に持っている我々の創造活動は、想像もできないほど活発になり、それぞれの脳を持つ個人と、様々な社会の仕組みの、一切を含む変幻自在の組み合わせはさらに優秀で高度な統合体を作り続け、その統合速度も驚くほど速いものになると思われます。しかしその活発さや速度にもかかわらず、宇宙や自然のように驚くほど安定し静穏なものでもある、と考えられます。なぜなら知的統合の流れが遮(さえぎ)られたり、曲げられることもなくなり、我々も社会もその働きで問題は速やかに解決され、新たな道が次々と開かれる満足した日常が来るからであると考えます。

 思えば、流体の流れに沿った逆流線形のアメリカ号の波は小さく、その圧倒的な性能に比べて静かな走りをする、これは帆走の知識と経験からもいえることです。

 次に、もう少し空間段階の文化についてのイメージを明確にしたいと思います。


 統合体段階の文化と空間段階の文化については「造性の世界」1993も参照のこと。


Ⅴ 空間段階の文化

 生命の無い統合体が牛耳る文化から、生命そのものの働きに沿う文化で生きる。

1 夢のような世界

 今の社会に生活する我々にとって、空間段階の文化で生きることは、想像もできない夢のような世界といえます。生活のためだけでなく、生きることのための本当に充実した内容のサービス、つまり知的な生命活動のための様々な仕組みがあり、そこで我々はほんとうに豊かな人生をおくることができるようになる。個人は誰もが水を得た魚のように、自律的な知的生命活動を活発化させる。他の生物と同じように、まさに生命活動をする人間として生きることになります。

 また、その活発さ、どこまでも広がる統合活動の場、縦横のやり取りとその量は、現在の生活とは比べ物にならないものになるでしょう。自律的な活動を妨(さまた)げられていた我々にとっては、本当に快適な社会と感じられる。これが現在の伝統的な文化の創造活動(=統合活動)に比べてどれだけ優秀なものになるか、ひとつの企業で、行政で、あるいは教育で、そこに関わる誰もがこれまでにない、たぶん想像もできないほどのサービス、快適さ、連携のよさを受け取ることになるでしょう。

 そして成長すれば、大脳による知的統合空間の課題を達成するために、自らも変化する創造の主体として、その個性のままに能力を思う存分発揮することができる。そしてその知的な生命活動を終える時、穏やかな気持ちの中で「やったなあ」という思いを持つことができると思います。

 統合体段階の文化から空間段階の文化へ、その開発は、それぞれの個人の個性的な人生を、そして個性的に関わる社会生活を、普通の誰もができるようになる、そのように確信しています。これは人間が本来の人間としての可能性を大きく広げたもの、あるいはやっと人間になったともいえるものです。人間になれば、多くの心の病は解消するものと思われます。その上で、統合体というどんなに大きくても限定的でしかない枠の中から、大きく広がった空間の中に、個性のままに飛び出すことになります。飛び出すといっても、強い心と優秀な能力、そして特別な才能を持つ人間ではなく、普通の人間が普通のままで可能になる。

 飛行機によって大空を飛ぶ自由を得たように、我々の知的な生命活動は、空間段階の文化によって今は想像もできないほどの大きな自由を得ることになる。その自由は社会を一変させ、戦争も地球の危機的な状況も解決可能な、アメリカ号が見せたような圧倒的な性能、つまり圧倒的な創造力を発揮することになると考えられます。



 100年以上前に、世界で初めてヨットによる単独世界一周をやり遂げたスローカム船長の航海記には、「やがて来るばら色の未来」という歌を口ずさむところが出てきます。彼ら先駆者によって、今では小さなヨットによる航海が、ほんとうに普通の誰もができるようになり、私も自らのテーマをかかえて、海と空をたっぷり眺めながら、自然と文化を直接たずねる航海をすることができました。スローカム船長が口ずさんだばら色の未来を本物にするために、便利で豊かになった世界にもうひとつ、文化のアメリカ号である、空間段階の文化を提案します。

2 海のように誰彼なし

 まず知的統合空間は、海と同じようにどんな人間をも区別しません。統合体段階の文化における、ある理想的なあるいは強い統合体に皆が従い、その求めに応じるのではなく、全ての大脳の働き、そのことこそ大事、というわけです。よって誰でも、知的統合活動をする者として、一切の区別をしません。障害のある者も無いと思っている者も、まるで正反対の主義主張をする者も、生まれも育ちも一切問題にしません。大脳による自律的な知的生命活動を支え促すこと、これだけが知的統合空間に沿う空間段階の文化の目差すところとになります。そして、空間段階の文化は、これをより高性能な仕組みにすることのみ求め続けます。それを他でもない我々自身が、日々の知的な生命活動として直接作っていくわけです。

 それに、区別あるいは対立し差別しようにも、知的統合空間という存在そのものが、どちらの側にも大きな影響を及ぼしてしまい、それらが生まれる余地をなくしてしまいます。自然界の中で、多種多様な細菌がうまく収まっているのに似ています。統合体段階の文化においては、強い優秀な統合体が影響を及ぼしていましたが、誰でもが個性的な統合活動を支えられ促される中では、対立し差別しているひまはないという状況になるでしょう。そうでなくとも、統合体段階の文化で妨げられていた自律的な統合活動によって、無数の関係が結ばれる状態になります。ここからさらに次なる創造活動が生まれるという状況の下では、健全な統合体としての対立はあっても、負の統合体が大きく育つ余地はありません。

 宇宙の創造活動、そして自然の進化、それらの長い歴史を受け、今や大脳による知的統合空間という非常に大きな統合空間を生み出した人類は、その能力を最大限に発揮して、非常に高度な、そして緻密な仕組みを作り、その統合空間を宇宙にまで広げようとしています。そして人間であれば誰もが、その大きな知的統合空間の、統合活動のまっただ中に在るというわけです。

3 水を得た魚

 さて、海のように誰彼なしに支える知的統合空間と、それに沿う空間段階の文化のもとで、我々の統合体段階の文化のもとで妨げられていた、自律的な統合活動が、水を得た魚のように勢いを増すことになります。どれだけの統合作用が起き、どれだけのものが作られるか想像もつきません。そしてそれらの膨大な創造力は、知的統合空間の持っている課題の解決に、自然に向かうことになります。統合体は、自らの統合体の都合を最優先に考えますが、同じように空間も空間の課題、問題、危機を放っておくことはありません。それを、水を得て元気になった、普通の誰もが関わることになる。しかも普段から、本当にごく自然な形の取り組みがなされ、強制や無関心は影を潜めるでしょう。

 もちろん水を得た魚のすることは、空間における課題の解決ということばかりではありません。自由な、個性的な活動をする大脳は、その大脳が考え求めるだけの活動をすることになるでしょう。統合体段階の文化ではできなかった、地球全体を覆う知的統合空間を舞台にした遊び、旅行、探検、交流、空間としての新しい芸術、ほんとうに誰でも、今は想像もできない面白い日々をすごすことになると考えられます。人間という知的な生命活動をするものが、職業を生きるのではなく人間を生きるというわけです。そして知的統合空間ならではの、新しい多種多様な文化が花盛りということになると考えられます。どんなことになるか、どんなものが生まれるか、想像することさえ難しいですし、毎日が遊び切れないことにもなる。もちろん、いわゆる仕事もする。しかし統合体段階の文化において発生していた膨大な無駄、融通の利かない仕組みや統合体同士の対立による問題が無くなり、ライオンが狩をするときに取る隊形の千倍万倍も自由自在な流動性を持つ形と、水を得てこれまでになく能力を高めた人間が、どれだけ仕事の成果を上げるか、これも想像がつきません。

4 個性は基礎単位

 さて統合体段階の文化では、枠から外れる人間の個性を「個性の尊重」とした問題、この個人にとってごく身近な、そして一生を通して影響があるこの問題はどうなるでしょうか。

 人生の出発時に、誰もが生まれ持ってきたそれぞれ他人とは違う大脳により、さらに生れ落ちた個性的な環境の中で、しかもその時点ですでに変化し流動化する状況の中で、それぞれの大脳の持つ方法手順で知的統合を始めますが、このような中での自律的な知的統合活動は、その小さな知の粒子の一つ一つ、そしてそれらの統合作用の一つ一つが、この世界に二つと無い個性的なものになりますので、誰もが個性的な人間になり、そしてその集団もまた個性的な文化を作ることになります。もともと知的な生命活動はこのような個性的な場での統合活動でしたが、統合体段階の文化ではこれを時代に合わせて、一つの理想的あるいは現実的なと考えられる枠で抑えて、問題を解決して来たともいえます。

 この個性を殺してまで統合体段階の文化で大きな問題になった枠、理想とされる秩序は、我々にとって大きな課題であったといえます。つまり、ばらばらで動く人間を一つの統制を持って動かす、まとめるという解決すべき時代あるいは集団の要請があった。それは自然に対するものでもあり、また致し方なく、敵対する強く大きな統合体に対応するものでもあった。そして長い時を経た今、この伝統的な枠組みを超えなければならないという課題に直面している。統合体段階の文化のもと、強大に育った統合体が地球規模で張り合う状況になり、地球が壊れても争いを止めない、止められない不安が漂っている。

 知的統合空間で育つ個性的な人間と、これまで以上に個性的な文化は、全体としては知的統合空間のより豊かな世界をさらに豊かにすると考えられます。さらに、この非常に安定した宇宙、自然に支えられた知的統合空間、これに沿った空間段階の文化によって、非常に個性的な人間、個性的な文化の出現も考えられます。統合体段階の文化では無視され隠れていた、多くの個性というものが現れるのではないか、そのようにも考えられます。自然の世界は、つまり有機的統合空間はこのようにして、豊かに、さらに豊かにと発展してきたものと思います。

5 主従の逆転

 これまで見てきたように、統合体段階の文化においては、自律的な知的統合活動が妨げられます。また伝統的な文化の枠が、人間の内に思考回路といったもので形成される、と考えられます。これは個人の内部ばかりの問題ではなく、統合体段階の文化に対応し成長した枠が、社会全体としても強大なものになっています。このことは、大脳の自律的な知的生命活動が主ではなく、伝統的な文化の枠が主なるものとして働いていることになります。創造の主体である知的な生命活動が十分に働けない、創造性を発揮できない状況の下にあるわけです。
 このことによって魂の叫びなど知的な生命活動の歪みからくると思われる、病も見ることができました。

 本来の主人公である知的な生命活動が、伝統的な文化という、空間段階の文化から見ると従なるものに牛耳られているわけです。それが知的な生命活動の流れに沿う空間段階の文化によって、本来の主人公の座を取り戻す、まさに主従の逆転です。自律的な知的生命活動をする創造の主体である私が、その主体によって作られていくものとしての統合体と入れ替わり、本来の座に着くというわけです。このことによって空間段階の文化のもとでの私というものは、統合体段階の文化における頑なな私というものから、自由な統合活動を続けるよほど柔軟な私になると思われます。本来の生命が持つ、創造の主体性を取り戻す、あるいは個々の人間における流体に沿う逆流線形のアメリカ号の誕生、大脳による知的な生命活動の流れに沿う形です。どんなに軽やかに生きることができるか、それも一時のことではなく一生を通してであり、よって勉強も仕事も本当に楽しいものになるでしょう。そしてこれは、空間段階の文化のもとに生れ落ちれば、例外なく、自然に誰もがそうなるということです。これは本来の人間はこのようなものではないかと推測された姿でもあり、あるいは大脳を持った生物の、長く厳しい文化の進化あるいは歴史を経て創造される、予定された姿であるともいえます。

6 同じ統合回路で

 統合体段階の文化のもとで、思考回路あるいは統合回路というものを描けば、何億という人間の数だけ描かれることになる。似ている回路もあるかもしれないが、多くは違ったものが描かれることになる。しかし空間段階の文化としての回路なら、どれだけ個性的なものであっても、空間として共通する、同じ一つの法則による回路が描かれることになります。これは、個性的な姿かたちをした大小様々な用途の船が、逆流線型の法則のもとに設計されているのと同じです。

 知的な統合活動を始めた脳は、その手順方法にそって、うまれ落ちた環境を自分のものとしていきます。私にはこの脳の働きに対する知識はありませんが、初めはこの世界の形、広さを知ることでしょうか。生命は生命活動あって初めて生命を持つといえますので、大脳にとっては自律的な統合活動ほど大事なものはありません。

 この自律的な知的生命活動を受けて、大脳は知的な統合回路といえるものも描くと思われます。空間段階の文化を持つことは、知的統合空間に対応する回路を、全ての人間が育て持つことになります。皆が統合空間としての回路を持つことは、それぞれの仕事における固有技術を支える、誰もが持つ基礎技術として大きな役目をすることにもなります。今はこの基礎技術としての回路がなく、簡単な情報の共有さえままなりません。空間段階の文化としての回路を持てば、職場が変わっても、職種が変わっても、さらに住む国が変わっても、問題ないということになります。これは家庭でも同じであり、さらに友人知人とあらゆるやり取りの場で共通の回路を持つことになります。その上で個々の人間の個性を思う存分発展させられるというわけです。

 このことによって、統合体段階の文化におけるような、知的な生命活動を妨げる、生命と相反するともいえる回路は作らなくなります。また統合体としての回路は、空間としての回路と違い、様々な道具と同じように、規格とか形式とか、ちょっとした違いが問題になってしまうと考えられます。よって個々の人間がそれぞれ違う回路、さらにグループや組織もそれぞれ違う回路で本当に大きな苦労をし、犠牲を出したのが、空間としての回路ではうそのように解消します。

 特に自分のやり方に固執しているということでなくても、他人から口出しされるのは本当に嫌だという気持ちをほとんどの人が味わってきました。時には争いにも発展します。空間としての回路では、個性としての違いなので、口出しするということもなくなるでしょう。そんな争いをし波立てている間に、空間段階の文化としてのアメリカ号は、はるか彼方に走り去ることになります。

7 空間で繋がる

 統合体段階の文化における人と人のつながりは、とても弱く細い糸のように見えます。しかもその数も少ない。これは人と人の間だけでなく、自然や社会との間でも、同じように繋がりの糸は細いのではないかと思います。自律的な知的統合活動のないところに、無数の関係線で太く強い繋がりを結ぶのは難しいと思います。心理学関係の本では、空虚な心というものが、人もうらやむ順調な人生を一番の盛りの時に崩壊させてしまう、そのような例を読んだ記憶があります。

 さて普段、特に意識しないとは思いますが、孤独は自らも求めますし、知的な生命活動には必要なものと考えられます。特に創造性の高い作業をする時は、多くの人が一人になるように思われます。
 しかしこれと違って、孤立やひどい孤独感は、誰しも苦しいものです。もちろん空間段階の文化では、このようなひどい苦しみは考えられません。統合体段階の文化とは大きく違って、誰もがその個性のままに、その統合活動を妨げられずに続けることができます。様々な種類の、無数の関係線が容易に作られる。それが自然な形で、知的な生命活動そのことによって誰もが作ってしまうことになります。

 よって様々な変化が現れる、組織の中でのチームが、チームにならないといった問題は容易に解決されるでしょうし、辺境の地で広報が課題という悩みも、統合体ではなく統合空間に替わることで消失するでしょう。

 空間段階の文化においては、個人は生きるうえでの全的な知的統合活動を促され支援されます。いくつもの仕組み、回路で支えられ、我々の生きる場は大きな広がりを持つことになる。また現在の、統合体段階の文化で見られる仕組み、制度の何倍もの自由度の利くものになり、選択肢も非常に多くなります。これらの仕組みは、個々の大脳が考えるだけ作られる。子供のころから始めるこの統合活動によって、全体空間に大きく羽ばたくテーマもいっぱい育つことになるものと思われます。このように、空間段階の文化は空間全体と個人を、直接的につなぐものになります。個人はこの知的統合空間全体を自らの知的統合の舞台にすることができる。テーマで直接繋がるというわけです。例えいくつもの経路があっても、それらは空間の回路で一つに統合されており、太く強い関係線で結ばれていることになります。

 このような舞台の上では、孤立やひどい孤独、あるいは疎外感といった負の感情は生まれようもありません。知的統合空間の最果ての地でも、ひどく寂しい思いをすることは無いでしょう。

8 第三の統合空間

 近ごろ、ほとんど聞くことはありませんが、自然はもう征服する対象から外されたのでしょうか。そのような思いを持つのが当然なように、我々の大脳による知的な生命活動は、想像以上に大きな力を持っていると思います。人類は、生命の誕生とその進化を受け、今では地球上に広がることができました。驚くことに、氷の世界でも生活しています。どのようことがあってここで生きることにしたのでしょうか。さらに驚くことに、この広がりは宇宙にも及ぼうとしています。我々の世界を宇宙にまで広げようという思いは、大脳を作ってきた創造の主体である自然そしてさらに宇宙の思いでもある、そう考えることもできます。

 自然の発展と進化の成果でもある大脳の知的な生命活動を、しっかりと捉え、その働きを見れば、我々の活動によって新たな知的な統合空間というものが生まれている、そう考えられます。このように考えると、自然は征服するものではなく、共に統合空間として発展していくもの、その更なる発展を、知的な生命活動に託したともいえます。

 また地球における生命の誕生とその進化は、大脳による知的統合空間と空間段階の文化によって大きく飛躍する、そう思われます。これは、まさに宇宙、自然に次ぐ第三の空間と考えることができるのではないでしょうか。無機的統合空間、有機的統合空間そして知的統合空間です。この第三の空間で、そして宇宙で、どんな物語が待っているのでしょうか。

9 知的統合の大いなる力

 現在は統合体段階の文化であり、我々の知的統合活動は大きく妨げられています。これが空間段階の文化によって、我々の知的統合活動が支えられ促されることになれば、どれだけ大きな力になるか、たぶん想像もつかないものであると思います。

 知的統合空間全体で爆発が起きる、それほど大きな知的統合作用が起きるのではないか。個々の人間の創造活動は活発になり、個人の能力はこれまでにないものになる。集団ではさらにそれらが新しい統合活動を生んで倍増する。社会ではそれらが合流し、どれだけ大きなものになるか。知的統合力の大きさ、そしてその統合速度はこれまでになく高まり、個性的な様々な形と自在な変化で膨大な創造力が生まれる。知的統合の回路も、複合的で非常に高度なものが生まれてくるでしょう。これでどれだけ大きな仕事が素早くできるか、まさに夢のような仕組み、道具を持つことになる。統合空間としての同じ統合回路、思考回路を持った個々の人間とこれらの仕組みにより、非常に難しい問題も解決の可能性が見えてくる。

 この知的統合の大いなる力によって、統合体段階の文化ではほとんど取り組めなかった難しい問題も解決することができるのではないか。知的統合空間という誰にとっても共通する存在、そしてその高い統合力によって、戦争さえ無くすことができるのではないか。さらに核廃絶、地球規模の環境破壊と気候変動、種の絶滅、資源の枯渇、貧困や格差の解決も見えてくる。差別する人間も差別される人間も、個性的ではあっても、同じ空間でともに統合作用を続け、この世界を豊かにさらに豊かにする一員として、これまでの世界を一転して別の世界にできるのではないか。我々の大脳による知的な生命活動は空間段階の文化によって大きな可能性を開くことができる、そう思われてなりません。

10 統合空間と統合体

 空間段階の文化になれば、個々の人間は水を得た魚となってさらに活発な統合活動を開始し、統合体段階の文化とは比較にならない膨大な数の統合体が作られることになるでしょう。そして量だけでなく、ほんとうに多種多様な、そして今では考えることもできない新しい統合体も様々な分野で次々と統合されるものと考えられます。空間段階の文化としての仕組みも次々と作られていきます。そしてその仕組みは、生命というものにふさわしいところまで発展していくでしょう。

 我々は生まれたときから死ぬまで本当に膨大な量の統合活動をして、困難を乗り越え、未知の世界に挑戦し、様々な関係を作り、発見をし、年齢による変化にも対応して成長し、熟成もしていきます。これらの活動を支えるのにふさわしい、それは身体の驚異的な仕組みに勝るとも劣らない、生きるという活動がまさに生命活動といえるものになる、そのような空間段階の文化の仕組みを作ることになるでしょう。

 統合空間における、統合体を作る活発な統合活動こそが、生きるという活動を、本来の生命に求められるものにする、そのように考えます。

11 自律と秩序

 統合体段階の文化においては、個人も、組織もみなそれぞれに、統合体という、他とのやり取りにおいて非常に能力の低いものを作り、これを中心に置くことになりました。よってどうしても秩序あるいは管理というものが放っておけない問題として付きまとい、上意下達、協調性などが求められました。いわゆる勝手な動きというものが許されない。手足まで縛られた感じをもった人も少なくないかもしれません。

 それが空間段階の文化においては、高度情報機能で支えられる、一つの活発な統合空間というもので繋がれ、皆が共通する統合回路、思考回路というものを描くことになります。これによって非常に高い情報の共有、あるいは課題の共有といったものも生まれ、その解決のために当然のごとく、自発的に、広範な協力を求めて事に当たることになります。つまり秩序や管理といったものは、それぞれの統合空間の中に内在化することになり、自らの活発な統合活動を妨げるものではなくなります。つまり上意下達などの方法で保ってきた統合体段階の文化による秩序は、高度情報機能によって保たれることになります。極端にいえば勝手なマネも可能になるわけです。あるいは大いに自由な活動が許されるということになります。どんなに勝手なまねをしても、自由に活動しても、統合空間としての全ての要素が、個々の人間の統合回路、思考回路に描かれている。知的統合空間全体を舞台にした大いなる創造活動も問題ない、問題ないどころか求められているということになります。自律的な知的統合活動は、空間段階の文化を支える高度情報機能によって、高い創造性を発揮するだけでなく、秩序もまた生み出すことになります。まさに相対的自律まで進んできたものが絶対自律の世界になる。

12 安全性

 自律的な知的統合活動が支え促され、魂の叫びなど深く生命に関わる病の少ない空間段階の文化においては、犯罪もまた非常に少ない社会であると考えることができます。

 事故については、前述の「同じ回路」にあるように、これが事故防止についての基礎技術としても有効に働くと思います。情報や課題の高度な共有が実現している場においては、上意下達で丸投げの世界とは違い、実際の混沌とした世界の、ほとんどの要素を取り上げて検討することになるでしょう。問題や不安があってもそのまま突き進むということはほぼ考えられない。問題の先送りは、統合体段階の文化の特徴といってもいい。それに統合体同士が対立し争うことになる統合体段階の文化とは違い、非常に高度な協力体制そして柔軟な対応能力がある空間段階の文化の違いが基本にあります。

 さて、統合体段階の文化から空間段階の文化に移行した場合、戦争という大きな問題はどうなるでしょう。知的統合空間に沿う空間段階の文化の中で、統合空間としての土台を持たない強く大きな統合体が育つことはありません。それを構成する統合体としての人間も育つことはない。何しろ流体に沿う逆流線形のアメリカ号の性能とは、馬車と自動車が競争するようなものであるし、我々にしても、鎖で縛られたような日々を何も自分だけ送ることは考えられない。様々な問題は、他の統合体との間にではなく、知的統合空間そのものの中にあり、その課題を解決するためにこそ知的な生命活動をする。そしてその空間は、すべての人間の大脳によって作られているものであリ、より豊かに、より対応力のある強い空間に育て、そして今は想像もできない高度な能力を持って宇宙に広がっていくものと思う。

13 失業のない世界

 まず大きな違いとして、統合体段階の文化においては職業を生きるということがあります。一方、空間段階の文化においては人間を生きるということになります。こちらの方は定年ということがありません。

 職ではなく、まず人間を生きる空間段階の文化においては、高度情報化社会からさらに高度情報機能化社会へと進み、高度情報機能に携わる職も生まれるでしょう。これは空間の基礎的な仕事であり、空間のどこででも必要とされます。またこの仕事は、いわゆるコンピュータなどの機器ではなく、それらの機器を使っての大脳を持つ人間が直接するものと考えられます。形もその動きも捉えきれない知的統合空間の混沌とした状況を、その混沌のままに捉える様々な技術が生まれてくるものと思います。それにこれらの仕事は、様々な場面があり、時には集中力が求められることもあると思いますが、多くの場面では面白く楽しいものとなると予想されます。そして、子供の時から自然にこの機能を体験し身に着けることになる。またこの機能そのものに関わる以外に、この機能によって生まれてくる新たなサービス、仕事も出て来ることになるでしょう。統合体段階の文化で体験した、仕事の取り合いではなく、皆が仕事を作る方にも直接関わることになります。

 また空間段階の文化においては、その規模がごく小さいものであっても、あるいは大きいものでも、知的統合空間の課題の解決が仕事になる。この課題は空間の回路を持つ皆が自分のこととして感じており、このことからも基礎的な情報の共有ができている、というよりも身に付いている状況の中での仕事になります。

 空間としての回路が内外にあり、そして高度情報機能に関わる仕事をほとんどの人がやったことがあり、よって基礎的な情報も皆が身に付けるけている、このように緻密なやり取りで結ばれた、その機会が常に用意されている社会においては、失業を生み出す多くの要因が解消されるものと考えます。

14 高度情報機能化社会

 無数の大脳によって、一時も休むことなく統合作用を続ける知的統合空間、この空間の混沌として捉えきれない形、動きを、その混沌のままに捉える技術、たとえばKJ法がある。そして個々の大脳が自律的な知的統合をその個性のままに、そして様々な連携で進めることができる。ほんとうに日常の生活の場から空間全体に広がる仕組み、しかもこれを生命活動にふさわしいまで高度なものにする。

 この機能によって、我々はほんとうに様々、多種多様な仕組みにつながれていることを実感することでしょう。この仕組みによって、統合体段階の文化のように身動きが取れなくなるのではなく、ほんとうに柔軟で、個性に合わせた無数の道が取れる海を用意することになります。我々は水を得た魚のように統合活動をする、しかも統合空間というものの課題あるいは知的な生命活動の求めるものから少しも離れずに進めることができる。離れれば統合体段階の文化で見た、空虚な心という病が生まれる。

 高度情報機能の仕組みは車やテレビとまったく同じ技術的なものであり、不具合があればたちまち故障していつものように動かなくなり、きれいに映らなくなります。我々の自律的な知的生命活動をする、その活動に支障が出る。そしてその故障はすぐに、無数の大脳によって修理されることになります。実際は誰もが高度情報機能の技術者ということで、常に維持修理され、快適な状態に保たれるでしょう。もちろん、さらに優秀なもの高度なものを作るという仕事としても、個々の大脳は関わっていることになります。そしてあるところまで発展した時、我々の生きるという活動は生命化する、それを実感することになる。

15 知的統合の一生

 我々が飛行機によって大空を飛ぶ自由を手に入れたように、空間段階の文化によって、個人の知的な生命活動の自由は飛躍的に大きなものになります。また仕組みの高度化で、様々な個性的な状況に対応できる高性能なものになります。その場、機会がいくらでも用意され、知的な生命活動は多種多様な仕組みで支援され、自然な形で促されます。まさに統合体段階の文化で苦労をしたのがうそのようです。もちろん誰彼なしにです。

 よって我々の内面も、統合体段階の文化では考えられなかった、非常に充実した豊かなもので満たされることになるでしょう。生命として、育てる必要があるにもかかわらずにそれができず、かえって負の統合がされてしまう状況が一変されるというわけです。年齢と共に変化する課題に、社会の変化に、素早く適切に対応できることが、どれだけ充実し快適なものか、これが空間段階の文化によって本当に現実のものとなる。

 個人の知的な生命活動の自由とは、自らの個性のままに、興味の赴くままに、時間や場所の制限もなしに、一人で時にはチームで、いくつものチーム、グループ、組織を越えて、何の制約もなしに統合活動を続けることができます。やりたければどうぞというよりは、もう少しお節介ではない世話好きという感じでしょうか、そのような社会のイメージがあります。よって空間段階の文化の性能を高め、知的統合空間のさらなる発展をさせることが、我々の創造活動(=知的な生命活動)ということができます。そして優秀な誰かではなく、大脳を持つ誰もがこのように生きる。まさに人間を生きるということになります。

 そしてさらに、身体の驚異的な仕組みによる生命活動と同じように、生きるという活動のすべてにおいても、本当は緻密で繊細、広範な内容で生命活動といえるところまで機能する、生命化ができると考えています。

あとがき

 知的統合空間は、もうずいぶん前に地球を覆うまでになっていると考えられます。しかし統合体段階の文化は強大な力を持つにいたり、この地球を破壊するのではないか、そのような不安を多くの人に抱かせています。

 最後に、もう少し具体的な例で空間段階の文化を見てみます。前述の統合体段階の文化のところで、能力、性格に左右される、人間を置く仕組み、というのがありましたが、この人間を道具にするという方法は、空間段階の文化では、人間の作った道具を置くということになります。
 人間を置く代わりに、文化としての逆流線形のアメリカ号を作り、皆でこの船を走らせ、性能をさらに高めていくことになります。もちろん乗組員は技術に熟練することになるでしょう。つまり空間段階の文化という、誰もが納得できるものとしての基礎技術を置き、これを進化させる。そこに置かれる人間によって状況が変わり、振り回され、仕事が進まない、自分だけうまいことやる、といったことは無くなるでしょう。その上で、これまでになく個性的に育った人間がその能力を思う存分発揮することになります。まさに宇宙や自然の統合空間と同じものを手にしたといえるものです。その世界がどんなに豊かなものか、今は想像することさえ難しいかもしれません。

 このようにして、知的統合空間という広い世界は、実際に広がっているその大きさで誰の目にも見えて来るでしょう。見えてくれば、その世界に飛び出さないわけには行かない。何しろ、そこは自分と一体の、自分の舞台ですから。

 今は、まだ出帆準備はおろかアイデアを実現しようとする段階で苦労する、アムンゼンの姿を自分に重ねています。これだけ大事なテーマですので、無事出帆することができるまで、一休みすることはあってもやめることはありません。しかし出帆できても、その後の航海は本当に長いものになる。これも川喜多二郎さんの本からだと思うのですが、棒ほど願って針ほどかなう、残された私の人生においては、出帆さえできればもう十分すぎるかもしれません。

2017/11/03(金)

丸亀市

佐藤正志



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